Tonic Function を辿るシリーズ(第3回|全3回)

はじめに
姿勢の話をしているつもりが、いつのまにか気分の話になっていることがある。逆に、気持ちの整理をしていたら、身体が緩んでいたこともある。
これは偶然ではない。そのことを、Tonic Function という考え方は正面から扱っている。
第1回で、この見方がダンスの現場から生まれたことを辿った。第2回で、Tonic Function が「身体が重力の中で自分を組み立てる能力」であることを確かめた。
最後に、この能力が何を見ているのかを扱う。構造だけでなく、協調も、知覚も、意味づけも。なぜ、その4つになるのか。
なぜ、4つの側面になるのか
Tonic Function を説明するとき、構造(Structure)、協調(Coordination)、知覚(Perception)、意味づけ(Meaning)という4つの側面が挙げられる。
私は長いあいだ、これを分類だと思っていた。姿勢に影響するものが4つある、という一覧だと。けれども、そうではなかった。
Newton 先生の論文に、ウベア自身の言葉が引かれている。1993年、フィラデルフィアでのワークショップでの発言だ。
In the body, there is no difference between the gravity system and the expression system. They are inseparable. Whenever we work on tonic function, we inevitably work on expression.
身体において、重力のシステムと表現のシステムのあいだに、違いはない。両者は切り離せない。私たちが tonic function に働きかけるとき、必ず、表現に働きかけている。
ここが、4つの側面の根にある。分類ではなく、1つのシステムが4つの顔を持っている、という話だ。
協調は、緩む順序から出てくる
さきほど見たとおりだ。トニック筋が緩む順序が、他の筋肉の働きを指揮する。その細やかさと順序が、協調を作る。
Newton 先生は、ここで1つ推測を置いている。ロルフィングは主に身体の tonic function に働きかける仕事だ。だからこそ、運動選手の動きや、動きの効率に、あれほど強い効果があるのではないか、と。
意味づけは、抑制として現れる
協調を通じて、tonic system は抑制を表現することにも関わることになる。
自分の一部が何かを望んでいて、けれども心理的に塞がれている。その塞がりは、トニック筋の反応の細やかさが失われる形で表現される。tonic system は、張りと緩みの適切な交替によって動きを制御している。抑制は、その時間の運びを狂わせる。だから、望んだ表現も狂う。
だから、動きのパターンを変えるには、その抑制のほうを扱う必要が出てくることがある。
Newton 先生は、こう続ける。動きを、経済性や効率という人気のある観点だけから見ていると、表現における制限を見落とすかもしれない。そしてその制限こそが、最も経済的で協調のとれた動きを妨げている、本当の問題かもしれない。
知覚は、行為である
4つ目の知覚については、ウベアが実験で示している。合気道の「曲がらない腕」を、現代の道具で確かめたものだ。
腕を伸ばして、手を相手の肩に置く。そこに相手が体重をかけてくる。まず、その力に抵抗しようという意図で、腕が曲がらないようにしてもらう。次に、指先からエネルギーが流れ出していくイメージを使ってもらう。
決まって、イメージを使ったほうが、はるかに強い。楽に腕を保てる。抵抗しようと力んだときは、相手のほうが強かった。
筋電図が、何が起きているかを示す。力んで肘を伸ばそうとしているとき、その人は上腕三頭筋だけでなく、上腕二頭筋も収縮させている。つまり、自分で自分と戦っていて、相手が腕を曲げるのを手伝っている。
指先を通って壁へ届くことを想像してもらうと、上腕二頭筋は緩んだまま、静かで自由なままになる。収縮するのは上腕三頭筋だけだ。結果が、曲がらない腕になる。
Newton 先生は、この実験の意味をこう書いている。
This example demonstrates, among other things, a phenomenon that we intuit: that perception is an action. Perception is a form of intentionality, a movement in a direction.
この例は、とりわけ、私たちが直観している1つの現象を示している。知覚は、行為であるということ。知覚は志向性の1つの形であり、ある方向への動きである。
内受容感覚と周辺視野については、「ナチュラル・リーダーシップの教科書」を読んででも触れている。
指先に感覚の注意を向けるだけで、筋肉の発火のパターンが変わる。そして——動きの問題は、運動の機能の不全ではなく、知覚の不全であることがある。動きのパターンを変えるには、その人の知覚に働きかけることになる。
知覚そのものについては、別に場所を作った。言葉は、知覚に触れている──知覚とは何かを参照いただきたい。
だから、4つになる
重力を扱うシステムが、そのまま表現のシステムでもある。その緩む順序が協調を作り、その狂いが抑制として現れ、その全体が知覚によって変わる。そして、それらが起きている場所が、身体の構造である。
4つは、別々の入口ではなかった。1つのシステムを、4つの角度から見ているだけだ。
身体に触れる以外の入口が、開いた
姿勢を決めるものの中に知覚と意味づけが入って、大きなことが起きた。身体に触れる以外の入口が開いた。
ウベアは、姿勢とトーンに影響するものを4つに分けている。協調、知覚、意味づけ、構造。2014年11月に Giovanni 先生から受けた説明では、この4つがそれぞれ別の技法に割り当てられていた。
| 視点 | 担当する技法 |
|---|---|
| 構造 | ロルフィング |
| 協調 | フェルデンクライス |
| 知覚 | アレクサンダー・テクニーク |
| 意味づけ | カウンセリング |
この形なら、ロルフィングの持ち場は構造だけになる。私も長くそう書いていた。残りの3つを、ヨガやピラティス、カウンセリング、コーチング、タロットといった外側の技法に振り分けていた時期がある。
いまは逆に見ている。4つとも、ロルフィングの射程に入る。構造への働きかけが、他の3つに波及していく。知覚も意味づけも、外に預けるものではなく、セッションの中で実際に動いている。空間の感じ方が変われば姿勢が変わり、この場は安全だという判断が変われば、トーンが変わる。
入口が4つあるということは、どこから入っても他の3つに届くということでもある。
4つの向きが、資料によって違う
正直に書いておきたい。この4つの関係は、資料によって違う。私が「逆に見ている」と書いた立場も、そのうちの1つでしかない。
| 出所 | 4つの関係 |
|---|---|
| 2014年の Giovanni 先生 | 4つを、4つの技法に割り当てる |
| 『How Life Moves』本文(2006年) | 身体の構造は、他の3つから生じる。他の3つと対話できれば、身体がいちばん変えやすい |
| 同書の序文(ウベア自身) | 4つを並べたうえで、想像力と知覚は1つの同じ現象だと述べる |
| 私自身が書いてきたもの | 構造への働きかけが、他の3つに波及する |
同じ本の中で、著者と序文のウベアとで向きが違う。名前さえ違う。本文の「意味づけ」を、ウベアは序文で「心の成り立ち」と呼んでいる。
数え方も一通りではない。Aline Newton 先生は5つの因子として整理している。組織、知覚と認知、思考と言語、意味とシンボル、協調。5つに増えて何が起きたかは、はっきりしている。組織、つまり手技そのものが理論の中に位置を得た。
どれが正しいかという問題ではないと思う。手を持つ人と持たない人とでは、4つの見え方が変わる。持たない側から見れば、身体は他の3つの結果に見える。持つ側から見れば、身体は他の3つへの入口に見える。
3つの実例
この4つが、実際にどう見えるのか。ウベアが1995年に書いた文章から、3つ挙げる。いずれもダンスの話だが、扱っているのは4つの側面そのものだ。
協調──同じ名前のまま、意味が反転する
マーサ・グレアム(Martha Graham)の技法の中心に、contraction と release の交替がある。その技法の選択は、きわめて長い期間にわたって持続した。
時代の違う記録映像を見ると、contraction は──腰の下部の、本来きわめて複雑な湾曲は──年月を通しておおむね一定の形に対応している。ところが、時期によって、質と意味に途方もない変化がある。
1930年代、グレアムの仕事の初期においては、身体を集める求心的な動きだった。そしてこれは、私たちが記述したジーン・ケリーの様式を思い出させなくもない。
より後期の作品では、形は見かけ上そのままなのに、まさに正反対になっている。動きは遠心的になった。今度はフレッド・アステアの組み立てのほうに近い。本来の意味での収縮というより、伸びながら反っていく、空間の開きに近いものになっている。
名前は変わっていない。意味はほとんど逆になっている。そして、これはすでにカニンガムの curve を準備している。
コマ送りで見た2人が、ここで戻ってくる。求心と遠心という同じ対が、1人の振付家の生涯の中で反転していた。
この見方を通すと、遠く離れた分類のあいだに似たところが浮かぶ。ヴァガノワ(Agrippina Vaganova)とドリス・ハンフリー(Doris Humphrey)。ブルノンヴィル(Bournonville)とドミニク・バグエ(Dominique Bagouet)。逆に、カタカリとフラメンコとタップダンス。足で床を打つ見かけは同じでも、重さの扱いと浮きのアクセントが違い、見る側はそれで見分けている。
こうした現象を言葉で捉えきれないことが、ルドルフ・ラバン(Rudolf Laban)の仕事全体の根にあった。言語の組み立てでは動きの深い意味を掴めない。その無力さが、記譜法へ向かわせた。
ウベアがもう1つ指摘している。歴史は、衣装家や音楽家や振付家については膨大な記録を残しながら、踊り手そのものについては、その仕事も訓練も身体の技法も、ほとんど何も語っていない。
意味づけ──姿勢は、歴史が書き込まれる場所
ある人の重力に対する組み立てを決めているのは、3つが混ざったものだ。種としての歴史、文化、個人の歴史。
四足から直立へ移った痕跡、歩行の進化。それと同時に、1人ひとりの育ちがある。歩くことと並行して言葉を覚える過程が、母から離れる危うさを抱えながら、世界に対する自立を組み立てていく。姿勢と感情と表現をつなぐ象徴的な関係が、そこで作られる。
環境が変われば、その集団の重力の組み立てが変わる。社会に流れている身体のイメージが姿勢に書き込まれ、逆に人々の構えがそのイメージを演じる側に回る。建築も都市の作りも、そこに影響する。
ウベアは1930年代のドイツを例に出す。原文の主題は「垂直の組織への関心と、新しい領土の征服」だ。この2つが、正反対の出口を持った。
メアリー・ウィグマン(Mary Wigman)の、祈るような、立ち上がる軸の緊張。それは内側の想像の空間を探ることと絶えず結びついていて、自分の身体の境界が引き直され続ける。
同じ時期、ナチスの台頭とともに現れたのは、固い軸のまわりに描かれた、別の身体だった。武装した身体。境界が固定され、内側の境界が揺れる余地を残さない。そしてこの身体は、別の「軸」の力のまわりに、他の「領土」を征服しに行くことになる。この権力は、ウィグマンの構えを退廃と決めつけた。
姿勢を「いい・悪い」で見るのではなく、何を知覚しているかで見る。その考え方は、身体の「姿勢」〜いい・悪いより、何を知覚するかが大事にも書いた。
領土という語が、身体の境界と地政の両方にかかっている。だからこの例が置かれている。
一方は想像力を働かせ、他方はそれをイデオロギーで締めつける。どちらも、あらゆる所作に先立つ重力と緊張の組み立てを変えてしまう。ただし、社会の動揺がすぐ舞台に現れるわけではない。美的な緊張が溜まる時期があり、ずっと後になって表現に出てくる。
知覚──図と、地
図(figure)と地(fond)は、もともと絵を見るときの言い方だ。こちらが見ている対象が図で、その奥にあるものが地。人物が図で、風景が地、という具合に。ウベアは、これを動きを見ることに当てはめる。
One can consider postural attitude and pre-movement, the inevitable precondition of the gesture, as a background against which the apparent movement is drawn: the figure.
姿勢の構えと前‐動作は、所作の避けようのない前提であり、それを背景として、見えている動きが描き出される。それが図である。
私たちが「動き」として見ているものは、図のほうだ。
原文はこの地を、背景幕(toile de fond)とも呼ぶ。舞台の奥に吊るされる布のことだ。動きと所作を区別したところで「主体のトーンと重力の下地」と訳した箇所も、原文は同じ語を使っていた。身体の側で下地と呼んだものが、舞台の側では背景幕になる。どちらも、前‐動作のことを指している。
ウベアは、地の扱いが正反対の2人の振付家を対照させる。
カニンガム──地を、見えなくする
マース・カニンガム(Merce Cunningham)は、ある作品で、クラシックの「プロムナード」と呼ばれる形を取り上げる。古典のパ・ド・ドゥなら、この形は恋の揺らぎを帯び、交わされる視線がそれを何倍にもする。カニンガムでは、同じ形だと気づかないほど違う。
2人は心理的な関係に囚われていない。目に緊張が読み取れない。まるでその目が、自分たちが引き起こす空間の切り取りの遠い木霊を、ただ聴いているかのようだ。そしておそらくは、クライストの思考の遠い木霊も。
だからカニンガムの踊り手は、できるかぎり中立で、できるかぎり見えない、できるかぎり情動に乱されない表面を差し出す。図が明瞭であるために。地によって、図が乱されないために。
From then on the spectator, more than the dancer, is the true interpreter of Cunningham’s dance.
そのときから観客こそが、踊り手よりも、カニンガムのダンスの真の解釈者である。
トリシャ・ブラウン──地を、見せる
トリシャ・ブラウン(Trisha Brown)は逆だ。1994年のソロ『If You Couldn’t See Me』は、全編を背中で踊る。腕も脚も、どの形にも止まらない。それらは、前‐動作が立ち上がるまさにその高さで働いている緊張の、延長でしかないように見える。
The public therefore has no other choice than to see the “backdrop,” the place of the origin of the movement: the puppeteer is laid bare.
