Hubert Godardは何を見たのか?〜Tonic Function はダンスの現場から生まれた

Tonic Function を辿るシリーズ(第1回|全3回)

はじめに

姿勢が変われば、気分が変わる。気分が変われば、姿勢が変わる。よく言われることだが、なぜそうなるのかを説明したものは、あまり見かけない。

答えは、筋肉にある。私たちを立たせている筋肉と、感情の変化を記録している筋肉が、同じものだからだ。

この働きのことを、ロルフィングでは Tonic Function と呼ぶ。持ち込んだのは、フランス人のロルファーで、もとはダンサーだった人だ。彼がそこに辿り着いたのは、同じ形の所作がなぜ違う意味を持つのか、という問いからだった。

3回に分けて辿る。今回は、彼がダンスの現場で何を見たのか。

Hubert Godard という人

Tonic Function をロルフィングに持ち込んだのは、ウベア・ゴダール(Hubert Godard、以下ウベア)というフランス人のロルファーだ。

モロッコ生まれ。農家の息子で、寄宿学校では運動選手だった。大学では化学を学び、工業廃棄物から金を回収する免許を最年少級で取得している。身体の専門家として出発した人ではない。

21歳でダンス公演を見て、その世界に入った。踊り手としては遅い。バレエ団で踊り、振付家になり、教師になり、やがて教師を指導する側に回る。

膝を痛めた後、まずオステオパシーへ進み、そこからフェルデンクライス、アレクサンダー・テクニーク、メジエール法、クラシックダンス、精神分析を渡り歩いた。それらを重力という1つの原理で束ねている。1986年にロルファー認定。パリの大学では、ダンス教育を組織し直すために作られた新しい部門の長に招かれた。ミラノのがん研究所での研究も長く続けている。ロルフィングの施術者に教えはじめたのは1990年頃。現在は引退している。

ウベアがなぜ身体を学び直したのかについて、資料の言い方が2通りある。膝の重傷をきっかけとするものと、踊るには向かない身体だったと本人が語るもの。私はどちらか一方に決めないことにしていた。

Kevin Frank と Caryn McHose の本『How Life Moves – Explorations in the Meaning and Body Awareness』の巻末には、ウベアが膝を痛めたのは、ダンスの形式と自分の身体の構築が合っていなかったからだと書いてある。

対立ではなく、原因と結果だった。向かない身体で踊り続けたから膝が壊れ、壊れたから、なぜその動きができないのかを調べることになった。同巻末には、ウベアをロルフィングの考え方の第二世代を代表する人、Ida Rolf と同じく、この領域を革新するために生まれてきた人と位置づけている。

形を見ても、分からなかった

Tonic Function の出発点は、ダンスの現場の行き詰まりにある。ただし、はじめは他人の身体の話ではなかった。

1992年のインタビューでウベアが語っている。化学を4年やり、化学者として働きながら踊っていた。両立できなくなってダンスを選んだ。ところが自分の身体はダンスに向いていなかった。趣味ならいいがダンサーにはなれない、と言われた。

そこで彼は、昼はクラスに出て、夜は医師の友人と、なぜその動きができないのかを調べた。他の医師や技法も訪ね歩き、最終的に自分の身体を変えている。踊れない身体を持った人が、その理由を調べた。

教える側に回って、観察が1つ加わる。同じ課題を出しても、スタジオでどう話すかで人の踊り方が変わる。

クラシックダンスは17世紀に体系化され、アラベスクという形は保存されている。それなのに、同じ形が時代によって違う意味を持つ。時代、地域、階層、音楽、衣装。どれで分類しても、入れ物は説明できるが、所作の内側で意味を作っている動きには届かない。

動き出す前に、名前をつけた

ウベアは、2人の名前を挙げるところから始める。

ルドルフ・ラバン(Rudolf Laban、1879-1958)。動きの記譜法を作った人で、メアリー・ウィグマンの師でもある。言語では動きの深い意味を掴めないと考え、言語の比喩に頼らない表記法へ向かった。次回、もう1度出てくる。

エルヴィン・シュトラウス(Erwin Straus、1891-1975)。フランクフルト生まれの神経学者であり、現象学者。ナチスを逃れてアメリカへ渡り、退役軍人病院で38年間、精神科の顧問を務めた。彼の哲学の出発点は「人間の直立した姿勢」にある。1952年の論文「直立した姿勢」で、直立していることが、重力への感覚的な気づきと、同時に重力への対抗をもたらしたと論じている。「私は誰か」より先に「私はどこにいるか」を問う、という立て方をした人でもある。

この2人が指摘したように、直立した姿勢は、移動の力学という問題を超えて、動こうとする意図や表現に先立って、すでに心理的で表現的な要素を含んでいる。

重さとの関係、つまり重力との関係には、すでに1つの気分と、世界に対する1つの企てが含まれている。

1人ひとりに固有の、この重さの扱い方があるからこそ、私たちは、階段を上がってくる音だけで、身近な人を間違いなく言い当てられる。逆に、無重力にいる宇宙飛行士が示すように、重さがなくなると表現の質は根本的に変わってしまう。所作の意味を解釈するための、要となる手がかりそのものが変わるからだ。

ウベアは、ここに名前をつけた。

We will call “pre-movement” this attitude toward weight, toward gravity, which already exists before we move, in the mere fact of standing, and which will produce the expressive charge of the movement we are about to execute. The same gestural form — an arabesque, for example — can be charged with different meanings according to the quality of the pre-movement, which undergoes very great variations even while the form itself endures.

私たちは、動く前からすでに存在している、重さに対する、重力に対するこの構えを「前‐動作(pre-movement)」と呼ぶことにする。それはただ立っているという事実のうちにあり、これから実行しようとする動きの表現の負荷を生み出すものである。同じ所作の形──たとえばアラベスク──が、前‐動作の質によって違う意味を帯びうる。形そのものが持続しているあいだも、前‐動作は非常に大きく変化する。

この前‐動作が実際にどう扱われるかは、Rolf Movement – Part 2(8)〜Pre-movement、ヨガ、アレクサンダーテクニックに書いた。ヨガのバンダも、アレクサンダー・テクニークの頭と脊柱の関係も、同じ場所を指している。

アラベスクが、ここで戻ってくる。形は17世紀から保存されているのに、同じ形が違う意味を持つ。その違いは、形の外にあるのではなく、形が始まる前にある。

Pre-movementが、身体の緊張の状態を決め、それぞれの所作に固有の質、固有の色を定義する。そしてpre-movementは、重力の組み立てに働きかける。つまり、主体が立ち、その姿勢で重さの法則に応答するために、自分の姿勢をどう組み立てるかに働きかける。

姿勢を保つ筋肉が、感情も記録している

重力筋と呼ばれる筋肉のシステムがある。その働きの大部分は、目覚めた意識と意志から逃れている。私たちの姿勢を保つ役目を負っていて、均衡を維持し、考えずに立っていることを可能にしている。

ところで──

これらの筋肉は、私たちの情動的・感情的な状態の変化を記録する筋肉でもある。

だから、姿勢がどれほど小さく変わっても、それは私たちの感情の状態に影響する。そして逆に、感情がどう変わっても、それは姿勢の変化を引き起こす。知覚できないほどのものであっても。

この重力筋は、私たちの均衡を保つ役目を負っているために、1つひとつの所作に先回りする。

たとえば、腕を前に伸ばそうとするとき。腕が動くより前に、最初に働き出す筋肉は、ふくらはぎの筋肉である。腕の重さが前へ出ることで生じる不安定を、先回りして引き受けている。

同じ構造の例が、ほかにもある。ものを掴むときは、手を使う前に前鋸筋が働く。舌が口蓋に静かに置かれていることで、首と顔の安定が保たれる。いずれもGael Rosewood WS(4)で受け取ったものだ。

これが前‐動作だ。目に見えず、本人にも知覚できない。そして、自分の組み立ての力学的な水準と感情的な水準を、同時に働かせている。

そのときの気分と、そのとき思い描いているものによって、腕の動きを知らぬ間に準備するふくらはぎの収縮は、強くもなり弱くもなる。そして、受け取られる意味が変わる。

踊り手の文化、その人の歴史、そして状況をどう感じ、どう解釈するか。それらが「姿勢の音楽性」とでも呼ぶべきものを引き起こし、意図して行われる所作を、絶えず裏切ることになる。

この情動の状態がもたらす効果は、1つひとつの所作に質を与えるのに、意図だけでは命令できない。その仕組みは、ようやく理解されはじめたところだ。踊り手の仕事の、そして観察する者の仕事の、複雑さのすべてがここにある。

コマ送りで見えたこと

ウベアは、1本の映画でそれを示す。ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)の『ジーグフェルド・フォーリーズ(Ziegfeld Follies)』(1945年)に、フレッド・アステア(Fred Astaire)とジーン・ケリー(Gene Kelly)が、同じ所作を同時に、しかも正確に踊るデュオがある。それにもかかわらず、それぞれの踊り手が生み出す効果は、根本的に違う。この違いを、どう説明するのか。

「The Babbitt and the Bromide」という曲で、振付はアステア。2人が映画で一緒に踊ったのは、生涯でこの回を含めて2度だけだ。

https://www.youtube.com/watch?v=i-jgflC5GQA

Slowing the film down, frame by frame, shows us that in spite of their intention to produce the same movements, the anticipation of the attack of the gesture — the pre-movement — is opposite in the one and the other.

映画を遅回しにして一コマずつ見ると、同じ動きを作ろうという意図があるにもかかわらず、所作の切り出しの予期──つまり前‐動作──が、2人で正反対であることが分かる。

ジーン・ケリーは、まず脚の動きと身体を集めることによって床を確保し(求心的な動き)、それから視線か腕によって空間の中で自分を定位し、床を押し返すことで所作を切り出し、続いて選んだ方向へ伸びていく。彼は重力との関係を、下から上へ、内から外へと組み立てる。

フレッド・アステアは逆に、つねに空間の中での定位の動きから始まる。視線、頭、あるいは腕。それがまず伸展と懸垂を引き起こし(遠心的な動き)、次に不均衡をもたらす。その不均衡が、脚が床へ向かう動きによって、あとから安定させられる。彼は重力との関係を、上から下へ、外から内へと組み立てる。

ジーン・ケリーフレッド・アステア
はじめに脚の動きと身体を集めることで床を確保する(求心的視線・頭・腕が空間へ向かう
次に視線か腕で空間へ定位する伸展と懸垂が起き(遠心的)、不均衡が生じる
そして床を押し返して所作を切り出す脚が床へ向かい、不均衡を安定させる
組み立て下から上へ、内から外へ上から下へ、外から内へ

In slow motion, Gene Kelly always starts slightly later, but arrives earlier, so much does this anticipatory concentration give him an “explosive” quality, particular to the feline quality of his movement. Fred Astaire’s manner is more spread out in time, by the grace of his inimitable suspension.

遅回しで見ると、ジーン・ケリーはいつもわずかに遅く始まるのに、先に到着する。この予期する集中が、彼の動きに「爆発的」な質を与えているからだ。それは彼の動きの猫のような質に固有のものである。フレッド・アステアのやり方は、時間の中により広がっている。その真似のできない懸垂の優美さによって。

These flows of gravitational organization, which are played out before the attack, then profoundly modify the quality of the gesture and color it with nuances that “leap” to our eyes, without our always being able to give the reason for it.

所作の切り出しより前に働くこれらの重力の組み立ての流れが、所作の質を深く変え、私たちの目に「飛び込んでくる」ニュアンスで色をつける。しかも私たちは、その理由をいつも言えるわけではない。

目には飛び込んでくるのに、理由が言えない。だから、遅回しにして一コマずつ追う必要があった。

動きと、所作

ここまで来て、ウベアは2つを区別する。

One can then distinguish movement, understood as a phenomenon relating the strict displacements of the different segments of the body in space — in the same way that a machine produces a movement — and gesture, which is inscribed in the gap between this movement and the tonic and gravitational backdrop of the subject: that is to say, the pre-movement with all its affective and projective dimensions. It is there that the expressivity of the human gesture resides, of which the machine is deprived.

そこで、動きを、身体のさまざまな分節が空間を厳密に移動することに関わる現象として──機械が動きを生み出すのと同じ意味で──理解し、所作を、その動きと、主体のトーンと重力の下地とのあいだの隔たりに書き込まれるものとして、区別することができる。つまりその下地とは、感情の次元と企ての次元のすべてを備えた前‐動作のことである。人間の所作の表現は、そこに宿っている。機械には、それが欠けている。

※ この節の引用はいずれも Hubert Godard, “Le geste et sa perception”(1998年、pp. 224-229)より。英文は原文のフランス語からの訳。

マリオネットの話

この隔たりを説明するのに、ウベアはハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist)の『マリオネット劇場』を引いている。クラシックの「第一舞踏手」と、人形芝居の観客とが語り合う短い文章だ。

舞踏手は、踊り手は人形からあらゆることを学べる、と言う。その理由を、こう説明する。

For one is moved, you know well, when the soul (vis motrix) is located at a point which is not the center of gravity of the movement.

というのも、ご存じのとおり、魂(vis motrix)が動きの重心ではない1点に位置しているとき、人は心を動かされてしまうからだ。

そして舞踏手は、「優美」を、重心と運動の中心のあいだにずれがない状態として定義する。

マリオネットには、そのずれがない。自分の重さを自分で管理しなくてよいからだ。吊られているので、四肢は厳密に力学に従い、重心のまわりに完全な放物線を描く。

人間はそうはいかない。感情のためらいに捕らわれて、重心と運動の中心のあいだに距離が生まれる。情動の干渉が生み出す、運動学としての不完全さだ。

この隔たりに、この緊張に、所作の表現の負荷が宿っている。マリオネットの側では、表現は人形遣いの領分になる。

では、人間の側で、その隔たりを作っているものは何か。不均衡に対する内側の抵抗を組み立てている、重力のシステムの筋肉だ。心の装置は、この系を通って表に出る。欲望も、抑制も、情動も、ここを通って動きに色をつける。

そしてそれは、所作よりも前に引き起こされる。行為の企てが形をなしたその瞬間から。しかも本人の知らぬ間に、目覚めた意識より上流で。

だから、踊り手は知っている。所作の質を変えたければ、前‐動作の次元まで届かなければならない。そしてそこに触れられるのは、想像的なものへの通路だけである。

ウベアは一例を添えている。ピナ・バウシュ(Pina Bausch)の踊り手は、テキストを発しながら、言っていることと反対の意味を帯びた身ぶりを展開できる。この重力の組み立てを扱えるからだ。

※ この節の引用は Hubert Godard, “Le geste et sa perception”(1998年、pp. 224-229)より。英文は原文のフランス語からの訳。

名づけない見方

2005年のインタビューで、ウベアは自分がどう形づくられたかを辿っている。話は、聞き手の旅の話から始まる。

聞き手のカリン・マクホース(Caryn McHose)が、最近バリ島を旅して、自然と文化の分かれ方がそれほど強くない文化にいる感じがしたと語る。自然の知覚が生きている、と。ウベアはこう応じる。

Yes, you feel it if you go to Morocco. It’s so strong for me because I was born there. There is something in Morocco that forces your gaze, your perception of space, to be peripheral. You are not in cortical vision; you are in a way of looking that is not about naming. And you get a direct melting with the space, something very specific.

ええ、モロッコに行けば、それを感じますよ。私はそこで生まれたので、なおさら強く感じます。モロッコには、あなたの視線を、空間の知覚を、周辺的にさせてしまう何かがある。皮質による視覚の中にいなくなる。名づけることについてではない見方の中に入る。そして、空間と直に溶け合うような、きわめて特有の何かが起きる。

同じ流れで、画家の話が出てくる。アンリ・マティス(Henri Matisse)は、モロッコへの旅の後で人生が完全に変わった。絵の中で、突然、地のほうが図より重要になった。マティスの空間の見方が変わったということだ、とウベアは言う。絵を描くことは、そもそも空間についての宣言だからである。

ここで、私が受けた授業を思い出した。基礎トレーニングの Phase II に、絵画史の授業が2回あった。西洋絵画史から身体の見方を辿り、顔と頭をどう見るかを辿る。教えたのは Giovanni Felicioni 先生。Tonic Function の開発に20年以上関わった人が、授業で絵画史を扱った。

当時は、なぜ絵画なのかが分からなかった。いまなら分かる。どこに消失点を置き、どこを地とし、どこを図とするか。身体をどう見るかと、同じ問題だ。絵画史は教養ではなく、知覚の訓練として置かれていた。

そして、私は2015年の春、認定を受けた直後にモロッコを歩いている。スペインから海峡を渡り、わずか17キロで、まるで違う空間に入った。フェズ(Fès)の旧市街は迷宮として設計されていて、案内人を見失えば迷子になる。名前を確かめながらは歩けない街だった。外からは店に見えない絨毯屋の中は、別世界だった。

そのとき私が書いていたのは、王朝の変遷、人口、識字率、道路の建設年。タンジール(Tanger)でマティスの名前にも触れている。それなのに、自分の見方がそこで何を受け取っていたかには、まるで気づいていなかった。11年経って、このインタビューを読んで、ようやく分かった。

周辺的に見ること

聞き手が尋ねる。いまのような見方に、どうやって辿り着いたのか。特定の足がかりや、発見の瞬間はあったのか。

I know that I was shaped by this peripheral seeing. By this I mean a way of looking that is not about naming; I call this a non-cortical gaze. This non-cortical gaze allows you to have very easy body reading because you have the capacity to incorporate people in your subjective space; you are in the space, the space is in you.

私は、この周辺的に見ることによって形づくられた、と分かっている。これは、名づけることについてではない見方という意味だ。私はこれを non-cortical gaze(皮質を通さない視線)と呼んでいる。この見方ができると、身体を読むことがとても楽になる。人を自分の主観的な空間の中に取り込む力があるからだ。自分が空間の中にいて、空間が自分の中にある。

この「周辺的に見ること」は、あとで出てくる Peripheral vision と同じものだ。細部を見て名前をつけて区別する見方が Focal vision、位置を知り重力に対して自分を定める見方が Peripheral vision。その2つのうち、後者のほうで見る。ウベアが否定の形でしか名指せなかったのは、私たちが普段、前者のほうを「見る」と呼んでいるからだと思う。

空間が、支えである

聞き手がもう一歩踏み込む。あなたは、この関係、この運動感覚的な共鳴に、ダンスを教えはじめたときに気づいたのですか。

ダンスを教えることで、自分は完全に形づくられた。スタジオでの話し方、語り方によって、人の踊り方が変わることに気づいた。それがなぜ起きるのかを理解しようとして、最初に辿り着いたのが——空間は、支えである。

空間には向きを与えられる。上へのベクトルを立てれば身体は上へ、水平のベクトルを立てれば横へ広がる。そう見ると、現代ダンスの歴史に2つの側があった。マーサ・グレアム(Martha Graham)の振付は完全に地面から組み立てられ、ドリス・ハンフリー(Doris Humphrey)とホセ・リモン(José Limón)は胸から吊られている。

動きやすさには、地面への定位と空間への定位の両方が要る。心理の経験から、次に臨床の経験から、彼は1つのことに行き着く。

自分がどう空間を築いてきたかという「人生の偶然」が、自分の身体の収縮と矛盾に、直接の責任を負っている。

この探究が、Tonic Function につながった。重さと空間に対する身体の定位を、動きを理解する中心に置く見方だ。

冒頭の問いに、戻る

今回辿ったのは、ウベアが何を見たのか、だった。

同じアラベスクが、時代によって違う意味を持つこと。コマ送りで見えた、動き出す前の差。姿勢を保っている筋肉が、感情の変化も記録していること。そして、モロッコで受け取った、名づけない見方。

冒頭の問いに、ここで1つ答えが出ている。姿勢が変われば気分が変わるのは、同じ筋肉が両方を担っているからだ。そして、その筋肉が働きはじめるのは、動き出す前である。

では、その働きを Tonic Function と呼ぶとき、何を指しているのか。次回は、その名前そのものを確かめる。

※ 引用はいずれも Hubert Godard, “Le geste et sa perception”(La danse au XXe siècle, Bordas, 1998, pp. 224-229)と、Caryn McHose, “Phenomenological Space: Interview with Hubert Godard”(Contact Quarterly, Summer/Fall 2006, pp. 32-38)より。英文は原文からの訳。


このシリーズの全体像と、関連する記事の一覧は、重力の中の身体──Tonic Functionという見方はどこから来たのかにまとめている。

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この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka