はじめに
前編で、日本には脚をめぐる二つの極端な文化があると書いた。
飛脚は街道を継いで走り、情報を運んだ。歩くことが手段だから、速さが問われ、町飛脚の便では値段にまでなった。修験道は山に入り、歩くこと自体を行とした。歩くことが目的だから、速く着くことに意味はない。
同じ二本の脚で、正反対のことをしている。
そして記事の最後に、こう書いた。歩くことが行になる場所へ、これから行く。次回は、実際に歩いた記録になる、と。
2026年8月21日から24日まで、3泊4日で香川県と徳島県を巡った。修験の山である剣山に登り、祖谷(いや)のかずら橋を渡り、空海が生まれた善通寺で地下の暗闇(戒壇めぐり(かいだんめぐり))を歩いた。
歩いた記録としては、すでに4本の記事にまとめている。そこで書いたのは、主として、本で読んだことと実際の土地がどうつながったかということだった。
ここで書きたいのは、そのあいだ自分の身体に何が起きていたか、についてである。なぜならば、経験したことは予想外のことが多かったからである。
結論から言うと、私は前編で立てた問いとは違うところで、答えを受け取ることになった。
剣山と次郎笈を歩いて、疲れなかった
3日目、剣山に登った。標高1,955メートル、四国で二番目に高い山であり、修験の山である。
登山リフトで標高約1,750メートルの西島駅まで上がり、そこから尾根道コースで山頂へ向かった。約900メートル、40分ほどの道である。距離としては短いが、階段や傾斜のある場所が多く、小石や大きな石も転がっている。
山頂に着いた時点では、次郎笈(じろうぎゅう)まで行く予定はなかったが、山頂から次郎笈へ続く笹に覆われた稜線を見て、この先まで歩いてみたくなった。そこで「ここまで来たのなら、次郎笈へ行きましょう」と提案し、予定を変更して約2.5キロメートル先の次郎笈を目指した。
遠くから見ると、稜線を気持ちよく歩いて行けそうに見える。実際には、剣山山頂から一度大きく下り、そこから次郎笈へ登り返さなければならない。見た目以上に高低差があり、体力を使う道だった。
次郎笈まで往復し、帰りは約1,980メートルの遊歩道コースを80分かけて下った。
一日を終えて気づいたのは、自分にはそれほど強い疲労がなかったことである。
一方で、一緒に歩いた旅仲間には、剣山と次郎笈を往復した疲れがかなり出ていた。遊歩道コースの長さが身体にこたえ、次第に歩幅も小さくなっていった。全体の歩調を合わせながら、ゆっくりと下ることになった。
同じ道を、同じ時間、同じ順番で歩いている。それでも疲労の出方は、一人ひとり異なる。
前編で私は、ロルファーとして確かめておきたいことを書いていた。長時間の座位で股関節の可動域がどうなっているか。足がどのくらい沈み、どのくらい硬いか。舗装路しか歩いていない足は、一歩ごとに条件が変わる山道に準備ができていない、と。
実際に登ってみると、私は普段の運動靴で歩いていた。登山靴でもなく、トレッキングポールも持っていない。装備という点では、むしろ条件が悪かったはずである。
なぜ疲れなかったのか。正直なところ、その理由をはっきり説明することはできない。一つ言えるのは、歩いているあいだ、力が抜けていたということである。
その「力が抜ける」状態には、心当たりがあった。
Eye of the Foot──足裏に目を持つ
2025年7月、東京・市ヶ谷で開催されたアドバンスト・ロルフィング・トレーニング(Phase 2)に参加していた。講師は、Ray McCall先生と田畑浩良先生である。
そのなかで行われたエクササイズの一つが、「Eye of the Foot(足の目)」だった。Rayが毎回のトレーニングで紹介しているというワークである。
やり方はシンプルだ。まず「足裏に目がある」と仮定する。そして、その目を開いたり閉じたりしてみる。それによって、身体の内部や周囲の空間にどのような変化が起こるかを観察する。
「Eye of the Foot」を閉じて立つと、身体全体が収縮し、地面との接触感が変わる。逆に開くと、骨盤底や横隔膜に開放感が生まれ、重力との関係性が変化する。
歩きながら開閉を繰り返すと、周囲との距離感や、空間との一体感が、まったく違うものとして感じられるようになる。
このワークで学んだ核心は、空間についての捉え方だった。
空間とは「何もないもの」ではない。私たちと対象物との関係性が生じる“場”であり、“質”を持った存在である。
