現象学は、施術の現場で何を変えるのか(第2回|全3回)

ベテランの施術者に「なぜ、そこに働きかけたのか」と聞くと、答えが返ってこないことがある。もったいぶっているのではない。説明できる形では、本当に持っていないのである。聞き返されて、「見えないか」としか言えない。
では、その人はそれをどうやって身につけたのか。そして、どうやって次の人に渡すのか。
第1回で書いたのは、判断を止めること、あるがままが現れるのを待つこと、傍観者としての立ち位置を手放すことだった。ロルフィングの5つの原則と、身体と空間についても書いた。
泳ぎ方を本で読んでも、泳げるようにはならない。理屈は分かる。腕はこう回し、息はこう継ぐ。だが、水に入れば沈む。知識が足りないのではない。身体のほうが、まだ何も知らないのである。
現象学を読むことにも、同じところがある。理解することと、経験の仕方が実際に変わることは、別である。第2回は、この距離の話である。第1回に書いたことへの批判であり、同時に、在り方はどう教えればよいのかという最初の問いへの答えでもある。
知覚は、頭の中で起きていない
ここまで見てきたのは、Maitland を通した現象学である。この節だけ、彼は出てこない。認知科学は、彼の系譜ではないからである。
1991年、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)、エヴァン・トンプソン(Evan Thompson)、Eleanor Rosch の3人が『The Embodied Mind』を出した。ヴァレラは生物学者で認知科学者、トンプソンは哲学者である。
当時の認知科学の主流は、心を記号の操作として捉えていた。それを乗り越えるために、彼らは現象学に手を伸ばした。生きられた経験を一人称で扱う方法を、現象学が既に一世紀かけて磨いていたからである。
だが、この本は現象学を受け継ぐ本ではない。現象学が、なぜそこで止まったのかを書いている。
実践の次元が、なかった
フッサールは「事象そのものへ」と言った。理論の前提を括弧に入れて、経験そのものを記述せよ、と。3人は、そこに欠けていたものを指摘する。
Husserl’s turn toward experience and “the things themselves” was entirely theoretical, or, to make the point the other way around, it completely lacked any pragmatic dimension.
フッサールの、経験と「事象そのもの」へ向かう転回は、まったく理論的なものだった。言い換えれば、実践的な次元をまるで欠いていた。
記述せよ、とは言ったが、そのための訓練された手続きがなかった。だから、括弧に入れたはずの自然的態度が、反省のうちにまた戻ってくる。
It is hardly surprising, therefore, that it could not overcome the rift between science and experience, for science, unlike phenomenological reflection, has a life beyond theory.
したがって、それが科学と経験の裂け目を乗り越えられなかったのは、驚くにあたらない。科学は、現象学的な反省とは違って、理論の外に生きている場所を持っているからである。
科学には、実験室がある。手を動かして確かめる場所が、理論の外にある。現象学には、それがなかった。
そして3人は、この批判をフッサールで止めない。
Indeed, this criticism would hold even for Heidegger’s existential phenomenology, as well as for Merleau-Ponty’s phenomenology of lived experience. Both stressed the pragmatic, embodied context of human experience, but in a purely theoretical way.
この批判は、ハイデガーの実存的な現象学にも、メルロ=ポンティの生きられた経験の現象学にも、同じように当てはまる。二人とも、人間の経験が実践的で身体化された文脈にあることを強調したが、それはあくまで純粋に理論としてであった。
ここまで書いてきたことが、そのまま批判の対象になる。
あるがままが現れるのを待つ、と言う。触れることと触れられることは違う、と言う。そのとおりなのだが、言っているだけでは変わらない。メルロ=ポンティについて、3人はこう書いている。科学も現象学も、私たちの具体的で身体化された存在を、つねに事後的に説明していた、と。
では、何が要るのか。
What we are suggesting is a change in the nature of reflection from an abstract, disembodied activity to an embodied (mindful), open-ended reflection. By embodied, we mean reflection in which body and mind have been brought together.
私たちが提案しているのは、反省というものの性格を、抽象的で身体を欠いた活動から、身体化された(マインドフルな)、開かれた反省へと変えることである。身体化された、というのは、身体と心が一つに持ち来たらされた反省という意味である。
そして、次の一文が続く。
…reflection is not just on experience, but reflection is a form of experience itself.
