はじめに
前編では、奈良国立博物館の特別展「南都仏画 ── よみがえる奈良天平の美」で見た、仏画の身体について書いた。彫刻が量塊で身体を示すのに対して、仏画は輪郭の線と、衣のしわの線だけで身体を示す。そして鎌倉時代、南都絵所の絵仏師・重命(ちょうみょう)が、岩を踏む四天王を線だけで描いていた。
→ 線として引かれた身体(前編)── 仏画の身体と、南都絵所の重命
前編で一つ、宿題を残した。平安時代の仏画が、ほとんど記憶に残らなかった。国宝の十一面観音像も出ていたのに、目の前に何があったかを再現できない。その理由を後編で書く、と。
その答えに向かって、まずは一つの寺の話から始めたい。
消えた寺 ── 内山永久寺
前編で触れた第5章の主役である内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)が、この日いちばん長く立っていた場所だった。
内山永久寺は、天理にあった寺である。永久2年(1114)、鳥羽上皇の勅願により創建された。興福寺の有力な末寺として発展し、「西の日光」と称されるほどの壮麗な伽藍を誇ったという。

いまは、何もない。
明治初年の神仏分離令によって廃絶した。堂塔は跡形なく撤去され、いまその場所に残っているのは、本堂の前にあった池と、後醍醐天皇が身を隠したという萱御所跡の石碑だけである。廃仏毀釈を受けた寺院のなかでも、ここまで徹底して消えた例は珍しいという。
つまり、建物は一棟も残らなかった。
残ったのは、堂内を飾っていた絵と像だった。それらは各地へ散逸した。前編で書いた重命の四天王像はボストンへ渡り、康円の不動明王は世田谷にある。真言堂の須弥壇の建具だったと考えられる国宝「両部大経感得図」は、大阪の藤田美術館にある。
この感得図には、もう一つ面白い点がある。平安時代・保延2年(1136)、藤原宗弘の筆。こちらは南都の絵仏師ではなく、京都の宮廷で活躍した絵師が奈良の大寺院のために描いたやまと絵だという。
つまりこの寺には、京の宮廷絵師の仕事と、南都絵所の職人の仕事が同居していた。百年あまりの隔たりを置いて、性格のまるで違う二つの手が、同じ寺のなかにあったことになる。
この展示は、そうやってばらばらになったものを、一時的に一か所へ集め直していた。まぼろしの名刹の堂内が、展示室のなかで部分的に再現されていることになる。
そしてもう一件、この章に置かれていたものが忘れられない。
仏像彩画円柱(藤田美術館蔵、8月23日までの展示)。八角形の建築の内陣を飾ったとみられる8本の柱で、菩薩などが描かれている。内山永久寺の建物を飾っていた可能性があるという。
余談だが、同じ藤田美術館の両部大経感得図は8月25日からの展示で、この円柱と入れ替わる。訪ねた日に出ていたのは柱のほうだった。展示替えは、見られるものと見られないものを決める。
柱そのものが、画面だった。
平面と立体の分担、という話をしてきたが、これはその両方でもない。建築の構造材に、直接、身体が描かれている。堂の内側に入った人は、八本の柱に囲まれることになる。絵に囲まれるのではない。建物そのものが身体で覆われている空間に入る。
そして、ここで一つ、自分の見立てを修正しなければならなくなった。
寺が消えたとき、立体が失われて平面が生き延びた——最初はそう考えていた。運べるものが残り、運べないものが消えたのだ、と。
だが、柱は運ばれている。
建築部材としてではなく、絵として運ばれた。構造から切り離され、画面として扱われることで、生き延びた。八角堂は消えたが、その八本の柱は残った。
残るか消えるかを分けたのは、大きさではなかった。画面として切り出せるかどうかだった。
石上神宮と、鶏
もう一つ、個人的な発見がある。
内山永久寺は、石上神宮の神宮寺として発展した寺だった。神仏分離令は、その神と仏を切り離した。寺は消え、神社は残った。
そして、内山永久寺の建物のうち、ただ一棟だけ生き延びたものがある。鎮守だった住吉社の拝殿である。本殿は明治23年に放火で焼け、拝殿だけが荒れたまま残された。それを大正3年、約800メートル離れた石上神宮へ移築した。いまは摂社・出雲建雄神社の拝殿として建っている。国宝である。
保延3年(1137)の建立で、13世紀から14世紀の改築を経て現在の形になった。桁行五間、梁間一間の細長い建物で、中央の一間だけ床を張らず、土間の通路にしている。割拝殿と呼ばれる形式の、最古の遺例だという。
石上神宮には、行ったことがある。2025年2月8日である。
そのときの記憶をたどってみて、少し驚いた。はっきり残っているのは、鶏だった。
石上神宮の境内には鶏が放し飼いになっている。神の使いとされていて、こちらを気にする様子もなく歩き、木に上がっていく。冬の境内で、それがやたらに印象に残った。
そして、国宝の拝殿のことは、少ししか覚えていない。
つまり私は、内山永久寺の唯一の遺構の前に、すでに立っていた。それと知らずに。
前日、東大寺の戒壇院で同じことを考えていた。三十年前、あの石段の前を素通りしていた。読んでいなかったから、見えなかった。場所が違うだけで、構造はまったく同じである。見ていたのに、見えていなかった。
そして、この一棟の残り方には、もう一つ考えさせるものがある。仏教の寺の建物が、**神社の建物として生き残った。**廃仏毀釈は仏と神を分ける運動だったが、結果として残ったのは、名前を神のほうへ移した一棟だった。分けようとした力が、分けきれなかったものを残している。
春日曼荼羅 ── 分けられる前に描かれた絵
この展示で、もう一つ印象に残ったものがある。春日曼荼羅である。

春日大社への信仰にもとづく礼拝画の総称で、社殿と神域の景観を描く「春日宮曼荼羅」や、春日神の使いとされた神鹿を描く「春日鹿曼荼羅」がある。これも南都絵所の絵仏師たちの仕事だった。ボストン美術館が所蔵する、国内では見る機会のなかった作品も出ていた。
垂迹画(すいじゃくが)と呼ばれる種類の絵である。仏が、神の姿をとって現れる。その考え方を絵にしたものだ。
ここで、話が一つにつながる。
春日曼荼羅は、神と仏が分けられる前の世界を描いた絵である。
そして同じ展示のなかに、分けられた結果として消えた寺の遺品が並んでいる。内山永久寺の四天王、康円の不動明王、八本の柱。石上神宮の神宮寺だった寺のものである。
習合を描いた絵と、分離の傷跡が、一つの展示に同居している。
数百年かけて重ねられたものを、明治の数年が引き裂いた。そう書くと単純化しすぎだろうか。ただ、展示室を歩いていると、その二つが同じ空間に置かれていることの重さは、理屈より先に伝わってくる。
記憶に残ったもの、残らなかったもの
ここで、前編に置いた宿題に戻る。
この日、記憶に残ったものを並べてみる。
- 重命の四天王像。岩を踏み、体重を移しつつある身体
- 仏像彩画円柱。八本の柱に囲まれる空間
- 春日曼荼羅。社殿と、御蓋山と、神鹿
- そして石上神宮の、歩いている鶏
残らなかったものも並べてみる。
- 平安の十一面観音像。静止した、優美な身体
- 国宝の割拝殿。九百年近く、動かずに建っている建物
はじめは、残ったものは全部動いているのだと思った。四天王は体重を移しつつあり、鶏は歩いている。**目は、動くものを勝手に拾う。**訓練も知識も要らない。
だが、春日曼荼羅は動いていない。社殿と山を描いた景観図である。
考えてみて、もう一つの理由に行き当たった。あそこは、前日に歩いた場所だった。春日大社、御蓋山、奈良公園。絵のなかの神鹿は、その前日、木陰に寝そべっているのを何十頭も見ている。
つまり、残ったものには二種類あった。動いているものと、自分の身体が通った場所である。
どちらも、知識を必要としない。目が勝手に拾うか、身体がすでに知っているか。そのどちらでもないものは、通り過ぎる。
平安の十一面観音は、動きもなく、行ったことのある場所でもなかった。だから残らなかった。
そして割拝殿は、行った場所のなかにあった。それでも残らなかった。場所は身体が覚えている。だが、その場所のなかで何を見るかは、見方を持っていないと決まらない。
これは、身体を扱う仕事をしている人間として、正直に書いておきたい発見だった。平安の優美な身体が持っている情報は、静止のなかにある。それを読む枠を、私は持っていなかった。
三つの時代を並べて見えたこと
ここで、10年以上前に自分が書いたことに戻りたい。
ロルフィングの基礎トレーニング中、絵画史と身体について二度に分けて書いた。そこで扱った西洋絵画史の流れは、おおよそ次のようなものだった。中世キリスト教絵画では身体は二次元的に表現され、ジョットが三次元的な空間を持ち込み、ラファエロが対称性を数学的に扱い、印象派が消失点による奥行きを獲得する。
この流れには、方向がある。二次元から三次元へ。進行として書ける。
ところが南都仏画は、そうならなかった。
奈良の天平が規範として置かれ、平安がそこから優美の方向へ離れ、鎌倉が天平へ戻る。進歩ではなく、規範からの離脱と回帰の往復である。しかも戻ったときに重さと動きが加わって、戻ったのに同じ場所ではない。重命の四天王が示しているのは、その到達点だと思う。
さらに内山永久寺のような例もある。歴史は、足していくだけではない。引くこともある。堂宇が一棟残らず消えて、絵と柱だけが各地に散る。そういう引き算のあとに残ったものを、私たちはいま展示室で見ている。
これは、自分が10年以上前に立てた枠組みへの反証になる。**身体観の歴史は、一方向に進むものではない。**西洋絵画史を進行として読めたのは、対象がそういう形をしていたからで、身体認識の歴史が本質的に一方向だからではなかった。
東側から見直して、はじめてそれが分かった。前回の記事で「10年以上前にたどった道筋を東洋側から見直す機会になった」と書いたが、見直した結果として出てきたのは、道筋そのものの修正だった。
ロルファーは、身体を線で見ているのか、立体で見ているのか
最後に、仕事の話に落としたい。
セッション中、私は二つの見方を往復している。
触るときは立体である。量塊、重さ、方向、床との関係。手が扱っているのは三次元の構造で、そこに線はない。
見るときは線である。輪郭、左右差、頭がどこに乗っているか、肩から腕がどう落ちているか。立って歩いてもらったときに読んでいるのは、ほとんど線の情報だ。
10シリーズの構造にも、これは対応している。セッション3で側面から空間の広がりを扱うのは、身体を三次元として捉え直す作業である。一方でセッション7の顔と頭は、頭の位置という一点が身体全体の線をどう変えるかを扱う。絵画の歴史で、モディリアーニやピエロ・デラ・フランチェスカを引いたのは、まさにそこだった。
線で見て、立体で扱う。
そして、石上神宮の鶏に戻ってくる。動いているものは、目が勝手に拾う。歩いてもらえば情報は自然に出てくる。難しいのは、立ち止まっているときの身体である。動かないものを読むには、読み方を先に持っていなければならない。
仏画を大量に見ることが訓練になるとすれば、そこだと思う。仏画は、動かない身体しか描かない。それでも身体として見える。何が身体を身体として見せているのかを、線だけで示してくれる教材になっている。
上野で立体を見て、奈良で線を見た。二日の間隔で、身体の見方の両側に触れたことになる。
次は、自分の身体で歩く。8月に四国へ行く。歩くとは何かを、次回は骨と腱の話として整理したい。
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- 線として引かれた身体(前編)── 仏画の身体と、南都絵所の重命
- 線として引かれた身体(後編)── 本記事
参考
- 特別展「南都仏画 ── よみがえる奈良天平の美」奈良国立博物館(ボストン美術館共同企画)2026年7月18日〜9月13日
- 第5章「内山永久寺 ── 南都仏師・絵仏師の競演」
- 四天王像 鎌倉時代・建長5年(1253)頃 重命筆 ボストン美術館(Fenollosa-Weld Collection)
- 仏像彩画円柱 藤田美術館(展示期間 〜8月23日)
- 両部大経感得図(国宝) 平安時代・保延2年(1136) 藤原宗弘筆 大阪・藤田美術館(展示期間 8月25日〜9月13日)
- 不動明王および八大童子像(重要文化財) 鎌倉時代・文永6年(1269)康円作/文永9年(1272)重命彩色 東京・世田谷山観音寺
- 春日宮曼荼羅 南北朝時代(14世紀) ボストン美術館ほか、春日曼荼羅の諸作
- 十一面観音像(国宝) 平安時代・12世紀 奈良国立博物館
- 特別展公式サイト「みどころ 第5章」 https://nantobutsuga2026.exhibit.jp/highlights/chapter5/
- 国宝「石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿」(もと内山永久寺鎮守住吉社拝殿、大正3年移築)
- 中村元『東洋人の思惟方法』