対象物そのものに意識を集中したときと、その“あいだの空間”に意識を移したときとでは、身体の反応が明確に変わる。さらに、その空間の「背後」まで認識すると、より広範囲にわたる身体的な支持と、安心感が生まれる。
トレーニングでは、ある参加者が空間を「みずみずしいもの」「密度を持ったもの」として感じたと語っていた。空間はただの背景ではなく、身体が応答し、関係を持つ“相手”として存在している、ということである。
そして、空間の知覚が変わると、身体のバランスや筋肉の張力(Tonus)の配分も変わっていく。
空間に対して開いているときには、脱力とリリースが促される。逆に閉じると、より内側に「芯」が通る感覚が生まれる。これは単なるリラックスではない。環境に応じた「適正な筋肉の張力」を見出す練習と言っていい。
剣山を歩いているとき、私は足裏に目を持つように歩いていた。足元の石を見ながら足場を選ぶのだが、視覚だけで判断するのではなく、足裏が地面をどう捉えているかを感じながら進む。
なぜそれで疲れないのかは、やはり分からない。ただ、力が抜けていたことは確かである。そして力が抜けているとき、身体は必要な場所にだけ、必要なだけ働いている。
前編で書いた「舗装路しか歩いていない足は、一歩ごとに条件が変わる山道に準備ができていない」という懸念について言えば、準備ができていたのは足の硬さや可動域ではなく、足裏の使い方のほうだった、ということになる。
かずら橋──空間が「防御すべきもの」になる
同じ日の夕方、下山した後に、祖谷のかずら橋を渡った。
日本三奇橋の一つに数えられる吊り橋で、国の重要有形民俗文化財に指定されている。長さ45メートル、幅約2メートル、水面からの高さは約14メートル。約6トンのシラクチカズラで造られている。
遠くから眺めると、深い緑の渓谷と自然素材の橋が調和して、非常に美しい。
しかし、実際に渡ってみると、印象は一変した。
足元に並べられた木の間隔が広く、その隙間から、はるか下を流れる祖谷川が見える。一歩進むたびに橋が揺れる。足をどこへ置けばよいかを確認しながら、手すり代わりのかずらをつかんで、慎重に前へ進まなければならない。
私にとって、それは風情のある橋を楽しむというより、恐怖でしかない体験だった。頭では、橋が安全に管理されていると分かっている。それでも身体は、素直に恐怖を感じていた。数時間前まで、私は剣山を力を抜いて歩いていた。同じ足裏である。同じ日の、同じ身体である。それがまったく逆の反応をした。
違いは何だったのか。
山では、足裏の下に地面がある。地面という空間が、身体を支えてくれる相手として存在している。ところがかずら橋では、足元の隙間から谷底が見える。足裏の下にあるのは、14メートルの落差である。
Eye of the Foot のトレーニングで、ある参加者がこんなことを語っていた。
これまでは、空間は“防御すべきもの”だった。しかしこのワークを通じて、空間は“楽しみが起こりうる場”として感じられるようになった。
かずら橋の上で私に起きていたのは、まさにこの逆だった。空間が、支えてくれる相手ではなく、防御すべきものとして立ち上がった。
そのとき身体は開かない。閉じる。力が入る。
空間は「あるもの」だと、Eye of the Foot は教える。かずら橋は、それを最も分かりやすい形で示していた。あそこにあったのは「何もない空間」ではない。落差という質を持った、はっきりと「ある」空間だった。だから身体が反応したのである。
前編で、飛脚は水平に動き、修験者は垂直に動くと書いた。かずら橋の上で私の身体が捉えていたのは、そのどちらでもない。足裏の真下に開いた、垂直の空白だった。
善通寺の戒壇めぐり──空間しか残らない
旅の最終日、空海が生まれた場所とされる総本山善通寺を訪れた。拝観料を支払うと、御影堂の地下にある戒壇めぐりを体験できる。
地下へ下りると、そこには光のまったくない暗闇が広がっていた。目が慣れれば何かが見えるという暗さではない。どれほど目を凝らしても、何も見えない。
左手を壁に触れ、壁を伝いながら、少しずつ前へ進んでいく。
普段、私たちは視覚から膨大な情報を得ている。目の前に何があるのか、床がどこまで続いているのか、次にどちらへ曲がるのかを、ほとんど意識することなく判断している。完全な暗闇では、その当たり前の能力を使うことができない。
頼れるのは、壁に触れている左手の感覚、足裏から伝わる床の状態、周囲の音、そして自分の身体がどちらを向いているかという感覚だけである。
ここで起きていることは、Eye of the Foot の言葉で言い直すことができる。
