部分を足しても、身体にならない──現象学とゲシュタルト心理学が分かれた場所

現象学は、施術の現場で何を変えるのか(第3回|全3回)

11年前に書いた、宿題

2015年2月、ミュンヘンでの基礎トレーニングの記録に、こう書いて終えている記事がある。

知覚的な見方というのは、ハイデガー、メルロ=ポンティやフッサールが唱えた現象学に近い。タイミングがあえば、本コラムで現象学との関係について取り上げたいと思っている。

(「Phase III(6)〜Seeingと知覚すること(1)〜概念を持つと、見えるようになる」)

この連載が、その答えである。11年かかった。

第1回と第2回で、ハイデガーもメルロ=ポンティもフッサールも出てきた。だが、まだ答えていない問いが一つ残っている。

5原則の、一つ目

第1回で、ロルフィングの5つの原則を挙げた。全体性、支持、適応性、二方向性、完了。その一つ目が、全体性(Wholism)である。

身体を部分の和として見るのではなく、全体を全体のまま見る。では、なぜそう言えるのか。第1回では、原則が何をするものかは書いたが、ここには触れていない。

解剖学は、身体を部分で見る。筋があり、骨があり、関節がある。それは強力な見方で、実際に役に立つ。施術者はその知識を使う。にもかかわらず、全体を見ろと言われる。

この対立は、ロルフィングが作ったものではない。

先に、経営学の本から受け取っていた

5原則を習う前日、同じトレーニングの記録に、別のことを書いている。ピーター・ドラッカー(Peter Drucker)の『新しい現実』(1989年)の終章についてである。章の題は「分析から知覚へ〜新しい世界観」。

この本は、大学受験の頃に父から渡されたものだった。1990年前後である。社会主義諸国がなぜ崩壊していったのかを知りたくて尋ねたら、返ってきた。問いに対して、答えではなく見方が返ってきたことになる。

その終章に、こうある。

物理的な現象では、全体は部分から成り、かつ部分の合計に等しい。したがって、分析によって理解することが可能である。しかし、生物的な現象には、部分はなく、すべて「全体」である。部分を合計したところで全体にはならない。

(「Phase III(8)〜Seeingと知覚すること(2)〜部分の和は、全体にならない」)

5原則の一つ目を、理論として教わる前に、経営学の本から同じ命題を受け取っていた。しかも25年前に。当時の記事は、それを引用として並べただけで、まもなく習う原則と同じだとは気づいていない。

ドラッカーは、出所を名指ししていた

そして、同じ終章に、この命題がどこから来たのかが書いてある。

実は、分析的な概念から知覚的な認識への発展は、コンピュータ登場の前から始まっている。1世紀ほど前の1890年代、形態(ゲシュタルト)心理学が、われわれが理解できるのは「C」「A」「T」ではなく、「CAT」であることを明らかにしている。現実に存在するものは、すべて知覚的な認識であることを明らかにしている。

1890年代。ゲシュタルト心理学。

そして同じ章で、ドラッカーは知覚についてもう一つ書いている。分析の側は、直観は教えることも訓練することもできないと主張してきた。だが生物の世界では知覚が中心にあり、それは訓練できる——いや、訓練しなければならない、と。

第2回の問いが、ここにある。見ることは、教えられるのか。ドラッカーは1989年の時点で、できると書いていた。

この回は、そこへ行く。ドラッカーが名指しした場所に、何があったのか。そして、なぜそれが現象学と同じ根から出ているのか。

ゲシュタルトとは何か

先に、言葉を一つ説明しておきたい。

ゲシュタルト(Gestalt)は、ドイツ語で「形」や「まとまり」を指す、ごく普通の言葉である。もともと術語ではない。

それが術語になったのは、ある性質に名前が必要になったからだった。部分をいくら調べても出てこない、まとまりとしての形。

ドラッカーの例が、そのまま使える。C と A と T を一つずつ見ても、猫は出てこない。三つ並べて、はじめて CAT になる。CAT は、C にも A にも T にもない。

