
2014年、ミュンヘンで渡された2つの名前
2014年、ミュンヘンでの基礎トレーニング Phase II。リード講師は Giovanni Felicioni だった。
イギリス在住のイタリア人で、舞台俳優だった人である。ルネサンスから印象派までの画家が人体をどう見てきたか、という美術史の授業もあった(「ヨーロッパのロルファーとしての認定までの歩みについて〜ヨーロッパ・ロルフィング協会・認定トレーニング」)。見ることを、いろいろな角度から持ってくる人だった。
確かではないのだが、Tonic Function の説明の中だったと思う。ジェームズ・ギブソン(James J. Gibson)のアフォーダンス(affordance)という考え方が、少しだけ紹介された。そして同じころ、エドワード・T・ホール(Edward T. Hall)の『かくれた次元』を読むように勧められた。

アフォーダンスのほうは、気になって自分で追いかけた。佐々木正人著の『新版 アフォーダンス』を読んだ。『かくれた次元』のほうは、いまも読んでいない。いずれ読もうと思っている。

当時、なぜこの2つが並ぶのかは、分からなかった。
いまなら、片方は言える。
ギブソンのアフォーダンスは、「見えているものは頭の中で作られる」という考え方を取らない。段差を見て「上がれそうだ」と分かるとき、その「上がれそう」は、頭の中で高さを計算した結果ではない。段差の側が、その身体に差し出している。
ホールのほうは、人と人の距離を扱った本だと聞いている。こちらも、意味を頭の外に置いていることになる。
では、見えているものは、どこで、どうやって決まっているのか。
それを百年かけて調べた分野がある。ゲシュタルト心理学である。この記事は、そこを辿る。そして辿った先で、2つの名前が並んでいた理由に戻る。
見えているものは、刺激の写しではない
ゲシュタルト心理学は、19世紀末のウィーンから始まっている。マッハの『感覚の分析』(1886年)を読んだ人たちのところから出て、1912年にベルリンで一つの分野として成立した。ウェルトハイマー(Max Wertheimer)、コフカ(Kurt Koffka)、ケーラー(Wolfgang Köhler)の三人である。この三人が、のちに〈ベルリン学派〉と呼ばれる。
その経緯は、連載の第3回で辿った。現象学と同じ根から出ていて、途中で分かれた——という話である。ここでは、その分野が見つけたことのほうを扱う。
この分野が成立するために壊した前提が、〈恒常仮定(constancy hypothesis)〉である。
刺激が感覚器官に興奮を起こし、それが中枢に伝えられて感覚になる。その間に、一対一の対応がある。目に入った光の量が決まれば、見える明るさが決まる。網膜に映った像の大きさが決まれば、見える大きさが決まる。
素直な考え方である。見えているものは、外から来た刺激の写しだ、ということになる。
この前提に、早い時期からひびを入れていた人がいる。
エーワルト・ヘーリング(Ewald Hering、1834-1918)。ドイツの生理学者である。連載の第1回に一度だけ名前が出ている。フッサールが『アムステルダム講演』で、現象学の前身となる方法を意識していた人として、マッハと並べて挙げたのがこのヘーリングだった。
彼が指摘したのは、こういうことである。
通常の日の光のもとで白く見える紙は、薄暗い部屋のなかでも白く見える。
ある距離で見ていた対象を、倍の距離まで遠ざける。網膜に映る像は二分の一になる。それでも、もとの大きさのままに見える。
言われてみれば、当たり前に感じる。だが、当たり前ではない。目に届いている光の量は、実際に減っている。網膜の像は、実際に小さくなっている。入力のほうは、はっきり変わっている。
それでも、同じ白さ、同じ大きさに見える。これを知覚の恒常性(perceptual constancy)と呼ぶ。
名前が似ているので、ここで整理しておきたい。
| 語 | 意味 |
|---|---|
| 恒常仮定(constancy hypothesis) | 刺激と感覚は一対一で対応する、という前提 |
| 知覚の恒常性(perceptual constancy) | 刺激が変わっても、見えるものが変わらないという事実 |
後者があるなら、前者は成り立たない。光の量が半分になっても白さが変わらないのなら、刺激と感覚は一対一で対応していないことになるからである。

ヘーリングのこの発見について、哲学者の木田元が『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』で、こう書いている。
ヘーリングの発見は、感覚知覚がけっして単に受動的ないし受容的なものではなく、選択能力をもった能動的な課程であることを教えている
「知覚という見方」のページに、知覚は受け取ることではなく掴み取ることだと書いた。その裏づけが、ここにある。
そして、この前提を実験で決定的に壊したのが、そのベルリン学派だった。1910年、フランクフルトでの実験である。ウェルトハイマーが、コフカとケーラーを被験者にして行った。
一定の距離に置いた2つの光点を、適当な間隔で点滅させる。すると、一方から他方へ向かう運動が見える。動いているものは、どこにもない。光点が2つあって、それぞれ点いて消えただけである。これをφ運動と呼ぶ。
刺激の側にないものが、知覚の側にある。この成果が1912年の論文にまとまり、そこでゲシュタルト心理学が成立した(第3回で扱った)。
ここからが、この記事の本題になる。見えているものが刺激の写しでないなら、何が決めているのか。
図(figure)と地(ground)
ゲシュタルト心理学が出した答えの、いちばん大きいものがこれである。
図と地。見えている場面は、かならず「形を持つもの」と「その背景」に分かれている。前者が図、後者が地である。
マッハは、これを早い時期に書いていた。地の上に浮かぶ図柄を見ることが、知覚の重要な契機になっていると。反転図形や判じ絵のような例外的な図を使って、彼はそれを裏づけてみせた。
反転図形とは、見方によって2通りに見える絵のことである。白い部分を図にすれば壺に見え、黒い部分を図にすれば向かい合った2つの顔に見える——そういう絵を見たことがあると思う。

ここが肝心なところである。線は一本も変わっていない。紙に印刷されているインクの量も、形も、まったく同じである。変わったのは、どちらを図にして、どちらを地にしたか、それだけである。
そして、図になった側だけが形を持つ。地になった側は、形を失って後ろへ退く。壺が見えているとき、黒い部分は「顔の形」をしていない。ただの背景である。
見えているものを決めているのは、刺激ではない。図と地の分け方である。
これは、特殊な絵だけの話ではない。いま目に入っているすべての場面が、そうなっている。この文字が図で、画面の余白が地である。顔を上げれば、別のものが図になる。
まとまって見えるのは、なぜか
では、何が図になるのか。
ゲシュタルト心理学は、ここを法則として整理した。ばらばらの要素が、どういうときに一つのまとまりとして見えるかという法則である。代表的なものを挙げる。
- 近接(Proximity)──近いものは、まとまって見える
- 類同(Similarity)──似たものは、まとまって見える
- 閉合(Closure)──閉じかけた線は、閉じて見える
- よい連続(Good Continuation)──なめらかに続く線は、一本のものとして見える
- 共通運命(Common Fate)──一緒に動くものは、まとまって見える
どれも、言われてみれば当たり前に感じる。当たり前に感じるというのが、この法則の強さである。意識して適用しているのではなく、勝手にそう見えてしまう。
この法則は、いまもデザインや、文字の組み方、画面の設計の基礎になっている。ボタンを近づければ一組に見え、離せば別物に見える。それだけのことで、使う人の理解が変わる。
そして、この法則は身体を見るときにも働いている。
body reading は、図と地を選んでいる
ロルフィングでは、クライアントの立ち方や歩き方を見ることを body reading と呼ぶ。
クライアントが立っている。施術者が見ている。何が見えるかは、どこを図にするかで変わる。
「右肩が上がっている」と見えたとする。このとき、両肩を図にして、胴体を地にしている。左右の肩が一組のまとまりとして立ち上がり、そのまとまりの中で高さの差が見えている。類同と近接が働いている。