観客には、「背景幕」を、つまり動きの起源の場所を見るほかに、選択肢がない。人形遣いが、裸にされている。
マリオネットの節が、ここで戻ってくる。クライストの舞踏手は、表現は人形遣いの領分だと言った。トリシャ・ブラウンは、その人形遣いのほうを舞台に出した。
順序が、逆になっている
上演が引き起こす刺激は、観客の知覚の圏域で、2つの違う経路をたどる。
トリシャ・ブラウンでは、まだ解釈されていない運動感覚のほうで刺激が働き、そのあとで意識される知覚として現れる。
カニンガムでは、まず知覚の解釈が働いて、観察される素材を作り変え、そのあとで観客の運動感覚に触れる。
同じ「見る」でも、地が先に届くか、図が先に届くかで、順序が逆になっている。
第2回で見たとおり、Tonic Function が働いているのは、図ではなく地のほうだ。カニンガムとトリシャ・ブラウンは、その地を、消す側と見せる側から扱っている。
手を持つ人に向けて書かれたこと
Kevin Frank らの本には、各章の終わりに「教える人と身体療法家のために」という節がある。読者向けの説明ではなく、手を持っている人に何を見ろと言う節だ。
Tonic Function が答えようとしている問い
腰痛のある人では、腹横筋や多裂筋の働きを学び直す必要があることを研究は示してきた。けれども、それをどう教えるかは、研究者がまだ考えはじめたばかりだ。そこに Tonic Function が置かれる。
「何が人に、健全な協調を学ばせるのか」。この問いに答えようとする試みである。目指しているのは、コアについて考えずに、コアが安定する感じを教えること。
形と、流れ
意味づけがなぜ4つ目に置かれているのか。その説明が、思いがけないところにある。
慢性的な痛みや緊張の多くは、人間の板挟みに根がある。文明は必要で、良いものだ。その文明が自分の創造性と表現の自由を止めてしまうのを、どう防ぐのか。
本は、答えはないと書く。形と流れのあいだの弁証法である。生き延びる手立てには言葉も規則も社会の構造も要る。しかし流れがなければ、心も身体も生理も息が詰まりはじめる。流れのない形は硬く、形のない流れは酔っ払いの踊りだ。道路のどちら側を走るかを決められなければ、人は死ぬ。
そして目指すものが書かれている。新しい、より良い形を身につけることではない。形が変わりうると見つけることだ。
前弯について、立場を明かしている
腰の反りをどう見るかは、意見が割れるところだ。本はそれを隠さない。前弯の発達と、それに対する文化的な態度と、その調整のしかたは、論争の的である。そして、腰痛の新しい研究とウベアの枠組みが合わさって、クライアントの問いによりよく答えられるようになった、と書く。
そのうえで、こう続く。受けるすべての療法や運動指導を、批判的に見てほしい。自分たちの本も含めて、という意味だと私は受け取っている。
本文には、判断の基準になる一文がある。抽象的な理想にもとづく姿勢と、状況に応答する姿勢は違う。前弯は体幹の安定筋によって自然に調整される。腹筋を締めることや前弯を減らすことを意識的に制御しようとすると、かえって固着を生む。
見えていないものを、扱う
3回を通して辿ってきたことを、最後に1つにまとめておきたい。
Tonic Function が扱っているのは、図ではなく地のほうだ。私たちが姿勢と呼んで見ているものは図の側にあり、その働きは、手前で起きている。
だから、目に見えにくい。けれども、見えにくいだけで、そこで起きていることは小さくない。同じ形が反転し、社会の歴史が書き込まれ、見る側の順序が入れ替わる。
そして、姿勢が変われば気分に届き、気持ちが動けば姿勢が変わる。冒頭に書いたことは、偶然ではなかった。重力のシステムと表現のシステムが、同じ1つのものだからだ。
※ この回の出典は次のとおり。Aline Newton, “Basic Concepts in the Theory of Hubert Godard”(Rolf Lines, Vol. XXIII, No. 1, March 1995, pp. 32-43)/Hubert Godard, “Le geste et sa perception”(La danse au XXe siècle, Bordas, 1998, pp. 224-229)/Caryn McHose & Kevin Frank, How Life Moves(North Atlantic Books, 2006)。英文はいずれも原文からの訳。
このシリーズの全体像と、関連する記事の一覧は、重力の中の身体──Tonic Functionという見方はどこから来たのかにまとめている。