反省とは、経験についての反省であるだけでなく、反省それ自体が経験の一つの形である。
これを繰り返し行う規律を、瞑想の伝統が2500年かけて磨いてきた。現象学に欠けていた実践を、そこから持ってくる。それが3人の提案である。
ここは、第1回の「見分ける性質としての、原則」の節と呼応している。Maitland は禅の側からロルフィングへ来た。ヴァレラたちは認知科学の側から瞑想へ行った。向きは逆で、出会う場所は同じである。
知覚とは、行為である
この本が出した概念が エナクション(enaction) である。
Our intention is to bypass entirely this logical geography of inner versus outer by studying cognition not as recovery or projection but as embodied action.
私たちの意図は、内と外というこの論理的な地勢を丸ごと迂回することにある。認知を、回復としてでも投影としてでもなく、身体化された行為として研究することによって。
そして、定義が続く。
…the enactive approach consists of two points: (1) perception consists in perceptually guided action and (2) cognitive structures emerge from the recurrent sensorimotor patterns that enable action to be perceptually guided.
エナクティヴなアプローチは二点からなる。(1)知覚とは、知覚によって導かれる行為である。(2)認知の構造は、行為が知覚によって導かれることを可能にする、反復する感覚運動のパターンから立ち現れる。
知覚は、受け取ることではない。行為である。
これは、ロルフィングの側でも同じことが言われている。Aline Newton が1995年に書いた解説には、知覚は志向性の一形態であり、ある方向への動きである、とある。1991年と1995年に、別々の場所で同じことが書かれていた。
知覚については、別に一つのページを立てた(「知覚という見方──ロルフィングは、身体の何を見ているのか」)。
脳の中だけの出来事ではない
アルヴァ・ノエ(Alva Noë) は、もう一歩進めた。知覚は脳の中で起きているのではない。身体が世界とやり取りすること、それ自体が知覚である。消化が胃の中だけの出来事ではないように、見ることも脳の中だけの出来事ではない。
これは、施術の現場に直接届く。クライアントの知覚を変えようとして、頭に働きかける必要はない。身体と世界のやり取りのほうを変えれば、知覚が変わる。足の裏の接地が変われば、見え方が変わる。
トンプソンは、ヴァレラの共著者として1991年から現在まで一本の線を引いている。『The Blind Spot』(Adam Frank、Marcelo Gleiser との共著)では、こう問うている。科学は、人間の経験を抜きにできるのか。
できない、というのが答えである。どんな測定も、どんな理論も、誰かが経験しているところから始まっている。それを忘れたところに、科学の盲点がある。
ここで、第1回の最初の節で見たマッハが戻ってくる。絶対空間という誰も見たことのない前提を外し、感覚に現れるものから始め直した人である。百年後、認知科学が同じ場所に戻ってきた。
動きの研究から
もう一人、別の入口から来た人がいる。エドワード・リード(Edward Reed) は、現象学の視点を運動研究へ持ち込んだ。リードは、文脈から切り離した動きの研究は、リハビリテーションに応用できないと書いている。
そして、すべての行為系(action system)の根に、横たわる・座る・立つがある。さらにその根に、重力の場との関係を打ち立てる必要がある、と。
ロルフィングが扱っているのは、まさにその層である。
認識のOS という見方
アプリケーションではなく、その下
私は、人が世界をどう受け取っているかを認識のOS という言い方で扱っている。論理のOS、感覚のOS、対話のOS、視点のOS の4つの層からなる枠組みである。
OSという言い方をするのは、その上で動いているものではなく、その下で動いているもののほうを指したいからである。何を考えるかではなく、何が考えられる範囲に入っているか。何を見るかではなく、何が見える範囲に入っているか。
身体図式は、意識されるかどうかに関わらず作動している。皮膚・関節・筋肉・内臓からの情報が絶えず更新され、その大部分は自動的に処理される。本人には、それが選択だと思えない。当たり前の現実として処理されている。
この百年が扱ってきたのは、下の二層
ここまで見てきた人たちが扱ってきたのは、感覚のOS と視点のOS である。
エポケーは、視点のOS を一度止めてみせる手続きだった。身体図式は、感覚のOS そのものである。エナクションは、この二つが別々ではなく、一つの働きだと言っている。知覚が行為なら、感覚と視点は分けられない。
そして、身体に働きかけることが、なぜ世界の見え方を変えるのかも、ここで説明がつく。下の層が変われば、その上で動いているものも変わる。いつも同じ結論に至る思考のパターンや、特定の状況で判断が狭くなる癖は、論理のOS の問題として扱われやすい。だが、その下が動いていないことのほうが多い。
両側から、同じ場所へ
この枠組みの哲学史の側は、別のサイトで4回に分けて書いた(「主観・客観の破綻から身体図式へ──現象学とロルフィングの接点」)。
向きが逆になっている。あちらはヒュームからカント、マッハ、フッサール、メルロ=ポンティと哲学史を辿り、身体図式へ降りてくる。この記事は、施術の現場から始めて、概念へ上がってきた。
読んで分かることと、変わることは別である。哲学を読めば、自分のOSがどういう構造をしているかを知ることはできる。だが、知ることと書き換えることのあいだには、まだ距離がある。
その距離のことを、ヴァレラたちは実践の次元と呼んでいた。
手が届くのは、身体だけだった
手で触れられるもの
ここまで、何人もの名前を並べてきた。最後に、ロルフィングを作った人のことを書いておきたい。
Ida Rolf(1896-1979)は、メルロ=ポンティとほぼ同時代を生きている。生化学者として出発し、身体構造に向かった人である。
彼女は、こう言っている。
Only thing that I can get hands on is physical.
私が手で触れ、コンタクトできるのは、身体的な部分だけである。
身体以外を扱わなかったのではない。1974年の協会の年次総会では、構造を整えたときに、その人の内と周囲のエネルギー場に何が起き、それと並行して行動がどう変わるのかを見たい、と語っている。構造の変化、場の変化、行動の変化を、一つの連続した現象として捉えていた。
手が届くのが身体だったから、身体から入った。それだけのことだったように読める。
重力を、支えとして
そして、重力について。Maitland が引いている Ida Rolf の言葉に、こういうものがある。
Yoga as it is taught today does not go far enough. The body organized through yoga achieves joint mobility but does not consciously recognize and seek out the gravity field as its basic supportive factor.
今日教えられているヨガは、十分に遠くまで行っていない。ヨガによって組織された身体は関節の可動性を得るが、重力の場を、自らの基本的な支持要因として意識的に認識し、求めることをしない。
重力を、負担としてではなく支えとして使えるかどうか。ここに、Ida Rolf の仕事の全体がかかっている。
そして、これは palintonos と同じことを指している。地に支えられながら、上へ伸びる。両方が同時に成り立っている状態である。
見ることは、教えられるのか
水に放り込む
ロルフィングで最も難しいのは、触れることではなく見ることである。冒頭に置いた場面に戻りたい。経験を積んだ施術者が、なぜそこに働きかけたのかを説明できない。聞かれて「見えないか」としか答えられない。
これは、ロルフィングだけの問題ではない。ヒューバート・ドレイファスとスチュアート・ドレイファスは、技能の習得を5つの段階に整理し、最後の段階では、人は規則に従うことをやめていると書いた。達人は、状況を全体として見て動く。だから、なぜそうしたのかを規則の形で言えない。「見えないか」としか答えられない施術者は、この段階にいる。
そして、彼らが突き当たったのも同じ問いだった。規則で説明できないものを、どうやって教えるのか。
▶ 人工知能から問い直す、身体性と上達──全3回の連載。第1回が技能の5つの段階、第2回が11年の課程をその5段階で読み直したものである
Ida Rolf の教え方は、水に放り込むことだったと伝えられている。泳ぐか、沈むか。その後、協会は体系を整えることでこの空白を埋めようとした。Peter Schwind のように、見えなくても触れる精度を上げれば届く、という答えを出した人もいる。
Maitland は、四つ目の答えを出していた。見る練習を、組み立てたのである。
The result is a simple three-step exercise based upon insights I gained from years of practicing Zen, Rolfing Structural Integration (Rolfing SI), philosophy, and phenomenology. But, by far and away, the most potent insight came from Goethe and the way of seeing he called “exact sensorial imagination.”
その結果が、禅・ロルフィング・哲学・現象学を長年実践して得た洞察にもとづく、簡素な三段階の練習である。だが、もっとも強力な洞察は、ゲーテと、彼が「精密な感覚的想像力」と呼んだ見方から来た。
そして、そのワークショップを一緒に教えたのが Ray McCall だった。2025年のアドバンスト・トレーニングで、私が教わった講師の一人である。
三段階の、一つ目
その練習は、こういうものである。
ゲーテが示したのは二段階だった。一つは能動的に見る(active seeing)こと。言語的・分析的な心をいったん止めて、感覚に注意を向ける。もう一つが精密な感覚的想像力(exact sensorial imagination)で、目を閉じ、いま受け取ったものを想像のなかと身体のなかに再現する。
そして、この二つを往復する。見て、閉じて、思い浮かべ、また見て、抜けていたものを足し、歪めていたものを直す。相手の全体性が立ち現れてくるまで、繰り返す。
Maitland は、ここに一つ足した。そして、それを最初の段階に据えた。
…before you do anything else, your very first act must be to shift your orientation or intentionality from an onlooker experiencing the world through abstractions of the analytic/verbal mind to becoming a participant in the lived perception of the world.
ほかの何よりも先に、あなたの最初の行為は、分析的・言語的な心の抽象を通じて世界を経験する傍観者から、世界の生きられた知覚における参加者になることへ、自らの向きを、あるいは志向性を切り替えることでなければならない。
この段階だけが、全過程を通じて保ち続けられなければならない。あとの二つは往復するが、これは降ろせない。
そして Maitland は、この切り替えそのものが、既に一つの介入であると書いている。それだけで変化を起こしうる、と。Ida Rolf が「クライアントと一つになる」と言ったのは、この切り替えのことだった、とも。
第1回の冒頭に置いた問いに、ここで答えが出る。
第1回で、在り方は、どう教えればよいのかが分からない、と書いた。Maitland は、それを手順の一段階目にした。精神論にせず、かといって技法にもせず、練習の中に組み込んでいる。
概念がなければ、何も見えない
Maitland は、見ることについて一つの実験を書いている。意味のない染みの集まりに見える図がある。そこにキリンを探すと、キリンが現れる。
No lines were added to the drawing, nothing about it changed. What changed was that you acquired the appropriate concept of giraffe. … But notice it was not there in advance of your seeing it.
図に線は一本も足されていない。何も変わっていない。変わったのは、あなたがキリンという適切な概念を手にしたことである。そして、それはあなたが見る前からそこにあったのではない。
ここで、はじめの問いに戻る。
名前が付くと、目の前の身体が見えなくなる。だが、名前がなければ何も見えない。肉離れという名前が視野を狭めるのと同じ働きで、キリンという概念が図の中にキリンを出現させる。
判断を止めることは、概念を捨てることではない。概念を持ちながら、それに乗っ取られないでいることである。持ったうえで、使わない。最初から何も持たないこととは違う。
手のほうは、どうか
ここまで、見ることについて書いてきた。だが、これは手を使う仕事である。
触れることと触れられることの違いを思い出したい。触れることは意志の行為で、触れられることは許しの行為だった。そして、許すことは能動でも受動でもない。
見ることにも、同じ構造がある。探しに行くだけでは見えない。あるがままが現れるのを許す側にも、同時に立っていなければならない。キリンを探すという能動と、図のほうから何かが現れてくるのを待つことが、一度に起きている。
そして、これが palintonos だと思う。張り返す調和。能動と受動という二つの極を、どちらかに倒すのではなく、そのあいだの適切な張りとして保つ。地に支えられながら上へ伸びる身体と、同じ形をしている。
知覚が行為である、というエナクションの主張も、同じことを言っている。受け取るのでも、こちらから投げるのでもない。やり取りそのものが知覚である。
現象が先にあり、名前が後から来る
2015年に書いたものに、不思議なのは、という書き方をした箇所がいくつもある。説明はできないが、確かに起きていること。10年後のアドバンスト・トレーニングで、そのいくつかに名前が付いた。ニュートラルという名前と、それを育てるための手順である。
現象が先にあり、名前が後から来る。
Maitland も、同じことを書いている。2007年の論文の締めで、禅の師に「どうやって人を癒すのですか」と尋ねた話を振り返り、相手と一つになりなさい、というその答えの単純さを思い出すと述べる。そして、こう続けている。
そこへ辿り着くのに、どれだけの言葉が必要だったかに驚く。
この記事も、そのための言葉である。読んで変わるものではない。だが、名前がなければ、何が起きているのかも見えない。
▶ 第3回:部分を足しても、身体にならない──現象学とゲシュタルト心理学が分かれた場所
この記事は、在り方は、どこから来るのか──ボディワーカーのための現象学の本編です。ここで触れた主題を扱った記事は、そちらに群ごとにまとめています。