ところが、胸郭の全体を図にすると、様子が変わる。両肩は地に回る。そして胸郭がどちらへ向いているか、どこで捻れているかが、形として立ち上がってくる。肩の高さの差は、その捻れの一部として見えるようになる。
同じ身体を見ていて、違うものが見える。見ている対象が違うのではない。図と地の取り方が違うのである。
歩いてもらうと、もう一つの法則が効いてくる。共通運命である。
骨盤と胸郭が一緒に回っていれば、その2つは一つのまとまりとして見える。別々のタイミングで動いていれば、2つに分かれて見える。「この人は胸腰部が一塊になっている」という見方は、共通運命の知覚である。
どこで身体が分かれ、どこがひと続きになっているか。それは、関節の位置が決めているのではない。一緒に動くかどうかが決めている。
第2回で、ロルフィングでいちばん難しいのは触れることではなく見ることだ、と書いた。難しい理由の一つが、ここにある。見るべきものは、最初から形を持って置かれていない。図と地を選んだところに、はじめて現れる。
図を選ぶことは、地を見ないことでもある
ここに、裏がある。
図になった側だけが、形を持つ。地にしたものは、形を失う。反転図形で壺が見えているとき、顔は見えていない。同時には見えない。
施術でも、同じことが起きる。
予約のときに「肩こり」と聞いていれば、肩が図になる。そのとき、足元は地に回っている。見ていないのではない。目には入っている。だが、形を持っていない。
第1回で扱った肉離れの例と、同じ形である。名前が付くと、見えなくなる。名前は、何を図にするかを先に決めてしまう。
だから、見ることの訓練は、よく見ようとするだけでは足りない。いったん図と地を入れ替えられるかどうかのほうが、難しい。
基礎トレーニングで、他の施術者をひたすら観察する時間が取られているのは、このためだと思う。自分の図の取り方が固まる前に、数を浴びせる。Ida Rolf が Auditing と呼んだ段階である(「部分を足しても、身体にならない」で扱った)。
施術者が何を見ているのかについては、Jeff Maitland の側からも扱っている(「ロルフィングにおける原理・原則と観察力 — Jeff Maitlandのアプローチ」)。
中断と、再評価
ここまでが、ゲシュタルト心理学が見つけたことである。
ところが、そこから先が続かなかった。
1920年代にそれが理論的に整備されおえたころには、心理学界において行動主義のパラダイムが支配的になり、意識について語ることは禁じられてしまう。「心ぬきの心理学」の時代に入ったのである。
観察できる行動だけを扱う、という方針が勝った。見ることの研究が、見ることを語れなくなった。
再評価が始まるまで、40年かかる。
この領域でゲシュタルト理論の再評価がはじまるのは、1960年代以降の認知心理学の時代、それも反認知主義の代表者J・J・ギブソンの〈生態学的知覚論〉の登場あたりまで待たなければならなかった。
ここで、2014年の教室に出てきた名前が現れる。
ジェームズ・J・ギブソン(James J. Gibson、1904-1979)。アメリカの心理学者である。主著は『生態学的視覚論』(The Ecological Approach to Visual Perception、1979年)。
ギブソンが持ち込んだのは、〈不変項〉(invariant)という考え方である。動き回りながら見るとき、目に届く情報は変わり続けている。その変化の中で、変わらずに残るものを身体が拾い上げている。ヘーリングの恒常性を、動いている身体の側から言い直したものだと言える。
日本でアフォーダンス研究を紹介してきた佐々木正人さんが、不変項には2種類あると書いている。
一つは、動物の「種」(遠くに見えるのがハエかカか)や「性(オスかメスか)」や「特定の人がその人だとわかる」などという、対象の恒常的な性質についての不変項である。これは「構造不変項」とよばれる。第2は、いま生じている変化がどのような変化であるのかを特定する不変項、たとえば他者がほほえんでいるのか、なにかの危険を予期して恐れているのかを表情から知覚する際の不変項のようなことで、こちらは「変形不変項」とよばれる。
10回シリーズで起きているのが、この2つである。
毎回違う日に、違う体調で来ても「この人だ」と分かるのが構造不変項(structural invariant)。前回から何がどう変わったかが分かるのが変形不変項(transformational invariant)である。
そして、図と地の話に重なる一文がある。
変化に注意を向けると自分の動きの性質が、不変なことに注意を向けると環境の持続する性質が見える。それで「見る」ことは常にこの二つに意識を分散することである。
見ることは、はじめから二股に分かれた働きだった。図を見ることと、地を見ること。持続を見ることと、変化を見ること。片方だけに寄ると、もう片方を取りこぼす。
2つの名前が、並んでいた理由
ギブソンがやったことを、一言で言うとこうなる。
図と地を、環境の側へ押し広げた。
ゲシュタルト心理学は、図と地を見る側の働きとして調べた。ギブソンは、何が図になりうるかは、環境がその身体に差し出しているもので決まると考えた。そこで出てくるのがアフォーダンスである。
アフォーダンスとは「環境の事実であり、行動の事実でもある」
床は「支える」ことを差し出している。椅子は「座る」ことを差し出している。段差は、身体によって「上がれる」ことを差し出したり、差し出さなかったりする。同じ床でも、身体が変われば、差し出すものが変わる。
そして、定義そのものに〈不変〉が入っている。
ギブソンは、「直接知覚されるべく存在しているのは物質、媒質、面、レイアウト、出来事である」とした。さらに「アフォーダンスとはこれらリアルなことの不変な組み合わせである」とも述べた。
ここが、Tonic Function とつながる。ウベア・ゴダールの枠組みは、身体を、重力と空間との関係の中で見るものだった(「重力という見方──身体と重力の関係を捉える Tonic Function」)。床との関係が変われば、立ち方が変わる。アフォーダンスは、その関係を環境の側から言い直したものである。
では、ホールの『かくれた次元』(1966年)はどうか。
まだ読んでいないので、中身については書けない。エドワード・T・ホールは文化人類学者で、この本は人と人のあいだの距離を扱ったものだと聞いている。
それでも、なぜ並んでいたのかは、ここまでで見当がつく。
どちらも、図と地の分け方を、身体の外に置いている。ギブソンは環境の側に。ホールは、人と人のあいだに。そして Tonic Function は、身体と重力・空間の関係の中に。
身体がどこにあるかは、身体の内側だけでは決まらない。この主題は、別の記事でも扱っている(「空間はどこにあるのか──身体の中か、身体の外か」)。
美術史の授業をする講師が、Tonic Function の説明の中でこの2つの名前を出した。たぶん、そういうことだった。絵も、身体も、空間も、図と地を選んだところに現れる。
見えているものは、選ばれたものである
まとめておきたい。
見えているものは、刺激の写しではない。薄暗い部屋でも紙は白い。入力が変わっても、見えるものは変わらない。
決めているのは、図と地の分け方である。線が一本も変わらなくても、どちらを図にするかで、見えるものが変わる。
body reading は、その選択そのものである。肩を図にするか、胸郭を図にするか。一緒に動くものを、一つと見るか二つと見るか。
そして、図を選ぶことは、地を見ないことでもある。だから、見る訓練の難しいところは、よく見ることではなく、入れ替えられることのほうにある。
11年前に2つの名前を渡された。片方は、ここまで来た。もう片方は、これから読む。
参考文献
ヘーリングの恒常性、マッハの図と地、ゲシュタルト心理学の中断と再評価についての引用は、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』(新書館 2002年/講談社学術文庫 2014年)によります。
不変項とアフォーダンスについての引用は、佐々木正人『新版 アフォーダンス』(岩波科学ライブラリー234、岩波書店)53ページ、66ページ、71ページによります。
群化の法則(近接・類同・閉合・よい連続・共通運命)は、ゲシュタルト心理学の一般的な内容としてまとめたもので、上記2冊には出てきません。
この記事は、知覚という見方──ロルフィングは、身体の何を見ているのかの本編です。ここで触れた主題を扱った記事は、そちらに群ごとにまとめています。