音でも、同じことが起きる。ある曲を、高い声で歌っても低い声で歌っても、同じ曲だと分かる。鳴っている音は、一つも同じではない。部分を全部取り替えても、同じものが残る。逆に、まったく同じ音を使っても、並べ方を変えれば別の曲になる。

部分に還元できない、まとまり。これがゲシュタルトである。

そして、ここが施術の現場につながる。身体も同じではないか、というのが全体性という原則である。筋を一つずつ調べても、その人の立ち方は出てこない。

なお、ゲシュタルト療法とは別のものである。フリッツ・パールズが始めた心理療法で、名前が同じだけで、出てきた系譜が違う。ここで扱うのは、ゲシュタルト心理学のほうである。

なお、同じ終章については、別の連載でも扱っている。ドラッカーがカントの『純粋理性批判』を引きながら、分析ではなく知覚を問う哲学を「純粋知覚批判」と呼んだ箇所である(「分析ではなく、知覚を問う──哲学者が、人工知能の評価を引き受けた理由」)。同じ一つの章が、二つの連載の分かれ目になっている。

百年前に、起きていたこと

先に、この回でたどる道を示しておきたい。

1880年代のウィーンで、ひとつの動きが起きている。学問の土台から、感覚に現れないものを外す、という動きである。第1回で見たブレンターノも、絶対空間を外したマッハも、その中にいる。

その動きが、一冊の本になった。マッハ『感覚の分析』、1886年。

この本を読んだ人のところから、二つの線が出ていく。片方が、ゲシュタルト心理学になる。もう片方が、現象学になる。ドラッカーが名指しした1890年代は、その分かれ目の年である。

以下に出てくる名前は、人物の紹介ではない。この一つの転換を、だれがどこまで進めたかという順で並んでいる。まとまりに気づいた人。名前を与えた人。実験で決着をつけた人。そして最後に、分かれた二つをもう一度つないだ人である。

その先で、話はロルフィングの全体性に戻る。

大枠は、ここまでである。詳しく知りたい方は、このまま読み進めてほしい。

経緯はいいから結論を、という方は、「どこを見ているのか」まで飛んでほしい。現象学とゲシュタルト心理学が、セッションの場でどう違うのかを書いた節である。そこから最後まで読めば、話はつながる。

「マッハ哲学なるものは存在しない」

第1回で、エルンスト・マッハ(Ernst Mach)に二度会っている。一度目は、絶対空間と絶対時間を観測されないものとして外した人として。二度目は、フッサールが現象学の前身として名指しした人として。

では、マッハ自身は、自分が何をしていると思っていたのか。

意外なことに、哲学ではない、と言い張っている。新カント派のリヒャルト・ヘーニヒスヴァルトが『マッハ哲学批判のために』を書いたとき、マッハはそれに向けて繰り返し述べた。マッハ哲学なるものは存在しない、と。『感覚の分析』にも、『認識と誤謬』の序文にも、『時間と空間』にも、同じことが書かれている。

なによりもまず、マッハ哲学なるものは存在せず、あるのはせいぜい自然科学方法論と認識心理学である

では、彼が避けたかった「哲学」とは何だったのか。『感覚の分析』第二版(1900年)の序文に、手がかりがある。

私の認識批判的・物理学的研究と本書における感官生理学的な研究との根底には、同一の見解が介在している。それは、形而上学的なものはいっさい余計であり、科学の経済を混乱させるものとして、ことごとく消去されるべきだという見解である

第三版(1901年)で追加された章でも、同じことを言っている。自分の狙いは、いっさいの形而上学的問題を排除することだ、と。そして、こう続く。

さらには、世界についてわれわれが知りうることはすべて、必ず感官感覚のうちに現われるものだということ、しかもこの感官感覚は、はっきり指示しうる仕方で、観察者の個人的影響から解放されうるものだということ

