癒しはどのように起こるのか──Jeffrey Maitlandの四つのアプローチ

はじめに

人はどのようにして癒えるのか。

Jeffrey Maitland は、その問いを長く抱えていた。哲学の終身在職教授(tenure professor)であり、禅の実践者であり、ロルファーでもあった人である。2007年、彼はその探究を協会誌に書いた。癒しがどのように促されるかを、四つに分けている。

この論文を私が読んだのは、2025年のアドバンスト・トレーニングを終えた後だった。知人を介して入手したものである。

どうやって人を癒すのか

論文は、理論からではなく、一つの問いから始まる。

25年以上前、Maitlandは禅の師である佐々木杏山承周老師に、こう尋ねようとした。どうやって人を癒すのですか、と。当時すでにしばらく禅を実践しており、ロルフィングという穏やかで効果の高い徒手療法で生計を立てていた。癒しとは何かに関心があった。癒しについて尋ねるなら、この人以上の相手はいない、と思った。

ところが、接心に参加して参禅の場に出ると、質問を忘れてしまう。公案の稽古の強度が、ほかのすべての関心を消し去ってしまうのである。何度試みても、老師の前では質問が出てこない。答えられるのはこの人しかいないと思っている問いに取り憑かれ、その人の前でそれを失う。彼はその状態を、いらだたしい位置と書いている。

最後の参禅で、ようやく記憶が戻った。どうやって人を癒すのですか。

老師は、一瞬も置かずに答えた。相手と一つになりなさい、と。

その答えの意味が分かるまでに、何年もかかった。

赤ん坊の知恵

意味が分かり始めたとき、それはある記憶とともに来た。

大学院の最終学年、カントの美学について博士論文を書いていた頃のことである。妻が仕事に出て、生まれたばかりの娘の世話をする番だった。その日、娘は特に機嫌が悪く、手がかかった。午後、涙にまみれた浅い眠りから目を覚ました。抱き上げると、娘は小さな身体を彼に巻きつけて、泣きやんだ。

なだめているうちに、娘は開かれた優しさとともに彼の中に溶け込んできた。自分という感覚が失われ、彼は娘の中に完全に溶けていった。二人が包まれていた、限りのない、隔てのない愛と一体性の深さに動かされて、目に涙が浮かんだ。

そのときは、それが深く心を動かす体験だったことは覚えていたが、意味は掴めていなかった。禅を始める何年も前のことである。

赤ん坊は、この愛に満ちている、と彼は書いている。ソースと同じように、自己も、意志も、間に入ってくる思惑も持たないからだ。

健康とは、ゼロに戻ること

老師は、健康とはゼロに戻ることだ、と言った。ゼロは、ソースとの一体性を指す彼の多くの表現の一つである。

自分をゼロに戻すことで溶かすと、同時に自分の葛藤や固着も溶ける。完全に手放して、大死と呼ばれるものを経験すれば、苦しみと不調を落とし、世界と平和な、自由な自己として蘇る。

そして、ゼロに戻ることは、癒しの仕事にとっても要になる。

施術者がゼロに近ければ近いほど、その仕事は効果的で、力みがなく、深くなる。すべての施術者が理解すべき驚くべき現象がある、と彼は言う。施術者の心が私心なく、広く、思惑から自由であるほど、クライアントの身体は進んで、そして熱心に、不調の秘密をその手と感覚に伝えてくる。身体は実際に、どこに何が問題なのかを、心を開いた施術者に見せてくれる。

身体の語ることを聴くために、施術者は日常的な思考の枠を超え、ゼロに戻ることで自分を手放さなければならない。ゼロは、狡さも、企ても、思惑も持たない。だから身体は、ゼロを実践する施術者を即座に知り、信頼する。

Maitlandという人

Jeffrey Maitland(1943-2023)は、哲学の終身在職教授であり、禅の実践者であり、認定アドバンスト・ロルファーだった。長年にわたりロルフィング協会の教員を務めている。

ロルフィングの五つの分類も、五原則も、三つの問いかけも、彼が中心になって確立した。2025年のアドバンスト・トレーニングで受け取った枠組みの多くが、この人から来ている(「Advanced Rolferの認定までの歩みについて【総括】〜認定までの道のり」参照)。

癒しを促す四つのやり方

論文の中心はここにある。

彼は、癒しがどのように促されるかを四つに分けた。徒手療法の言葉で語られているが、少し説明を足せば、あらゆる癒しの体系に当てはまる、と述べている。

直接アプローチ

最も一般的な形である。制限や固着に対して、エネルギーや力を直接加え、あらかじめ定めた方向へ変化を起こす。

オステオパシーやカイロプラクティックで受ける、高速で小さな振幅のスラストが典型だ。関節がぽきりと鳴る、あの調整である。ロルフィングにも直接的な手技がある。座位のクライアントを前屈させながら、肘で背中に強い圧をかけていく。あれは直接的な筋膜へのアプローチである。

直接的な技法は、問題のある部位にエネルギーを直接適用する。目的は、固着や制限を、あらかじめ決めた方向へ強制的に変えることだ。

多くの場合、有効である。ただし、身体が自分自身のやり方で解放していく余地は、相対的に小さくなる。身体がどう扱われたいかに耳を傾ける試みはなく、施術者が自分の意志と意図を身体に押しつけている。

間接アプローチ

直接よりも洗練されている。身体の知性と、健康へ向かおうとする力を利用するからだ。オステオパスたちが見出し、育ててきた。

単純化した例で説明されている。左に曲がった構造があるとする。右へ押して真っ直ぐにしようとするのではなく、間接的な技法は、それをさらに左へ、その歪みの方向へ進める。身体の許しを得ながら、止まってしまった動きを完成させるかのように、ゆっくりと慎重に押していく。

歪みの限界に達し、それ以上進めなくなると、休止が訪れる。動きが宙づりになる。そして、静止の一瞬の後、驚くべきことが起きる。構造がひとりでに動き始め、まったく予想のつかない仕方で、左側屈からほどけ、やがて自ら真っ直ぐになっていく。

技法の後半で、施術者がすることは、自分の意志を保留し、変化への意図を落とし、身体が自ら正常への道を見つけるに任せることである。

直接アプローチとの違いは、技法の選択ではない。施術者の志向性が、変えることから許すことへ移ることにある。

組織化の力へのアプローチ

三つ目は、William Garner Sutherland の仕事に代表される。

彼は頭蓋骨に内在する動きを発見し、頭蓋仙骨系の重要性を理解し、間接的な技法でそれを扱う方法を見出した。そして晩年、生命の呼吸(breath of life)と呼ぶ現象に行き着く。この知覚から発展した癒しの促し方が、多くの場では バイオダイナミック・クラニオセイクラル・セラピーとして知られている。

Maitland はこれを、組織化の力へのアプローチと呼ぶ。

組織化の力とは何か。彼は噴水の比喩を使う。噴水は、形はほぼ一定のまま、材料である水は絶えず入れ替わっている。人間の身体も同じだ。違うのは、噴水では形を保つ組織化の力が外部の機械であるのに対し、身体では、それを支え維持する力が生命と全体性そのものに内在していることである。

この点が重要だ、と彼は書く。組織化の力は、全体性の外にあるのではない。全体性そのものの現れである。全体性がすべての細部に生きているように、生命の全体性とその組織化の力は一つであり、身体のあらゆる細部に生きている。

このアプローチでは、施術者はまず技法を用いない。手をクライアントの訴えのある場所に置くとき、繊細な圧をかけることも、構造を動かそうとすることも、エネルギーを加えることも、身体と交渉することもない。そして何より、変えよう、癒そうという意図がない。

第一段階で、施術者の主な仕事は、クライアントを変えることではなく、クライアントへの自分の志向性を根本的に変えることである。邪魔にならない場所へ退き、自分自身と、変化への思惑を降ろし、身体が明かそうとしていることに、ただ耳を傾ける。技法を用いる前に、広い知覚の場を保ち、秩序づける力がクライアントの内と周囲に現れうる空間を開いておく。

要するに、施術者はゼロに戻らなければならない。そうでなければ、助けようというわずかな意図さえ、身体が望んでいることの妨げになりうる。

力が機能不全のパターンと、それがどう扱われたいかを明かしたとき、第二段階が始まる。ここで施術者は、組織化の力に癒しの仕事を任せるか、意図を使って力の働き方を導く技法を用いるかを決める。

この三つ目のアプローチは、癒しの性格について二つの重要なことを示している、と彼は書く。

一つは、癒しは施術者の志向性に応じて起こりうる、ということ。施術者がゼロを実践している限り、技法をまったく用いずに癒すことが可能である。

もう一つは、あらゆる癒しの形の中で働いているものが、部分的に明らかになったこと。探究を深めるほどはっきりしてくるのは、すべての癒しの中に現れているのが、技法にも、意図にも、技能にも、力の適用にも還元できない、顔のない、愛に満ちた働きだということである。

ゼロ距離アプローチ

四つ目で、その顔のない働きが最も明瞭に現れる。

ここでは、技法によって癒そうとする志向性から、クライアントとともにゼロを実践する志向性へ移る。そして、クライアントに触れずに行う。

暗い部屋の比喩が置かれている。労働者と道具に満ちた部屋があり、真っ暗である。普段は問題ない。労働者たちは暗闇の中でも快適で、いつもの作業をしている限り、目隠しのままでも仕事ができる。だが緊急事態が起きると、彼らは見る必要がある。しかも、よく知ったうえで見なければならない。ところが彼らは、意欲はあっても、明かりのつけ方を知らず、目もよく働かない。

このとき、施術者の第一の仕事は、明かりをつけることである。もう一つの仕事は、労働者たちが見つけた問題に注意を向け続け、修理されているあいだ寄り添い、もう何も感じられなくなるまで見守ることだ。どちらの仕事も、施術者がその場にいることを必要としない。腕まくりをして加勢することでもない。労働者たちが必要としているのは、施術者がもたらす光と、知らせを受けた知覚の生気である。何も感じるべきものが残らなくなったとき、光は退く。

このアプローチの中心にあるのは、ゼロの実践、すなわちクライアントとの一体化である。癒しは、技法の適用からではなく、施術者の志向性から生じる。

手を使わずに仕事をするので、施術者の知覚は手で知覚することの限界に縛られない。手から自由になることで、知覚は広がり、身体全体で、存在の全体で見るようになる。手だけではなく全身で聴くとき、より多くを見て、感じる。知覚はより生き生きとして広大になり、難しい問題ほど正確に明らかになる。

そして最も注目すべきなのは、クライアントに対する知覚と作用が、距離に制限されないことだ。クライアントが同じ部屋にいようと、地球の反対側にいようと、関係がない。どちらの場合でも、施術者の志向性が、身体が進んで問題を明かし、癒される愛の空間を提供する。

エネルギー・アプローチとは呼ばない

この四つ目は、しばしばエネルギー・ヒーリングの一形態と見なされる。

だが Maitland は、そう呼ばない。理由はこうである。エネルギー的な癒しの技法は、四つのどのアプローチの中にも見出される。だから四つ目だけをエネルギー・アプローチと呼ぶのは、十分に正確ではない。

そこで彼が置いた名前が、ゼロ距離アプローチだった。

この指摘が2007年であることには意味がある。

エネルギーワークという語が曖昧すぎるという批判は、10年後の2017年に、ロルファーの Kevin Frank が改めて提示している。手を触れないことがエネルギーワークなのか。イメージを使えばそうなのか。遠隔で行えばそうなのか。強い力を使えばそうなのか。どれも定義にならない、と。そのうえで彼は、エネルギーではなく情報という枠組みを提案した。

Maitland の指摘は、そこへ至る前に置かれていたことになる。しかも、批判のためではない。癒しがどう起こるかを分けていく作業の途中で、四つ目に名前を付ける必要が生じ、エネルギーという語では足りないと判断しただけである。

エネルギーワークという語が指すものが定まらないという問題は、この分野の内側で、20年近く扱われてきたことになる(「エネルギーワークとは何か」参照)。

意図(intention)と志向性(intentionality)

論文の後半に、意図についての節がある。

近ごろ、あらゆる立場の施術者のあいだで、意図は技法より重要だ、という言い方をよく聞く。もう少し控えめに、意図は技法と同じくらい重要だ、と言われることもある。

ところが、と彼は続ける。こうした主張がこれほど頻繁になされる一方で、それが説明されるのを聞くことはほとんどない。セラピストたちはこの格言を聞いて熱心に頷くが、それは実際のところ何を意味しているのか。意図と技法の関係とは何なのか。意図するだけでそうなるのか、意図と技法が揃ってそうなるのか。

これらの格言は、意図と志向性の混同を含んでおり、そのために、言おうとしている大事な洞察が見えなくなっている、と彼は言う。

志向性とは、現象学の用語である。彼はそれを、施術者の向き(orientation)と呼び換えている。意識は常に何かについての意識である。志向性は、世界へ向かい、世界へ開かれている向きのことであり、常に自らを世界へ向け、世界から呼びかけられている。