暗闇のなかには、見るべき対象物が一つもない。あるのは、左手が触れている壁と、足裏が捉えている床と、そして周囲の空間だけである。
つまり戒壇めぐりでは、「対象物ではなく空間に意識を移す」ことが、選択ではなくなる。そうするしかない。
トレーニングでは、足の目を開いたり閉じたりして、その違いを観察した。暗闇では、開いた状態しか存在しない。
そして興味深いことに、私はそこで恐怖を感じなかった。
少し不安ではある。しかし同時に、とても面白い。次に何があるか分からないまま、それでも左手で壁を確かめながら進んでいく。その状態を、観察しながら歩くことができた。
十一年前は、恐怖が先に来た
暗闇を歩く体験を、私は以前にもしたことがある。
2014年2月、Dialog in the Dark(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)のイベントに初めて参加した。15分間の短いプログラムで、視覚障害者のアテンドとともに、明るい部屋から薄暗い部屋へ、そして非常灯もない完全な暗闇へと入っていく。
そのとき、まず私を襲ったのは恐怖感だった。
そのあとサッカーボールを回したり、デコボコした足場を手をつなぎながら歩いたりという、ごく単純なことをするのだが、目が見えない状態で五感をどう使うのか、という模索がそこから始まった。
翌2015年4月、今度は70分のフルバージョンに参加した。
このとき私は、前回ほどのインパクトも恐怖感も感じなかった。
なぜだろうかと当時考えて、二つの理由を挙げている。
一つは、その直前に世界一周の旅を終えていたことである。25カ国55都市を巡ったが、そのうち21カ国49都市は英語以外を母国語とする土地だった。標識に英語も日本語もないため、視覚に頼ることができない。ヨーロッパでは英語による聴覚的なコミュニケーション、英語の通じない南米ではボディランゲージが頼りになった。
もう一つは、ロルフィングのトレーニングを通じて、人との間にスペース(間)をとることの大切さを学んでいたことである。
茂木健一郎氏とDIDの共著『まっくらの中での対話』に、こんな趣旨の一節がある。多くの人は最初、本当の暗闇に恐怖を覚える。しかし十分も経つ頃には「もういいや、見えなくても」と、見ようとする努力をあきらめる。一種の開き直りだが、そうすることで、それまで半ば閉じられていた聴覚や嗅覚がだんだんと冴えわたってくる、と。
2014年の私は、恐怖から始まって、そこから模索を始めた。2015年の私は、恐怖を感じずに済んだ。
そして2026年、善通寺の地下で、私は最初から観察者として歩いていた。左手の感覚、足裏の床、周囲の音、身体の向き。何が起きているかを、その場で言葉にしながら歩くことができた。
十一年かけて、暗闇は恐怖の対象から観察の対象に変わった。
その十一年のあいだに、ロルフィングの基礎トレーニングがあり、ロルフ・ムーブメントの認定があり、そして2025年のアドバンスト・トレーニングがあった。
暗闇そのものは、十一年前と同じ暗闇である。変わったのは、こちら側だった。
感覚は妨げではなく、入口である
今年の7月から8月にかけて、空海と最澄の一次資料を読み続けてきた。
空海の著作の一つに『声字実相義』がある。声と文字が、そのまま実相であると論じた書物である。
密教では、感覚器官が修行の妨げになるとは考えない。むしろ、感覚が悟りへの入口になる。だから香が修法に使われ、書が芸になり、曼荼羅が視覚の装置として機能する。
序で、空海が持ち帰ったのは思想ではなく、手順と道具と身体の使い方だったと書いた。前編では、修験道はそれを山に置いたものだと書いた。曼荼羅を掛け、印を結び、真言を唱えるかわりに、尾根を歩く、と。
戒壇めぐりは、そのもう一つの形かもしれない。
あの暗闇は、空海との縁を結ぶ精神修養の場とされている。地下を歩き、光のない場所を通り抜けてくることに、宗教的な意味が与えられている。
その意味を知らなくても、光を失ったときに自分の身体がどのように周囲を捉え直すのかは体験できる。
しかし逆に言えば、あの暗闇は、感覚を通り道にするための装置として造られている。視覚を奪うことで、他の感覚を前面に出す。そして視覚が使えないまま、壁を伝って進み、また光のある場所へ戻ってくる。
前編で、修験道とは山に入り、一度死に、生まれ直すことで自己を変容させる実践体系だと書いた。擬死再生である。
暗闇に入り、光のない場所を通り、また出てくる。地下を歩くという行為は、山に入るのと同じ構造をしている。空海が生まれた場所の地下に、その装置がある。