マッハが「哲学」と呼んで避けていたのは、形而上学のことだった。感覚に現れてこないものについて論じること。絶対空間は、その一例にすぎない。

ここで、第1回のブレンターノと並ぶ。ブレンターノは、物理学の方法が心理学に入ってくるのを止めた。マッハは、物理学から形而上学を追い出した。どちらも、学問の内側にある見えない前提を外そうとしている。

名前に反して、全体論だった

マッハが『感覚の分析』(1886年)で展開した立場は、感性的要素一元論と呼ばれる。

名前からすると、身体を部分に分解するのと同じ発想に聞こえる。世界を要素に還元し、要素から組み立て直す。第1回で見たヴントの要素心理学と、同じ列に並びそうに見える。

そうではなかった。

我々は普通、両眼でものを見る。しかも生活に役立つ一定の目的のために、色や形ではなく、空間中の物体を見るのである。複合体の各要素ではなく、生理・光学的複合体の全体が重要なのである

私たちは、光と影を知覚しているのではない。空間の中の物を知覚している。マッハはこれを習慣として説明する。かなり大きな、空間的に連関しあっている光覚の塊に注意を向ける習慣である。そして、地の上に浮かぶ図柄を見ることが、知覚の重要な契機になっている。反転図形や判じ絵のような例外的な図を使って、彼はそれを裏づけてみせた。

さらに、音の例がある。

この音列が相異なる二音ではじまり同じ振動数比を保って進むとき、われわれは、これら両者によって同一のメロディーを──幾何学的に相似でかつ相似の位置にある図形において相等な形態を認めるのと同様──感覚によって直接に認める。テーマを異にする等しいメロディーは、等しい音形の音響形態、ないし相似の音響形態と呼ぶことができる

移調しても、同じメロディだと分かる。鳴っている音は一つも同じではない。それでも、同じものとして聞こえる。ならば、そのメロディは、個々の音のどこにもない。

この一連の経緯を、哲学者の木田元が『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』という一冊にまとめている。以下、この回で引くのは主にこの本である。木田元は、マッハの立場をこうまとめている。

マッハの〈感性的要素一元論〉が、当時支配的だったヴィルヘルム・ヴントの〈要素心理学〉や〈要素還元主義〉に類するものではなく、むしろ要素の寄せ集めには還元されえない全体的まとまりに目を向ける一種の〈全体論〉を志向していたことは明らかであろう

名前に反して、全体論の側にいる。要素という語を使いながら、要素の寄せ集めには還元されないものを見ていた。

「まとまり」に、名前が付いた

二十数ページの論文

マッハは、この現象に気づいていた。だが、名前を与えなかった。

名前を与えたのが、クリスチアン・フォン・エーレンフェルス(Christian von Ehrenfels、1859-1932)である。1890年の論文「〈ゲシュタルト質〉について」。わずか二十数ページしかない。

木田元は、こう書いている。

「感覚の分析」におけるマッハのこの着想に示唆されて書かれたエーレンフェルスの『〈ゲシュタルト質〉について』がいわゆる〈ゲシュタルト心理学〉の出発点となったのは決して偶然ではない

なぜ、メロディだったのか。エーレンフェルスは、音楽の人だったからである。ワーグナーに熱狂し、ブルックナーに対位法と和声学を学び、自分でも作曲した。移調しても同じ曲に聞こえるという事実は、彼にとって日常だった。

オーストリアの男爵家の長男に生まれ、文筆に専念するために貴族の称号も家督相続権も弟に譲っている。劇作もし、大きな著作をいくつも書いた。そのほとんどは忘れ去られ、この二十数ページだけが残った。

「感覚する」が、はっきりしない

ただしエーレンフェルスは、マッハをそのまま受け継いだのではない。功績は認めたうえで、規定が不明確だと指摘している。

問題にしたのは、マッハが「空間的ゲシュタルトや音響的ゲシュタルト、つまりメロディをさえ、直接感覚することができる」と言うときの、その「感覚する」である。

マッハ自身、感覚されるのは今まさに現前しているものだけだと認めている。ならば、時間のなかで展開していくメロディは、感覚の対象になりえない。それでも「感覚」という語を使ったのは、ゲシュタルトが主観の知的な加工によって生じるものではないことを強調したかったからだろう──エーレンフェルスはそう推定し、その曖昧さを批判した。

