前回に続き、吉福伸逸氏のセラピストとしての考えについて取り上げたい。1回目は、セラピストとしてどのようにして人を見たらいいのか?について書いた(「心の4レベル」参照)。今回は、セラピストが現場で経験する3つの要素について取り上げたい。
『吉福伸逸の言葉』によると、セラピストが現場で経験する要素をコンテキスト、プロセスとコンテンツの3つに分けて考えている。
もっとも大切なのは、コンテキスト。英語でコンテキスト(Context)といえば文脈だが、場、背景、環境という意味もある。
セラピストはクライアントに対して本質的に何もできないのだ
という前提で吉福氏はセラピストについて語る。
以前、ロルフィングのPhase IIIのトレーニングの最後の質疑応答で触れたように
結局、ロルフィングができることは、クライアントに対して何か付加価値を与える(例、治療すること)ではなく、クライアントに対して気づきを与えることぐらいしかできない。そして自ずと、本人にとって適切だと思うことを選択していく。
という考え方に近く(「今までどのように自分自身の身体と向き合ってきたのかがセッションに出る」参照)、最初にこの言葉を聞いたときに、お、この考え方すごい!と思った。
さらにすごいと思うのは、吉福氏はセラピストがクライアントを誘導する際には害にならないとはいえ、プラスになることはないと断言しているところ。セラピストがお金をいただきながら、クライアントと対峙しているわけだから、治癒したり、導くことを考えている人にとって意外に感じるかもしれない。しかしながら、治癒したり、導くことを考えれば考えるほど、自分のエゴという面が強く出て、相手が見えなくなってしまうということが起こってくる。
では、セラピストは、クライアントに何を提供できるのか?吉福氏は、それをコンテキストと呼ぶ。世界観や人間観といってもいい。つまり、セラピストの世界観や人間観がセラピーに参加している人に対して、影響を及ぼしていることになる。恐ろしいことに、人間観や世界観は、それをセラピストが言語化しようがしまいと、意識化していようと無意識のままであろうと、セラピーの場に強く反映されるということ。その結果として、セラピストが人間として醸し出す雰囲気、気配、波動などが、その場に色濃く映し出されることになる。
結局、完璧な人間というのもいないわけで、限界のある人間がセラピストとして提供できるのはコンテキスト(器と言っていいかもしれない)。それがどれだけ大きいかによって決まってくる。そのためには吉福氏の言葉を拝借すると、
人が生きていく上で遭遇すると思われるあらゆる形の艱難辛苦、あるいは苦しみのようなものを、できる限り自分自身でも経験して、それによって人間観に大きな歪みが生じず、妥当性のある人間観を持っていられるような人生を生きていれば、セラピストやカウンセラーとしては最高だ
となる。
私自身、コーチングやNLPを勉強していて感じるのは、精神的にみて問題を抱えている人が、これらを知識として修得していく人が意外と多いこと。自分の問題を解決するために、若しくは好奇心として、これらを学ぶのは全く問題がないが、セラピストとして独り立ちするためには、自分の精神的な問題を解決することが先決のように思う(この点については、「心の4レベル」にも少し書いた)。
理想的なセラピストは、同行者としてクライアントと一緒に歩みながら、コンテキストであり続けるもの。相手に左右されないニュートラルな姿勢を保つことの重要性に気づかされる。
次にセラピーの現場で起きているプロセス(過程)について見てみよう。人間はそもそも肉体的、精神的な問題に対して、自然治癒力というのを備えているのだが、治癒プロセスの際、置かれている環境(家庭、職場、学校、友人関係など)によってそれを許容できず、誤解されたり、諌められたり、攻撃されたりすることで、症状の発現を抑えてしまう。
セラピストの役割は、コンテキストとして症状が出たとしても、信頼感を持って症状が表出することができることを手助けすること。
吉福氏の言葉で言い換えると、
コンテキストを提供することによって、参加者が何が起こってこようと恐怖感や拒絶感なしにそれに触れていくことができるような状況を作るのが、セラピストにまず要求される役割
となる。
セラピストに求められるのは、なるべく介入せず、そしてプロセスを全面的に信じて任せるような場作りということなのだろう。
最後のコンテンツは内容だが、これは、プロセスの結果として埋まってくるもの。その内容は十人十色となる。セラピストは予め内容を設定して、プロセスに対してこのような内容になると決めつけてしまう傾向があるが、それは吉福氏によるとダメだということになる。スキルセットが最後に来るというのは意外だが、ロルフィングのトレーニングで学んだときにも言われたことがある。心構えがしっかりしていればテクニックは後から付いてくるものなのだろう。
この原稿をまとめるに当たって、Phase IIIのロルフィングのトレーニング期間に
ロルファーが今までどのように自分自身の身体と向き合ってきたのか?というものがクライアントに伝わるから。
ということを言われたことが頭にあった(「今までどのように自分自身の身体と向き合ってきたのかがセッションに出る」参照)。結局は、セラピストも人間。その人間によって大きな影響があるのだということ。ロルフィングを含め、人と対峙するときにはそういったことを忘れずに、向き合っていきたい。
2026年9月の注記
この回の終わりに近いところで、理想的なセラピストを「相手に左右されないニュートラルな姿勢を保つ」と書いている。
ニュートラルという語そのものは、これより前にも使っている。ミュンヘンのPhase IIIで「心をニュートラルにする」と教わったときは、コーチングから持ってきた心の状態のことだった(「スペースと心の部屋」参照)。Case Presentationの回では、判断しない・指摘しないという禁止の並びの隣に、二度目として出てくる(「Case Presentation(2)〜セッション7を終えて」参照)。
この回が違うのは、施術者の在り方としてその語を使っている点だ。しかも中身を、人生経験の総量として説明している。あらゆる形の艱難辛苦を自分でも経験して、人間観に大きな歪みが生じていない人がセラピストとして最高だ、という吉福氏の言葉をそのまま引き、コンテキストは器の大きさで決まると書いている。
そう書くと、器は自分ではどうにもならないものになる。生きてきた年数と経験の質で決まり、その日のセッションで変えられるものではない。
2025年のアドバンスト・ロルフィング・トレーニングで学んだニュートラルには、三つの要件があった。Shape the Hand(身体のほうに手を形づくらせる)、Finding Back Space(自分の背中側に意識を向ける)、Hara(肚)。どれも、いま自分の身体をどう使うかという話で、その場で整えられる。器の大きさではなく、手順だった。
ただし、器の話が消えたわけでもない。田畑浩良さんは、施術者はアンカーとなり身体共鳴が常に起きるため、内側に葛藤のない平穏な状態が要ると説明している。この回で「セラピストが人間として醸し出す雰囲気、気配、波動などが、その場に色濃く映し出される」と書いたことと、指している場所は変わらないように思う。語彙が違うだけかもしれない。
もう一つ、順序がある。吉福氏の枠組みでは、コンテキストが最初で、スキルセットにあたるコンテンツが最後だった。本文はそれを意外だと書いたうえで、ロルフィングのトレーニングでも同じことを言われたと続けている。10年後のアドバンストでも、手技の前に三つの問いかけがあった(「Jeff Maitlandの3つの問いかけ、在り方、知覚、自己調整」参照)。
そして「セラピストはクライアントに対して本質的に何もできない」。この一文は、2025年にRay McCallから志向性として教わった「クライアントのほうがプラクティショナーよりも賢い」と、同じことを言っている。大阪の佐藤博紀さんも、一通り学んだ結論として「体の方が賢い」と書いている。吉福氏の言葉として2015年に書き留めていたものが、10年後に施術の側から二人分、戻ってきたことになる。







