在り方は、どこから来るのか──ボディワーカーのための現象学

判断、在り方、別の流派、待つこと ── 技術より先に働いている、四つのこと。

PHENOMENOLOGY

現象学という、ひとつの見方

同じ手順を使っているのに、人によって起きることが違う。同じ人がやっても、日によって違う。そこで問題になっているのは、技術ではありません。

施術者が、どういう在り方でそこにいるか。では、在り方とは何で、どこから来るのか。技術なら手順として教えられますが、在り方は、どう教えればよいのかが分からない。精神論にすると、何も言っていないのと同じになります。この問いに、百年かけて取り組んできた分野が、現象学です。

FOUR THEMES

知りたいことから、辿る

INTENTIONALITY

意図と、志向性は違う

意識は、いつも何かについての意識である。何かを見ている、感じている、考えている。意識は、その対象との関係の中で成り立っています。フッサールがフランツ・ブレンターノ(Franz Brentano)から引き継いだ、志向性(intentionality)という考え方です。

意図(intention)と志向性(intentionality)は、区別する必要があります。意図は「こうしよう」と立てるもの。志向性は、立てる前からすでに相手へ向かっている関わり方のほうを指します。技法を選ぶより前に、志向性のほうが先に働いている。

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背景と詳しい解説

はじめに

同じ手順を使っているのに、人によって起きることが違う。同じ人がやっても、日によって違う。そこで問題になっているのは、技術ではありません。

施術者が、どういう在り方でそこにいるか。では、在り方とは何で、どこから来るのか。ここで手が止まります。技術なら手順として教えられますが、在り方は、どう教えればよいのかが分からない。精神論にすると、何も言っていないのと同じになります。

この問いに、百年かけて取り組んできた分野があります。現象学です。現象学は、私たちが世界をどのように経験しているのかを問い続けてきました。その問いは、身体や知覚、さらには認知科学へと広がっています。

私は施術者の在り方について、トレーニングの記録として、また別の流派から受け取ったものとして、10年以上にわたって書いてきました。このページは、それらの経験を現象学の流れと結びつけ、一望するための地図です。どこから読んでいただいても構いません。

現象学という、ひとつの見方

はじめに、全体を貫く1本の背骨を示しておきます。

現象学は、世界を説明する理論である以前に、経験をどのように捉えるかという方法を重視します。普段当たり前だと思っている判断や前提をいったん括弧に入れ、経験に現れているものから始める。エポケー(判断中止)と呼ばれる手続きです。

同じ手つきは、哲学より先に、物理学の側にありました。エルンスト・マッハ(Ernst Mach、1838-1916)です。ニュートン力学は、絶対空間と絶対時間を前提にしていました。世界という入れ物が先にあって、その中で物が動く、という見方です。ですが、その入れ物そのものを、誰も観測したことがありません。

マッハは、それを外しました。観測に現れないものは、物理学の土台に置かない。残るのは、感覚に現れるものと、その関係だけになります。アインシュタインは、そこから出発して相対性理論を作りました。前提を外したら、見えるものが変わった。

マッハ自身は、この立場を現象学的物理学と呼んでいます。「現象学」という語は、哲学の用語になる前に、物理学の側から出ていました。このあとの表でマッハが最初に来るのは、そのためです。

マッハが立っていたこの接点については、別のサイトで一本書きました。シリーズ「哲学シリーズ──認識の地図を描く」(Mind and Bodywork Lab、全4回)の第4回です。相対論と量子論が、「客観的な世界が向こうにある」という前提をどう揺さぶったのか。そこにマッハがどう関わっているかを扱っています。

この方法を現象学の中心に据えたのは、エトムント・フッサール(Edmund Husserl)です。20世紀の初めに現象学を確立した哲学者です。

フッサールが師のフランツ・ブレンターノ(Franz Brentano)から引き継いだ考え方が、もう1つあります。志向性(intentionality)です。意識は、いつも何かについての意識である。何かを見ている、感じている、考えている。意識は、その対象との関係の中で成り立っています。

ここに、施術者の在り方を考える手がかりがあります。意図(intention)と志向性(intentionality)は、区別する必要があります。意図は「こうしよう」と立てるもの。志向性は、立てる前からすでに相手へ向かっている関わり方のほうを指します。技法を選ぶより前に、志向性のほうが先に働いている。

ただし、一つ断っておきたいことがあります。現象学は、最初から身体の哲学ではありませんでした。

フッサールが扱っていたのは意識です。身体が哲学の正面に来るのは、そこから数十年あとになります。記述する前に、人はすでに世界の中で動いている——マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)がそう言い、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)が、動いているのは身体だと言った。そして1991年、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)とエヴァン・トンプソン(Evan Thompson)が、それを認知科学の言葉にします。エナクション(enaction)です。

身体性という語が、ここで中心に来ます。身体は、世界から情報を受け取って脳へ運ぶだけの通り道ではありません。何が自分にとって重要な環境なのか、どのような行為が可能なのか。その関係をつくり出す働き手でもあります。

ボディワークをしている人間が現象学を読むと話が通じるのは、偶然ではありません。百年かけて、向こうがこちらへ来たからです。その移動そのものを辿ったのが、下の「まず読むなら」で紹介する全2回のシリーズです。

なお、ヴァレラたちは現象学の課題も指摘しました。経験を記述する重要性は語られてきたが、そのための体系的な訓練方法は十分に発展していなかった。その課題に取り組むうえで参照されたのが、仏教の瞑想の伝統です。この線は、別のサイトで4回に分けて書きました。シリーズ「現象学と認知科学──心をどこまで捉えられるか」(Mind and Bodywork Lab)です。ヴァレラが仏教を取り入れた理由は第3回、ヴァレラとトンプソンが誰から何を引き継いだのかは第4回にあります。

この思想の分かれ目は、人工知能への批判の中でも正面から扱われました。ヒューバート・ドレイファス(Hubert Dreyfus)は、フッサールの思想には心を情報処理として捉える発想につながる側面があると考え、一方でハイデガーとメルロ=ポンティの思想に、従来の人工知能研究では捉えきれない人間の知性を見出しました。その経緯は別の記事にまとめています。

▶ 分析ではなく、知覚を問う──哲学者が、人工知能の評価を引き受けた理由

現象学から身体性へ──思想の流れ

ここまで登場した人物を整理すると、次のようになります。それぞれが同じことを主張したわけではありません。意識をどう捉えるかという問いが、人間と世界の関係、身体による知覚、そして認知科学へと広がっていった流れとして見ると、つながりがわかりやすくなります。

人物中心となる問い・考え方次につながるもの
マッハ観測されない前提(絶対空間・絶対時間)を外し、感覚に現れるものから始める相対性理論。エポケーと同じ手つき
ブレンターノ意識は常に何かに向かっている(志向性)フッサールの現象学
フッサール判断をいったん保留し、経験がどのように現れるかを記述するハイデガー、メルロ=ポンティ
ハイデガー人間は世界を観察する前に、すでに世界の中で活動している世界内存在と実践的な知の理解
メルロ=ポンティ身体は世界を知覚する主体である身体性認知科学
ドレイファス熟練した行為は、規則の適用だけでは説明できない人工知能批判と身体的技能の研究
ヴァレラ認識は身体と環境の相互作用を通じて成立するエナクティブ認知科学
トンプソン生命、意識、身体、経験を統合的に考える現象学と認知科学の対話

※この表は、厳密な師弟関係や一方向の継承を示すものではなく、思想上の接点と展開を整理したものです。

ここまで紹介した哲学者や認知科学者は、それぞれ異なる問題に取り組んできました。しかし、共通する重要な問いがあります。人間は、世界を外側から観察し、分析してから行動するだけの存在なのか。それとも、すでに身体を通じて世界と関わり、その中で意味を見出している存在なのか。

この問いは、施術の現場にも直接届きます。身体の状態に名前を付けた瞬間、目の前のその人に起きていることを、既存の知識に当てはめて見てしまうことがあります。判断をいったん保留し、今、何が起きているのかを観察する。そして、現れたものを理解し、次の働きかけを考えるための枠組みとして、原則がある。

では、こうした考え方は、実際に人の身体に触れる仕事の中で、どのように学び、身につけることができるのでしょうか。ここからは、私自身のトレーニングと実践の記録を通じて考えていきます。

まず読むなら

現象学とロルフィングのつながりを、正面から扱った記事があります。哲学の側から降りてくるのではなく、施術の現場から始めて概念へ上がる形で、先に挙げたブレンターノから、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)までを辿ったものです。

2025年のアドバンスト・トレーニングで受け取った枠組みの多くが、Jeff Maitlandという一人の人から来ていました。哲学の終身在職教授であり、禅僧であり、認定アドバンスト・ロルファーだった人です。ゲーテは詩人として知られていますが、自然の観察についても方法を残しました。その「正確な感覚的想像力」を、Maitlandが見ることの練習として使っています。

全3回の連載です。第1回が、判断を止めることと、ロルフィングの5つの原則。第2回が、見ることをどう教えるのか。第3回が、全体性という原則はどこから来たのか。

▶ 第1回:名前が付くと、見えなくなる──現象学は、施術の現場で何を変えるのか

▶ 第2回:見ることは、教えられるのか──現象学に欠けていた、実践の次元

▶ 第3回:部分を足しても、身体にならない──現象学とゲシュタルト心理学が分かれた場所

もう一つ、全2回のシリーズがあります。こちらは、現象学の側の歴史です。意識から始まった学問が、百年かけて身体まで降りてくる。その移動を辿ったものです。なぜボディワーカーが現象学を読むと話が通じるのか、という問いへの答えが、歴史そのものの中にあります。

第1回が、身体がまだ入っていないころ。マッハ、ブレンターノ、フッサールです。第2回が、身体が中心に来るまで。ハイデガー、メルロ=ポンティ、ヴァレラとトンプソンです。

▶ 第1回:意識から、始まった──現象学は最初、身体の哲学ではなかった

▶ 第2回:身体が、中心に来た──止めているのは意識だけではない

知りたいことから、辿る

ここからは、関心のある問いに合わせて記事を選べるように整理しました。まず全体を表にまとめ、その後に4つのテーマに分けて紹介します。

知りたいことどこを読むか
現象学とロルフィングは、どうつながっているのか名前が付くと、見えなくなる
見ることは、どう教えるのか見ることは、教えられるのか
なぜ、全体を見ろと言われるのか部分を足しても、身体にならない
現象学は、どこから来たのか意識から、始まった
在り方を身体で教わるのは、なぜ成り立つのか身体が、中心に来た
なぜ「判断しない」と教わるのかPhase III(19)〜Case Presentation(2)
在り方とは何かJeff Maitlandの3つの問いかけ、在り方、知覚、自己調整/意図と志向性の違い
どうすれば身につくのか「ニュートラル」をどう育むか?
なぜ、手順では教えられないのか手順を、教わらなかった──11年の課程を、身体性から読み直す
施術者は、どう見ているのかロルフィングにおける原理・原則と観察力
受けた人に、何が起きているのかボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか

判断を、止める

基礎トレーニングで教わったことの多くが、禁止の形をしていました。判断しない、指摘しない。当時は、なぜそういう言い方になるのかが分かりませんでした。10年後、現象学を通じて、その意味を改めて理解することになります。

在り方と、ニュートラル

2025年のアドバンスト・トレーニングで、在り方を身体を通じて学ぶ方法が明確になりました。意図と志向性は違う。志向性のほうが、意図よりも技法よりも重要である。そして、その在り方を育てるための身体の置き方がある。

別の流派から、同じところへ

在り方についての学びは、ロルフィングの外からも入ってきました。ソースポイントセラピー、直傳靈氣、IMAC。知識を増やす方向と、施術者が何かをしようとする働きを減らす方向を、同じ時期に並べて受け取っています。当時は別々に見えていた経験が、10年後、在り方という一つの問いのもとにつながってきました。

待つこと

待つことについては、コーチングの側から先に書いていました。ロルフィングを知る前からある主題です。相手を変えようと急ぐのではなく、相手の中で何かが起きる余地を残す。2025年には、それが身体の置き方として、改めて教えられました。

次に読むなら

ロルフィングが身体をどう見ているかについては、別の入口もあります。ここまで扱った「施術者の在り方」を、知覚、筋膜、重力、空間、エネルギーワークという異なる視点から考えることができます。

施術者ではなく、受けた側に何が起きるのか。そちらからの入口もあります。

在り方が、どうやって身につくのか。学ぶ過程のほうからの入口もあります。

  • 人工知能から問い直す、身体性と上達──上達のほうから。ドレイファス『純粋人工知能批判』をもとにした、全3回の連載です。第1回が技能の5つの段階、第2回が11年の課程をその5段階で読み直したもの、第3回が現象学の側から人工知能を問い直した経緯です

わかっていること、まだわからないこと

ここで紹介したのは、身体の仕事をしている人間が、現象学から何を受け取ったかであって、現象学そのものを網羅的に解説したものではありません。

そして、現象学の側にも課題があります。経験を記述する重要性は示されたが、そのための体系的な訓練方法は十分に整えられていなかった。ヴァレラたちは、1991年にこの問題を取り上げました。考え方を理解することと、実際に経験の仕方が変わることは、同じではありません。この指摘は、ここで紹介した見方にも当てはまります。

ここで紹介した知見は、手が触れている相手をどう捉えるかという見方を新しくするものであって、何かの効能を約束するものではありません。わかっていることと、まだわからないことの境は、正直に引いておきたいと思っています。

では、最初の問いに戻ります。在り方は、どこから来るのでしょうか。

在り方は、知識を増やすだけでも、技法を繰り返すだけでも身につくものではありません。自分が何を見て、何を見落としているのかに気づき、身体を通じて他者や世界との関係を学び直していく。その積み重ねの中で、少しずつ育っていくものなのだと思います。


自分がどこから見ているかは、自分では見えません。誰かに見てもらうところからしか、始まらないところがあります。

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この問いの、その先へ

同じ身体を見ていて、違うものが見えるのはなぜか。あるいは、受けた側には何が起きているのか。