入らなかった行場
最終日、最後に訪れたのが出釈迦寺だった。四国八十八ヶ所霊場第73番札所、正式名称を我拝師山 求聞持院 出釈迦寺という。
幼い空海、当時の真魚が7歳のとき、我拝師山に登り、自分が将来仏道に入って人々を救うことができるのであれば姿を現してほしい、叶わないのであればこの身を諸仏に捧げると願い、断崖から身を投じたという伝説が残されている。
当初は境内を参拝して旅を終えるつもりだった。しかし現地まで来ると、我拝師山の中腹にある奥の院にも行ってみたくなった。急な坂道を約30分かけて登り、堂宇までたどり着いた。
前日は剣山と次郎笈を歩いたばかりである。二日続けて山に入ったことになる。
そして、そこで止めた。
奥の院からさらに上には、真魚が身を投じたと伝えられる「捨身の行場」がある。そこへ向かうには、通常の登山道ではなく、急峻な岩場を、鎖や岩の突起につかまりながら登らなければならない。事前に映像で確認すると、ほぼ垂直に見える岩壁をよじ登り、足を踏み外せば滑落しかねない場所だった。
十分な登山経験と岩場を通過する技術、適切な装備が必要となる、本来の意味での「行場」である。私たちはその岩場には入らず、奥の院から岩壁を仰ぎ見るにとどめた。前編で「歩くことが行になる場所へ、これから行く」と書いた。実際に行ってみると、行になる場所は、そこからさらに上にあった。
入らなかったのは、判断である。そしてその判断をしているのも、身体である。かずら橋で恐怖を感じたのと、同じ身体である。
修験について、頭で理解できることは限られている。ただ、奥の院から岩壁を見上げたとき、あそこへ入っていくことがどういうことなのかは、少しだけ分かった。あれは登山ではない。歩くことが手段である人間は、あの岩には取り付かない。
速さを問わない歩き方をしていた
前編で、飛脚は手段として歩き、修験は目的として歩くと書いた。同じ列島の同じ時代に、しかも同じ村の兼業者によって、その二つが並存していたことも書いた。
では、私はどちらの歩き方をしていたのか。
剣山では、速く登ることを目指していない。予定になかった次郎笈まで歩いたのも、先へ行きたくなったからで、時間を短縮するためではない。奥の院へ登ったのも、当初の予定にはなかった。
歩数を稼いだわけでも、記録を作ったわけでもない。ただ、そこへ行ってみたくなって歩いた。
そして歩いているあいだ、足裏が地面をどう捉えているかを感じていた。それは、速く着くための技術ではない。
前編でこう書いた。手段であるものは、より良い手段に置き換えられる。飛脚は法によって畳まれ、運ぶ力は車輪と機械へ渡った。目的そのものである行為は、技術によって短縮できない、と。
足裏に目を持って歩くことも、短縮できない種類のものだった。十一年前、暗闇で恐怖を感じた。世界一周を終えた翌年、恐怖は薄れた。そして今年、地下の暗闇を観察しながら歩いた。
この変化は、より良い手段に置き換わったのではない。同じことを繰り返してきた結果である。
私たちは、空間との関係において存在している
Eye of the Foot のトレーニングを終えたとき、私はこう書いた。
私たちは、空間の中に存在しているのではない。空間との関係性において、私たちは存在している。
一年後、四国の山と橋と地下の暗闇を歩いて、その言葉が具体的なものになった。
- 剣山では、空間が支えてくれる相手だった。だから力が抜けた。
- かずら橋では、空間が防御すべきものになった。だから身体が閉じた。
- 善通寺の地下では、空間しか残らなかった。だから足裏と左手が、目の代わりをした。
- 出釈迦寺の奥の院では、その先の空間を仰ぎ見て、入らなかった。
同じ身体が、場所によってまったく違う反応をする。四日間で、それが何度も起きた。
前編を書いたとき、私は歩き方が二つあると考えていた。速さを問う歩き方と、速さを捨てる歩き方である。実際に歩いてみて分かったのは、脚の使い方の違いというより、その場所の空間と、どういう関係を結ぶかの違いだったということである。飛脚は街道という空間を、通過すべきものとして扱った。修験者は山という空間を、関係を結ぶ相手として扱った。
同じ二本の脚で正反対のことができるのは、脚が二通りに動くからではない。空間が二通りに現れるからである。
(歩く・全3回)
- 序:立体として刻まれた身体──「空海と真言の名宝」展から、四国へ
- 前編:脚が国をつないだ──飛脚と修験道、日本人の二つの歩き方
- 後編:四国を歩いて何が起きたか──足裏に目を持って、剣山とかずら橋と暗闇を(本記事)