そして、意図もまた志向性の一つの形にすぎない。何かをしようという意図は、志向性の一例である。現象学によれば、白昼夢も、怒りも、恐れも、悲しみも、問題解決も、希望も、信も、感情も、思考も、庭仕事も、知覚も、すべて志向性の形である。

ここから、彼の結論が出てくる。

意図は技法の一種である。その効果は、施術者の志向性に依存する。だから、意図が技法より重要だ、という格言は成り立たない。もしそれが正しいなら、技法が技法より重要だ、というに等しくなるからである。

正しく言うなら、こうなる。志向性が、意図よりも、技法よりも重要である。

ゼロを実践する施術者の志向性こそが、すべての癒しの中心にある、顔のない愛の働きへの道である。

イールドはどこに入るのか

四つを並べると、一つ問いが出てくる。日本で教えられているイールドは、このどこに入るのか。

私は2025年のアドバンスト・トレーニングで、講師の田畑浩良さんからこのワークを学んだ。クライアントがテーブルで接地面に自らを委ね、安定した基盤ができることで、内側から変化が起こる。分子細胞学のアンカリングに喩えて説明された。

四つのアプローチに当てはめようとすると、うまく収まらない。触れない場面もあるが、ゼロ距離アプローチとは違う。身体の自発的な力に任せる点は組織化の力へのアプローチに近いが、それだけではない。

理由は、問いの立て方が違うからである。四つのアプローチは、癒しがどのように促されるかの区別である。イールドは、施術者がどう在るかの話だ。

田畑さんは、イールドは技法ではないと明言している。身体化された気づきの状態であり、施術者がイールドを「する」のではない。構造へのアプローチであれ、ムーブメントであれ、クラニオセイクラルであれ、どのセッションにも通せるものだという。

Maitland の区別で言えば、イールドは意図の側ではなく、志向性の側にある。四つのアプローチのどれを選ぶかという手前で、施術者がどこから関わるかを決めている。

そう読むと、四つのアプローチとイールドは競合しない。四つのどれを使っていても、その手前に志向性がある。Maitland が言う、志向性が意図よりも技法よりも重要である、という結論と同じ場所を指している。

イールドについては、アドバンスト・トレーニングの総括に詳しく書いた(「Advanced Rolferの認定までの歩みについて【総括】〜認定までの道のり」参照)。

三つのパラダイムとの関係

Maitland には、もう一つよく知られた枠組みがある。三つのパラダイムである。リラクセーション、修正、全体性(「ホリスティックの治療とは何か?〜「パラダイム」から問い直す」参照)。

二つは、問いが違う。

パラダイムは、何を目指すのかを分ける。緊張を緩めるのか、症状を直すのか、全体の秩序を回復するのか。目的の階層である。

四つのアプローチは、どうやって癒しが起こるのかを分ける。直接か、間接か、組織化の力に任せるか、ゼロ距離か。施術者の志向性の階層である。

そして噛み合う。全体性のパラダイムに立ったとき、では実際にどう関わるのか、という問いに答えるのが四つのアプローチである。目的と方法にあたる。

出典の時期も違う。三つのパラダイムは Embodied Being(2016)、四つのアプローチは2007年の論文である。9年隔てて、同じ人が二つの枠組みを出している。

おわりに

四つを並べたうえで、Maitland は一つ断りを置いている。

これらを思考の上で明確に区別しようとしたからといって、実践の上でも分けて使うべきだと主張しているわけではない。四つすべてに通じた施術者の手の中では、それぞれのクライアントに合わせて最善と判断されたものが、しばしば混ぜ合わされて用いられる。

そして論文の締めで、彼は自分の探究の道のりを振り返っている。

癒しの禅の探究を終えて、相手と一つになりなさいという老師の言葉の単純さを思い出す。そして、そこへ辿り着くのにどれだけの言葉が必要だったかに驚く、と。

知性が無関係だというのではない。ここで言葉にされた洞察は、日常の知覚の重荷なしに、自由に見て感じることを学び続ける、常に続いている実践から生まれたものである。

読んでいて、24日間のトレーニングで受け取ったものが、どこから来ていたのかが分かった。ニュートラルも、プレゼンスも、意図と志向性も、この論文の中にある。2007年に書かれたものが、2025年の教室で教えられていた。

参考文献

Jeffrey Maitland, “Zen and the Art of Healing,” Structural Integration: The Journal of the Rolf Institute®, June 2007, pp.21-25

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka