【R#411】身体を持った知能 ──AIの開発者たちが、ロルフィングを思い出させてくれた

はじめに

先日、Demis Hassabisの伝記『The Infinity Machine』を読み終えた。その少し前には、三年前に一度手に取ったWalter Isaacsonの『Elon Musk』も再読していた。二冊を続けて読むうちに、ひとつの感覚が静かに育っていった。人工知能は単なる技術ではなく、それを生み出した人の「世界観」──私が「認識のOS」と呼ぶもの──を、色濃く映し出しているのではないか、と。

HassabisとMuskには、意外な共通点がある。二人とも、幼い頃から熱心なゲーム好きだった。けれど、同じゲームを愛しながら、そこから見出したものはまるで違っていた。

経営者の世界観が人工知能に現れる

Hassabisが惹かれたのは、「人はどのように考えるのか」という問いだった。チェスやゲーム開発を通じて、探索や戦略、未来のシミュレーションに関心を寄せ、その延長線上で神経科学(neuroscience)へと進んでいく。彼が研究した海馬(hippocampus)は、記憶だけでなく、未来を想像する力にも深く関わっている。脳は単なる記憶装置ではなく、過去をもとに未来を描く装置なのだ。この発想がDeepMindに受け継がれ、AlphaGoや近年の推論モデルへとつながっていく。

一方、Muskは、「世界はどんなルールで動いているのか」という問いに惹かれたように見える。TeslaでもSpaceXでも、出発点はいつも同じだ。「物理法則に反していないか?」。それが象徴的に表れているのが、自動運転である。多くの企業がレーダーやLiDARに頼るなか、Muskは「LiDARは松葉杖だ」と言い続けてきた。人間はLiDARを持たない。それでも運転できる。ならば運転に必要な情報は視覚の中にあるはずで、問題はセンサーではなく知能の側にある──と。

そして、その先にあるのが人型ロボットOptimusだ。自動運転で育てた「認識→予測→行動」の仕組みを、人間型の身体に宿そうとする試みである。コップをひとつ持ち上げるという単純な動作でさえ、位置を認識し、重さを予測し、重力のなかでバランスを取りながら、はじめて成り立つ。だからOptimusの本質は、ロボット工学というより「身体を持った知能(Embodied Intelligence)」への挑戦と言えるだろう。

ここで思い出すのが、近年の認知科学が語る身体性認知(Embodied Cognition)という考え方だ。知能は脳の中だけで完結するのではなく、身体と環境との相互作用のなかで生まれる。歩くこと、触れること、道具を使うこと──その経験そのものが、認知を形づくっていく。

身体性認知とは何か?

そこまで書いてきて、私はようやく腑に落ちた。これは、私がロルフィングのセッションで毎回触れていることそのものではないか、と。

ロルフィングで身体の組織やバランスが変わると、不思議なことが起こる。視界が広がったように感じる。足裏が床と語り合いはじめる。呼吸が深くなり、世界との距離感そのものが変わる。多くの方が、施術のあとで「景色が違って見える」と口にする。これは比喩ではない。身体が変われば、世界の受け取り方が変わる。身体性認知が教えてくれるのは、まさにこのことだ。知覚は、頭の中の出来事ではなく、身体という場所で息づいている。

だから私は、ロルフィングを「身体を整える」技法だとは、もう思っていない。身体を通して「認識を整える」営みだと感じている。姿勢が変わるのは結果であって、目的ではない。本当に変わっていくのは、その人が世界とどう関わるか──「感覚のOS」とでも呼ぶべき、世界の受け取り方そのものなのだ。

生命科学と人工知能

大学院で、私は生命科学を専攻し、分子のレベルから生命現象を見つめていた。人工的に知能を、あるいは生命を作り上げようとする試みに、どんな意味があるのか。長いあいだ、うまく言葉にできずにいた。けれどAIという鏡を通して眺めると、見え方が変わってくる。HassabisもMuskも、認知科学も、そしてロルフィングも──出発点は違えど、結局は同じ一点に向かっているのかもしれない。

「世界を理解し、未来を予測し、行動できる知能とは何か?」

AIについて学んでいるつもりが、いつのまにか人間そのものを、そして身体というものを学んでいる。最近、そんな感覚が静かに育っている。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka