【R#402】身体で世界に入るということ― 熊野修験とロルフィングの交差点 ―

はじめに

渋谷を拠点にロルフィング®のセッションを行っている大塚英文です。

先日、三井寺の近くにある大人の寺子屋「余白」にて、福家俊彦さんによる修験道の講義を受ける機会があった。

その中で語られていたのは、「自然を理解する」のではなく、「自然の中に入る」という世界観だった。

この話を聞いたとき、私の中で強く重なったのが、熊野での体験だった。

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熊野で感じた「自然との距離」

熊野を訪れた時、最も印象的だったのは、日本人が自然とどのような距離を取っているのか、という点である。

紀伊半島は、水害が多く、森林が深く、川や滝が至るところに存在する、非常にダイナミックな自然環境を持つ場所である。

その中で、日本人は自然を「支配する」のではなく、

どのように敬い、どのように共にあるか

を問い続けてきたのではないかと感じた。

熊野の神社を巡る中で、自然に委ねるとは何か、自然とともに生きるとは何かを、身体を通して考えさせられた。

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「あるがまま」の自然に入る

訪れた熊野の神社には、

人の手が入りすぎていない、あるがままの自然

がそのまま残っている感覚があった。

整備されすぎた空間ではなく、森の湿度、空気の重さ、水の音、そういったものが、ダイレクトに身体に入ってくる。

そしてその中に入ると、

自然の声を「聞く」ことができる

という感覚になる。

それは音として聞こえるわけではない。しかし確かに、身体が反応し、呼吸が変わり、感覚が開いていく、そのプロセスが起きる。

「生かされている」という感覚

その体験の中で立ち上がってきたのは、

「自分が生かされているのだ」

という感覚だった。

普段は、自分が何かをコントロールしている、自分が人生を動かしている、と思っている。

しかし熊野の自然の中では、その感覚がほどけていく。

代わりに、自然の中で存在している、支えられている、という感覚が立ち上がる。

そこには自然と、感謝の気持ちが生まれる。

ロルフィングにおける「入る」という体験

この体験は、ロルフィングのセッションと非常に似ている。

ロルフィングに来られる方の中には、頭ではわかっているのに動けない、何をしても変わらない、という状態の方が多い。

あるクライアントも、組織の方向性が見えない、人間関係がうまくいかない、自分の軸がわからない、という状態にあった。

身体から変わることで起きる変化

ロルフィングの中で起きたのは、「理解」ではなく、身体からの変化だった。

  • 身体の軸が整う
  • 姿勢が変わる
  • 呼吸が変わる

その結果として、

  • 人間関係が変わり
  • 組織の軸が明確になり
  • 自分の方向性が見えてくる

という変化が起きた。

興味深いのは、

自分が変わると、他者も変わるように見える

という点である。これは、関係性そのものが変わったことを意味している。

自然と身体は同じ構造を持っている

熊野での体験とロルフィングに共通しているのは、

「関係性に入る」ということ

である。

自然も身体も、固定されたものではなく、常に関係の中で変化している、存在である。そしてその関係性に「入る」とき、分離がほどけ、感覚が開き、構造が変わる。

まとめ

ロルフィングのセッションに来られる方の中には、自分と向き合うのが怖い、でも変わりたい、という方が多い。しかし、無理に向き合う必要はない。

熊野の自然の中に入るときのように、ただ身体を通して、その場に「入る」ことでよい。そうすると、感覚が開き、関係性が変わり、自然と変化が起きる。

それは、

私たちは理解によって変わるのではなく、「関係性に入ること」によって変わる存在だからである。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka