ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか
この解説の目次

はじめに
ロルフィングの10回のセッションを続けていると、身体の使い方が変わるだけでは済まないことが起きる。その人の生き方のほうが変わっていく。渋谷でセッションを提供してきて、これを何度も見てきた。
問題は、これをどう言葉にするかだった。身体が変われば心も変わる、という言い方では何も説明していない。身体のどこが、どう変わると、生き方のほうが変わるのか。言語化しないまま、セッションに臨んできた。
言葉を探していく中で出会ったのが、Jeffrey Maitland の Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology(1995)だった。ロルファーであり、哲学の終身在職教授であり、禅の実践者でもあった人である。

21年後の Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy(2016)と合わせて、ここではこの2冊を手がかりにする。どちらも日本語版は出ていない。本文で引く訳は、すべて筆者によるものである。

この記事は、その全体を示すものである。そして、続く4本の連載記事への入口になる。
変化(change)と、変容(transformation)は違う
Maitland が最初に立てているのが、変化(change)と変容(transformation)の区別である。
変化(change)には、手順が要る。どこをどうすれば何が起きるか、という順序が決まっていて、そのとおりにたどれば結果が出る。ここで働いているのは、計算する自己(calculating self)と、意志(will)である。そして手順は、たどる当人を変えないまま、結果だけを作る。レシピどおりに料理を作っても、作った人は料理の前と後で同じである。
変容(transformation)のほうは、そうならない。その計算する自己と意志が死に、新しい自己と意志が生まれることを求める。結果が変わるのではなく、結果を求めていた当人のほうが変わる。
だから Maitland は、変容のテクノロジー(technology of transformation)という言い方は語義矛盾だ、と書いている。手順があるなら、それは変化である。変容に手順はない。
ボディワークの世界では、変容がしばしば技法として語られる。この区別を知ると、その語り方が成り立たないことが分かる。同時に、では10回という手順は何なのか、という問いが出てくる。
これについては、第4回で扱う。手順どおりに進めるやり方には何が抜け落ちるのか、そして、では何を基準に終えるのか、という話になる。

trans は、越えて、であって、変える、ではない
transformation という語を、形を変えること、と読むと間違える。この語は trans と formation に分かれる。trans は、越えて、という意味であって、変える、という意味ではない。だから変容とは、形(form)を変えることではなく、形に対して別の関係を取ることになる。
Maitland は、大西洋横断飛行の例を挙げている。大陸の位置は変えられない。だから、間を飛ぶという新しい関係を取る。大陸は動いていないのに、大陸との関係のほうが変わっている。
ロルフィングで言えば、これが重力にあたる。重力は変えられない。アイダ・ロルフ(Ida Rolf)がしたのは、重力を減らすことではなく、重力との関係を変えることだった。負担として受けている状態から、支えとして使える状態へ。重力そのものは、何も変わっていない。
そしてこれは、重力だけの話ではない。その人の骨格も、育ってきた経緯も、これまでの習慣も、変えられない。変えられるのは、それとの関係のほうである。
語をさかのぼるという方法
いま見たのは、語を分解して元の意味に戻る、というやり方だった。これは Maitland が本の全体で使っている方法で、2冊を読む面白さの1つでもある。日常で使っている語を元の形に戻すと、その語が本来指していたものが現れる。
たとえば understanding(理解)は、文字どおりには、下に立つこと(to stand under)である。頭でっかちだ、と言われる状態を、彼はこう言い換える。その人の考えの下に、立っているものがない。理解とは、考えの下に何かが立っていることなのだ、と。
responsibility(責任)は、応答する能力(the ability to respond)である。負わされるものではなく、応えられること。crisis(危機)は、曲がり角(a turning point)である。悪いことという意味は、元の語にはない。
emotion(感情)は、e と motion に分かれる。外へ動くこと。expression(表現)は、押し出すこと(pressing out)。どちらも、感情が内側にしまわれたものではなく、外へ向かう動きだと示している。この話は、第2回で扱う。
身体は、天と地のあいだに張り渡されている
この方法で見つかった語を、1つだけ詳しく見ておきたい。ロルフィングの文脈でよく使われる palintonos である。アイダ・ロルフ(Ida Rolf)は、身体の張りを言うのにドイツ語の Spannung を好んで使っていた。張力、伸び、張り渡されていること、張りつめた高まり。その全部を含む語だが、英語にはこれを一語で受けられるものがない。代わりを探していた Maitland が行き当たったのが、ヘラクレイトス(Heraclitus、紀元前500年ごろの哲学者)の一文だった。弓と竪琴のように、前後に張り合っている調和。この、前後に張り合っている(stretched back and forth)にあたるギリシャ語が palintonos である。
tonos は、英語の tone の語源で、音のトーンにも、筋肉のトーヌスにも、感情のトーンにも使われる。ただ伸びていることではなく、調律された弦のように、ちょうどよく張られていることを指す。palin のほうは、前後に、という意味で、回文(palindrome)の palin と同じである。弓も竪琴も、弦が両側に引かれているから働く。張りをなくせば、どちらも使えない。palintonos が、対立するものの統一、と訳されるのは、そのためである。
では、なぜ身体の張りが、それほど重要なのか。人は、背骨を地面と平行にして暮らす動物とは違う。足を地につけ、頭を上へ持ち上げた形で立っている。地に根づくことと、上へ伸びることは、別々の出来事ではない。同じ1つの張り合いの両側であって、片方だけでは成り立たない。地に根づいているから、上へ伸びられる。整った身体とは、この張り合いが働いている身体のことになる。
そして Maitland は、この張り合いを、限界と可能性の間の張り合いとしても書いている。地と過去の側が限界、天と未来の側が可能性である。限界が締めつけすぎず、可能性が足を浮かせすぎない。その間を生きることが自由だ、と。第4回で扱う限界と可能性は、ここにつながっている。

別人になるのではなく、より自分になる
この読み方をすると、変容が何でないかがはっきりする。理想の姿を決めて、そこへ自分を合わせていくことではない。
Maitland は、ロルフィングを受けていたある人の話を書いている。最初は、自分を別の誰かに作り変えるものだと思っていた。続けるうちに、そうではないと分かった。自分が自分であることを、許されているのだと。
同じことを、10回を終えた方が書いている。
ロルフィングを受けて、人生が変わったとも感じるし、ずれて進んでた道から元の道に戻ることができた、そんな感じもある。
関田啓佑様(会社員・編集者)の10回体験記
元の道に戻った、という書き方に目が留まる。新しい道へ移ったのではない。もともとあった道のほうへ戻っている。人生が変わった、と、元の道に戻った、が矛盾なく並ぶのは、変容がそういう形をしているからである。
では、その戻る先にある自分とは、どの自分なのか。
より自分になる、の「自分」とは何か
Maitland は、ここで自己を2つに分けている。
第2回で扱う中心と表層(core/surface)が、そのまま自己の話になる。表層は、自我としての自己(ego-self)である。意志であり、世界へ向かう向きそのものである。中心は、真の自己(true self)である。そのままに在ることであり、そこから世界へ向かっていく、向かう元の場所である。
自我という語は、取り除くべきものとして使われることが多い。彼の使い方は違う。自己は、はじめから中心と表層の両方として育つ。真の自己と自我としての自己の、両方として育つ、と書いている。どちらか一方が要らないのではない。
問題は、2つが分かれていないことのほうにある。葛藤を抱えた状態からは、中心と表層を、真の自己と自我としての自己を、経験の上で区別することがほとんどできない。そして彼は、この区別が経験の上で起きることこそ、自己が完成するために必要なことだ、と書いている。

だから、より自分になる、は、自己の完成(completion of self)という言い方になる。別の自分になるのではない。もともと2つで育っていたものが、経験の上で分かれる。分かれたときに、自分が自分であることが、葛藤なしに現れる。
Maitland は、この道筋を3つの段階として書いている。1つめが、分離した自己ができること。2つめが、自己の完成、つまり真の自己の実現。3つめが、仏教が無我(no-self)と呼ぶもの、彼が spacious body と呼ぶものである。本の題は、ここから来ている。
この連載で扱うのは、2つめまでである。
在り方があるとき、変容が起きる
では、手順がないのなら、どうやって起きるのか。
Maitland の答えは、allowing の中で起きる、というものである。この語を、ここでは、そのままに在ること、と訳す。日常語の許可とは違う意味で使われていて、しかも受け身ではない。能動(active)も受動(passive)も、どちらも意志の形だと彼は書いている。行為に出ることも意志なら、動かずにいることも意志である。そのままに在ることは、そのどちらでもない。することの仕方(a way of doing)ではなく、在ることの仕方(a way of being)である。

注意したいのは、allowing によって変容が起きる、とは書かれていないことだ。allowing の中で起きる、と書かれている。原因ではなく、場のほうである。そのままに在ることが成り立っているとき、そこで変容が起きうる。
施術する側から見ると、これは在り方の話になる。何をするかより、どういう在り方でそこにいるかが、起きることを決めてしまう。そちらについては、別の記事でまとめている。
本の題は、何を指しているのか
ここで、本の題に戻っておきたい。Spacious Body である。
まず、spacious のほうから。空間(space)がある、という意味の形容詞である。ただし Maitland は、ここで言う空間は、科学が測る空間でも、デカルトの座標でもない、と断っている。第2回で扱う、生きられた空間(lived-space)のほうである。
恐れているとき、人の空間は縮む。喜んでいるとき、広がる。測れば部屋の広さは同じでも、その人が生きている空間のほうは、伸び縮みしている。spacious body とは、その空間が縮んでいない身体、ということになる。

日本語にするなら、ゆとりのある身体、あたりになる。ただ、空間という語が落ちてしまうので、ここでは原語のままにしておく。
この語が出てくるのは、変容の説明の最後のところである。そしてそこで、Maitland は trans についてもう一歩進めたことを書いている。trans が示している、形との特別な関係。それが、そのままに在ること(allowing)なのだ、と。だから transformation は、そのままに在らせる形づくり(allowing-formation)、あるいは、そのままに在らせる現前(allowing-presence)と言い換えられる、と書いている。
言葉を尽くすとこうなる。変容とは、その人がその人である仕方が、完全に、自由に、葛藤なく現れてくるのを、そのままにさせておくことである。道徳の理想にも、身体の理想にも、精神の理想にも、自分を合わせにいくことではない。
そして、葛藤と固着から解かれたとき、そこに在るものが spacious body だ、と書いている。いまここに立っている、この広がりのある現前のことである。自分で自分の上に立ち、形の限界と、満ちている時のなかで、目覚めていて、くつろいでいる。
つまり、本の題は、目指すべき理想の身体を指していない。葛藤がなくなったときに現れる、その人自身のことを指している。
だから、4つの言葉が要る
Spacious Body に、変容は中心と表層を区別する経験から始まる、という一文がある。そして、中心と表層を区別することは、そのままに在ることと意志を区別することと同じだ、とも書かれている。
つまり変容とは、4つの言葉が指しているものが、経験の中で分かれていく過程そのものである。言葉を覚えてから変容が起きるのではない。分かれていくことが、変容である。
だから、この4つを1つずつ見ていく。
第1回は、前反省(prereflective)。考えるより前の層のことである。姿勢を正そうと考えても元に戻るのはなぜか、という問いから入る。
第2回は、中心と表層(core/surface)。向かう元の場所と、向かう先のことである。感情も、人との距離の取り方も、この2つが作る空間の形として現れる。
第3回は、そのままに在ること(allowing)と意志(will)。力を抜こうと思っても抜けないのはなぜか、という問いになる。
第4回は、限界と可能性(limitation/possibility)。限界があるから可能性がある、という関係である。自由とは、限界を創造的に我がものとすること(freedom is the creative appropriation of limitation)だ、というのが Maitland の定義で、本全体がこの一文に戻ってくる。appropriation は、自分のものにすること。限界をなくすのではなく、自分のものとして引き受ける、という形になっている。
- 第1回 なぜ、よい姿勢はすぐ元に戻ってしまうのか──前反省(prereflective)とは何か
- 第2回 なぜ、同じ部屋が狭く感じたり広く感じたりするのか──中心と表層(core/surface)とは何か
- 第3回 なぜ、力を抜こうと思っても抜けないのか──そのままに在ること(allowing)とは何か
- 第4回 なぜ、理想の自分を目指すとうまくいかないのか──限界と可能性(limitation/possibility)とは何か
この見方の限界
4つ書いておきたい。
1つめは、変容という語を看板にした時点で、Maitland 自身の立場と衝突することだ。変容に手順はない、と彼は書いている。それを受けられるものとして差し出すなら、言えるのは、変容が起きうる条件を整える、までである。起こします、とは言えない。
2つめは、起きなかったときの扱いである。手順ではなく在り方だ、という説明は、変容が起きなかった理由を受けた側に帰することができてしまう。そのままに在ることができていなかったからだ、と。これは説明としては何も言っていないし、受けた側に負担を負わせるだけになる。
3つめは、この区別が測って示す種類のものではないことだ。変化と変容の区別も、中心と表層の区別も、経験をどこで切るかという提案である。だから、この切り方で何が見えるようになるか、という形でしか確かめられない。説明できない場面が出てきたときに、区別のほうを疑えるようにしておく必要がある。
4つめは、真の自己と自我としての自己という分け方が、禅、錬金術、インドの哲学といった複数の伝統から持ち込まれていることだ。Maitland は、それらを同じものを指す別の言い方として並べている。けれども、その同一視そのものは本の中で論証されていない。ここでは、経験を区別するための提案として読んでいる。
まとめ
変化と変容は別である。変化には手順があり、たどる当人を変えないまま結果を作る。変容は、結果を求めていた当人のほうが変わることで、手順がない。
trans は、越えて、である。形を変えるのではなく、形に対して別の関係を取る。重力も、骨格も、これまでの経緯も変えられない。変えられるのは、それとの関係のほうである。
だから変容は、別人になることではない。より自分になることである。そしてこの、より自分になる、は、中心と表層が、真の自己と自我としての自己が、経験の上で分かれることを指している。
続く4本で、その中身を1つずつ見ていく。
参考文献
Jeffrey Maitland, Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology, North Atlantic Books, 1995
Jeffrey Maitland, Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy, North Atlantic Books, 2016
いずれも日本語版は出ていない。本文中の訳は筆者による。
