ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか(第2回|全4回)

はじめに
同じ部屋なのに、広く感じる日と、狭く感じる日がある。壁の位置は変わっていない。では、何が変わったのか。
同じことが、人を相手にしても起きる。ある人の前では、身体が小さくなる。別の人の前では、呼吸が深くなって、部屋ごと広がったように感じる。相手との距離は変わっていないのに、感じる広さが違う。
これを、その日の調子の問題として片づけることもできる。
興味深いことに、Jeffrey Maitland の考え方だと、順序が逆になる。調子が先にあって空間の感じ方が変わるのではない。感情そのものが、空間の形をしている。
全体の見取り図は、総論のページにまとめている。前回は、考えるより前に決まっている(前反省(prereflective)と呼ばれる)ものがある、という話だった。
今回取り上げるのは、2本目の中心(core)と表層(surface)についてである。
腹が立つのは、相手のせいなのか
今回も、Maitland の本でとりあげている例から入りたい。
裸足で歩いていて、床に落ちていた釘を踏む。痛い。そして、その釘を通り道に残していた友人に腹が立つ。
ここで、痛み(Pain)と怒り(anger)は別の種類のものである。痛みは、釘が引き起こしたものだ。釘を踏んで痛くない、という選択はない。けれども怒りのほうは、起きたことによって生まれた感情(emotion)である。腹を立てないという選択もできる。
このため、言い方も変わる。あなたのせいで痛い、とは言わない。あなたのせいで腹が立つ、とは言う。友人は、怒りの原因ではなく、理由になる。
感情には、この、何かについて、という向きが必ずある。何かへ向かっている。この向きのことを、現象学では志向性(intentionality)と呼ぶ。志向性そのものについては、下記の記事で扱っている。
ここで前回の話とつながる。激しく怒っているとき、圧倒されているのは、考えている側のほうだ。その手前では、怒りとその向きに、身をまかせている。感情は、考えたあとでは経験されない。だから、怒っている最中に自分の怒りを冷静に分析できないのは、感情が理屈に合わないからではない。感情と、それを分析することが、別のところで起きているからだ。
感情は、4つの向きをしている
ここで、さっきの向きの話に戻る。
Maitland は、身体を、空間の中に在る物として見ない。空間に対して身体全体がどちらを向いているか、として見る。顔の向きのことではない。立ち方、呼吸の深さ、胸の開き方。それらが合わさって、1つの向きを作っている。これが方向づけ(orientation)である。以下、短く、向き、とも書く。
そして、さきほどの志向性(intentionality)と同じものである。志向性が、空間の中に姿を現したときの形が、方向づけになる。感情が何かへ向かっている、というときの向きは、頭の中にあるのではなく、身体がどちらを向いているか、として現れている。
机は部屋の中に在る。測れば、縦横何センチの場所を取っている。けれども机は、部屋に対して向きを持たない。人は持つ。そしてその向きは、前反省(prereflective)のほうにある。考えて作ったものではない。
そして人が生きているのは、測れる空間ではない。方向づけられた空間のほうである。Maitland はこれを、生きられた空間(lived-space)と呼ぶ。第1回で見た、主観でも客観でもない、あの手前にあたる。
方向づけには幅がある。生きられた空間をあれだけの広さで占めるので人を惹きつける、という人がいる。逆に、生きられた空間がしぼんでいて、ほとんど気づかれない人もいる。あの人はそこに全部はいない、という言い方をすることがある。
この、空間への方向づけの現れ方を、現前(presence)と呼ぶ。
英語では be present ではなく come to presence と書かれる。これはハイデガー(Martin Heidegger)のドイツ語を訳したときの形が残っているためで、もとの Anwesen は、在る、という語に、こちらへ向かって、という意味が付いている。向きが語の中に入っている。ハイデガーは20世紀の哲学者で、Maitland が繰り返し参照している人物である。

そして4つの感情は、この方向づけの違いになる。
恐れ(fear)は、現前したくないことである。そこに方向づけられたくない。だから向きは、世界から離れるほうへ向かう。
悲しみ(sadness)は、現前の喪失である。向かっていた先が失われる。離れるのではなく、方向づけそのものが細くなり、縮んで小さくなる。
怒り(anger)は、現前のある側面を守ることである。方向づけは世界へ向かったままだが、守りの形になる。実際の攻撃にも、想像上の攻撃にも、押し返す構えで向かう。
喜び(joy)は、現前していることが溢れることである。方向づけが外へ広がり、溢れる豊かさで世界を抱く。

4つを並べると、形が見えてくる。恐れは離れる。悲しみは縮む。怒りは守りながら向かう。喜びは広がる。方向づけが、どちらへ、どのくらいの幅で働いているか、の違いである。
ここで、よく混ざるものを先に分けておく。恐れ(fear)と、不安(anxiety)である。
恐れには、必ず対象がある。何かが怖い。だから逃げる方向も決まる。不安にはそれがない。何が怖いのかが言えない。向きがないので、逃げる方向も決まらない。つまり不安は、4つの感情と同じ列に並ばない。向きの1つではなく、向きそのものが成り立たなくなる、という事態だからだ。この違いが何を意味するかは、中心と表層を見たあとで、もう一度扱う。

語のほうも、そうなっている。emotion は、e と motion に分かれる。外へ動くこと。expression は、押し出すこと(pressing out)。感情を表に出す、という言い方をするが、語のほうは、出ることが先だと言っている。
冒頭の部屋の話に戻る。部屋が狭く感じるのは、こちらの方向づけが縮んでいるからだ。広く感じるのは、広がっているからだ。感じ方が変わったのではなく、空間の占め方が変わっている。
ロルフィングの側にも、この話はある。空間の感じ方が人によって違うこと、パーソナル・スペースの広さが身体の状態で変わることは、以前に書いた。
恐れている身体は、どんな形をしているか
Maitland は、恐れの身体の形を書いている。柔らかく、崩れた形である。
理由は、定義からそのまま出てくる。現前したくない、ということは、自分の輪郭がはっきりしないほうが都合がよい、ということだ。境界が曖昧で、どこまでが自分なのかが決まらない身体。気を失うことに似ている。形を持っていながら、形であることをやめたがっている形である。
ここで、本全体につながる一文が出てくる。在るということは、形であるということだ。そして形には、必ず固有の境界(boundary)と限界(limitation)がある。境界を取り去れば、形は消える。
この話は、4本目の限界と可能性(limitation/possibility)で、もう一度出てくる。
向かうには、向かう元の場所が要る
ここからが、Maitland が自分の主張として足している部分である。
彼はこういう場面を書いている。友人に、あの本どこ、と聞かれて、振り向いて、あそこ、と答える。
同じ問いを、いつも物を失くして人に探させる相手から受けたとする。同じ、あそこ、でも、まったく別のものになる。指し示す手は、最後まで踏み切らないかもしれない。苛立ちを隠そうとして、声の高さが変わるかもしれない。
あそこ、と指すとき、指先は本のほうを向いている。けれども、指だけが動いているわけではない。振り向くために足が床を押し、胴が回り、呼吸が止まらずに続いている。その全部があって、はじめて指が本のほうを向ける。
どちらの場合も、向かう先がある。あの本のある場所だ。そして、どちらの場合も、そこへ向かっている身体がある。これが、ずっと言われてこなかった、と Maitland は書いている。
これまでの現象学は、指先のほうだけを見てきた。何に向かっているか、ばかりを問題にして、そこから向かっている身体のほうを見ていない。志向性が、表に出ている部分に縮められてきた、ということである。
向かっている先が、表層(surface)。そこから向かっている身体のほうが、中心(core)である。

中心と表層は、こちらで当てた意訳である。core と surface が原語になる。
中心と表層は、4つの水準で言える
この2つを、Maitland は1つの意味に固定していない。巻末の用語解説で、4つの水準の定義を、浅いほうから深いほうへ並べている。
1つめが、客観の水準。脊椎が中心で、肩帯と骨盤帯が表層になる。骨盤、腹部の筋膜、胸郭、顎に囲まれた内側の空間が中心で、それを取り囲む構造が表層、という言い方もしている。アイダ・ロルフ(Ida Rolf)が表層を sleeve(袖)と呼んだのは、この水準である。ロルフィングで深層筋(深層、core)と表層筋(表層、sleeve)と呼んでいるものは、ここに入る。
2つめが、主観の水準。中心は、頭の上から脊椎の前を通り、脚の中心を抜けて、踵のやや前で足裏に出てくる、軽さと持ち上がりとして感じられる。表層は、その中心から離れずに周りを包んでいる、身体の外側である。整っているときには、外側が中心のまわりを自由に浮いているように感じられる、と書いている。
3つめが、心理の水準。中心は、最も内側にある同一性と自己の感覚。表層は、世界への自分の出し方と、世界とのやりとりである。そして彼は、この心理の中心を真の自己(true self)、心理の表層を自我としての自己(ego-self)と呼べる、と書いている。
4つめが、現象学の水準。客観・主観・心理の3つより深い、と彼が置いているものである。中心はそのままに在ること(allowing)、表層は意志(will)。中心は向かう元の場所、表層は向きそのもの。ロルフが言った、中心は在ること(being)、表層はすること(doing)、という言い方は、この水準にあたる。人間は human beings と名乗りながら、たいてい human doings として振る舞っている、という皮肉も、彼は書いている。
だから、深層筋と表層筋の話が間違っているのではない。4つのうちの1つめで、彼が最も浅いところに置いているだけである。この記事でここまで見てきたのは、4つめの水準になる。
そして3つめの水準が、このシリーズの題に直接つながっている。中心と表層は、身体の中の2つの場所ではない。身体と自己という1つの全体が持つ、2つの側面である。
することをいくら足しても埋まらない感じがあるとすれば、それは、向かう元のほうが細くなっているからだ、という話になる。
10回を受ける前の状態として、こう書いている方がいる。
他人に流されて自分の軸がブレる事
自分軸がブレていることに気付きながらも流されるままにしていたこと
流される、という言い方がそのままだ。向かう先はある。他人のほうへ向いている。けれども、そこから向かっている元のほうが決まっていない。気づいていても戻れない、というのは、戻る先が細いということである。
10回のあとの答えには、こう書かれている。
内面的な部分と連動して身体の中の詰まり、滞りを自分で捉えられる
連動して、という書き方になっている。内面が先でも、身体が先でもない。同じ1つのものの、2つの側である。心理の水準で言えば、真の自己と自我としての自己が、経験の上で分かれていくということになる。この分かれていくことが変容そのものだ、という話は、総論のページで扱っている。
不安は、恐れとは別のものである
さきほど、不安は向きの1つではない、と書いた。中心と表層を分けると、その意味がはっきりする。
恐れは、向きの1つである。だから表層の側の出来事になる。不安はそうではない。向きが成り立たなくなることなので、そこから向かっている身体のほうが脅かされる。つまり中心を突いている。
Maitland は、ここで1人のクライアントの例を挙げている。柔らかく崩れた身体をしていた人だった。恐れを認めないための形であると同時に、不安への防衛でもあった。表層は柔らかいのに、中心のほうは固い。
逆の形もある。硬く、頑なな身体。これも、柔らかい身体とは別のやり方で、同じものを防いでいる。
表層と中心が、同じ向きをしているとは限らない。見た目が柔らかいことと、中心が開いていることは、別である。
相手は変わっていないのに、関係が変わる
10回を終えた方が、こう書いている。
まず会社で大っ嫌いだった、いつも私に文句や嫌味ばかり言っていた先輩が私をとてもほめるようになった。先輩が変わったのか?そうではなく、私が変わったのだと思う。
同じ記録の中に、もう1つある。相手への対応について、間をおいて考えてから行動するようになり、イライラすることがなくなった、と書かれている。反応が出る手前に、余地ができたということだ。
相手は変わっていない。変わったのは、その人の前での向きのほうだ。縮んでいた身体が縮まなくなれば、相手との間にできる空間が変わる。空間が変われば、やりとりの質が変わる。そして相手の側の出方も変わる。
これが、身体に触れることが人との関わりにまで届く理由になる。性格が変わったのでも、考え方を改めたのでもない。空間の占め方が変わった。
そして、ロルフィングが働きかけているのは、構造だけではない。重力の中で身体を組み立てている系は、そのまま意味づけの系でもある。相手をどう捉えているかが変われば、その人の前での向きが変わる。向きが変われば、身体の空間の占め方が変わる。順序はどちらからでも進む。
この捉え方の限界
4つ書いておく。
1つは、感情が4つに分かれていないことだ。実際には混ざっているし、名前のつかないものもある。4つの定義は、分類表ではなく、見るための切り口にすぎない。4つのどれかに当てはめようとした時点で、見落とすものが出る。
2つは、身体の形から感情を読む、という使い方である。柔らかい身体は恐れ、硬い身体は怒り、と当てはめると、本人が語っていないことを施術者が決めてしまう。Maitland が挙げた例も、見ただけで分かったのではなく、その人との作業の中で出てきたものとして書かれている。見立てとして使える道具ではない。
3つは、原因と理由の区別が、感情の生理学的な説明を否定するものではないことだ。怒っているときに身体で何が起きているかを調べることには、意味がある。ただし、それをいくら詳しく調べても、何について怒っているのかは出てこない。どちらが正しいかではなく、別の問いに答えている。
4つは、4つの水準の並びが、浅い深いの順として示されていることだ。現象学の水準が最も深い、というのは Maitland の置き方であって、測って示されたものではない。心理の水準の2つの語も、彼が複数の伝統から持ってきて並べている。ここでは、経験を区別するための呼び方として扱っている。
まとめ
感情は、何かについてのものである。だから必ず向きを持っている。そして向きは、頭の中にあるのではなく、身体が空間をどう占めるかとして現れる。恐れは離れ、悲しみは縮み、怒りは前へ出て、喜びは広がる。
向かうには、そこから向かっている身体が要る。向かっている先が表層で、そこから向かっている身体が中心である。中心は在ること、表層はすること、と言い換えてもいい。そして心理の水準では、中心が真の自己、表層が自我としての自己にあたる。
同じ部屋が狭く感じたり広く感じたりするのは、気のせいではない。中心が細くなっていれば、表層の向きも縮む。部屋が狭くなるのはそのときだ。人との関係が変わるのも、同じところで起きている。
次回は、ここに手を加えようとするとどうなるか、という話になる。中心のほうを開こうとして、力を抜こうとする。ところが、抜こうとしている時点で、まだ表層の側にいる。
参考文献
Jeffrey Maitland, Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology, North Atlantic Books, 1995
Jeffrey Maitland, Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy, North Atlantic Books, 2016
いずれも日本語版は出ていない。本文中の訳は筆者による。
