はじめに
渋谷でロルフィング・セッションを提供している大塚英文です。
先週末、市ヶ谷でのロルフィング・アドバンスト・トレーニングの後半の最初の4日間が終わった。

前回のブログでも書いたように、このトレーニングでは「Neutrality(中立性)」というテーマが繰り返し強調されていた。けれど、それは単なる観念ではなく、極めて身体的で、生々しい実感を伴うプロセスでもあった。
「Neutralにいる」とは、“ただ何もしない”という意味ではない。
それは、
- 「コントロールしよう」とする力みを手放し、
- 「変えなければ」と思う焦りに気づき、
- 目の前の人の生命のプロセスに、そっと寄り添う姿勢──
そうした“在り方”を、自分の身体を通して調律していく行為なのだ。
HARAに立つ──「肚」が生む、ちょうどいい張力
Neutralityを探るうえで、私がこの1週間、特に意識していたのが「丹田」──いや、より正確に言えば、「肚(HARA)」の感覚だった。
この感覚は、今回のトレーニングの講師の一人、田畑浩良さんから学んだこと。田畑さんは、様々な試行錯誤を繰り返す中、尾骨から数えて2、3個目の位置の空間(HARA・肚(はら)と呼ぶ)を意識すると、身体軸が整い、身体全体の力が抜けていくことがわかったそうだ(詳細は、こちらにも書いた)。
HARAの周囲には骨(腸骨・仙骨)や内臓(腸・血管・筋膜)が密集しており、すでに「構造」がそこにある。だからこそ、HARAを意識するだけで、周囲の筋膜ネットワークによって自然と身体が支えられるという感覚が立ち上がってくる。
このとき、自律神経系で言うところの、過緊張(Fight or Flight)でもなく、虚脱(Freeze)でもない、「ちょうどいい張力(tonus)」の状態が生まれる。
言い換えれば、
- 過剰に“頑張らない”けれど、
- 緩みすぎてもいない、
- 中立的で、生きた張りがある状態。
この身体の質感があると、セッションにおいても「相手を何とかしよう」とする介入的エネルギーが下がり、より開かれた空間が生まれる。Neutralityとは、まさにこのような「構造的サポートの上に成り立つ、安定したBeingの配置」なのだ。
目で見ることの限界、身体で感じることの可能性
トレーニング中、ある瞬間ふと気づかされたのは、「目で見ていると、相手の身体の“表面”しかわからない」という事実だった。
たしかに視覚は多くの情報を与えてくれる。けれど、目は評価しがちであり、分類しがちでもある。「歪み」「非対称」「硬さ」…それらの“ラベル”が、身体を全体として感じる力を曇らせてしまう。
むしろ、自分の身体全体で“感じ取る”とき、まったく違う風景が立ち上がってくる。
- 手を添えると、相手の内側で起こっている“緊張と緩和のせめぎ合い”が伝わってくる。
- 足裏で床を感じ、HARAに意識を置いていると、相手との関係性のトーンまで微細に変化するのがわかる。
- 手の添えた箇所の意識と、身体全体を含めた意識だと、後者の方が受け取れる情報が変わってくる。
つまり、目で観察することには限界があるが、身体で感じることには“開かれた可能性”がある。
Neutralityとは、この“全身で聴く”ような在り方を意味しているのかもしれない。
実際、講師のRay McCallと田畑さんから、フィードバックをいただきながらセッションの取り組んでいるが、身体が緩んだ瞬間に身体が変わっていくことを実感した。
マインドフルネス──評価せず、ただ観察する力
そしてもうひとつ大切なのが、「評価せずに観る」こと。これは、マインドフルネスの基本と言ってもいい。トレーニング期間中、マインドフルネスの練習も行っているが、Neutralityに非常に役立つ。
身体の観察をするとき、つい「硬い」「歪んでいる」「リリースさせたい」など、頭の中で評価を下し、それに基づいて介入しようとしがちだ。
けれど、Neutralな在り方とは、「今・ここに起きていること」を、そのまま受け取ること。
言い換えれば、
- 「何が正しいのか」ではなく、
- 「何が今、起きているのか」に意識を置くこと。
この“気づき”の質が変わると、セッションそのもののリズムが変わってくる。相手の身体も、こちらの介入を“防衛”しなくなる。すると、より深い層にある緊張や、未完了のプロセスが自然と浮上してくる。
Neutralityとは、単に“干渉しないこと”ではなく、「今ここで起きているプロセスを、評価を加えずに待てる存在であること」なのだ。
まとめ〜「Being」は、関係性の中で鍛えられる
気づけば、技術よりも、在り方(Being)の方がずっと難しい。なぜならそれは、自分の「反応癖」や「焦り」を炙り出す鏡でもあると言ってもいいから。
けれど、だからこそ、関係性の中でこそ育まれていくものでもある。
Neutralityとは、内的な「立ち位置」をつくり続ける行為であり、
HARAに息を通し、構造的な支持を感じ、五感をひらき、評価せずに“ただそこにいる”ことなのだ。
この在り方が、相手にとっての「安全な場」を生み、結果として深い変化を促す──
そんな気づきを、この1週間、身体ごと受け取っていた。
少しでもこの投稿が役立つことを願っています。