そこで彼が導入したのが、ゲシュタルト質という概念である。

ゲシュタルトの知覚には、物理的な刺激に対応する要素的な感覚のほかに、その総和以上のもの、それとは区別されうる何か新しいものが伴っている。それがゲシュタルト質である。

ゲシュタルト質ということで我々が考えているのは、互いに分離可能な(つまりたがいに独立に表象されうる)諸々の表象複合体の現存に意識のうちに結びつけられる積極的な表象内容である。ゲシュタルト質の現存に必要なそれら諸々の表象複合体の方を我々はゲシュタルト質の基礎と呼ぼうと思う

論証は単純である。まったく異なる音の組み合わせから、同じメロディが生じる。まったく同じ音でも、並べ方が変われば別のメロディになる。ならば、メロディは要素とは独立した層にある。

もう一人、同じ本を読んでいた

ここで、もう一人が出てくる。

エーレンフェルスの論文の翌年、1891年。同じブレンターノ門下のエドムント・フッサールが、『算術の哲学』を出した。

なぜ、算術の本なのか。フッサールは、もともと数学者だったからである。ウィーン大学に変分法の論文を出して数学で学位を取り、ベルリンでは当時の解析学の中心にいたカール・ワイエルシュトラスの助手を務めた。哲学に移ったのは、そのあとである。

そして、彼がいた場所が問題だった。当時の数学は、直観を追い出す作業の最中にあった。図を描いて「こう見えるから、こうだ」と済ませるのをやめ、すべてを数と論理だけで組み直す。ワイエルシュトラスは、その先頭に立っていた人である。

追い出す側にいた人が、追い出しきれないものに突き当たった。数そのものは、どこから来るのか。それを問うたのが『算術の哲学』である。

そして出てきた答えが、数える前に、すでにまとまりが与えられている、というものだった。追い出したはずの直観が、いちばん底で戻ってくる。

エーレンフェルスが音楽から入ったところへ、フッサールは数から入っている。同じものに、別の扉から入ったことになる。

その『算術の哲学』のなかで、フッサールは図形的契機という概念を提唱している。エーレンフェルスのゲシュタルト質に、きわめてよく似た概念である。

挙げている例が、分かりやすい。一列の兵士。一山のリンゴ。一筋の並木。一群の鳥。

われわれは人でいっぱいのホールに足を踏み入れる。一目ただ見ただけでわれわれは、なんて大勢の人だと判断する。われわれは星空を見あげ、一目ただ見ただけで、なんてたくさんの星だと判断する

数えていない。それでも、まとまりとして捉えている。数の成り立ちを調べていて、数える前のまとまりに突き当たった。

そして、この本が、フッサールが現象学へ向かう第一歩になる。

もう一つ、言葉の出所がある。フッサールが生涯かかげた「厳密な学としての哲学」の「厳密」は、この数学の現場から来ている。ワイエルシュトラスが解析学にしたことを、哲学でやる。そう語っていたと伝えられている。

そして第1回で引いた『アムステルダム講演』の冒頭は、「世紀転換期に厳密な学的方法をめぐっての」で始まっていた。同じ言葉である。

分かれた場所は、一冊の本だった

では、エーレンフェルスとフッサールは、どちらが先だったのか。フッサール自身が、『算術の哲学』の注で書いている。

エーレンフェルスは、彼自身その論文の冒頭で述べているとおり、エルンスト・マッハの『感覚の分析』によってその研究へ促されたのである。私もまた才気あふれるこの物理学者のこの著書をその刊行の直後に読んでいたので、その読書の記憶に影響されて私の思考の歩みに導かれたということはありそうである

二人とも、マッハの同じ一冊を読んでいた。エーレンフェルスは論文の冒頭でそう述べ、フッサールは刊行直後に読んでいたと書いている。

1886年に『感覚の分析』が出る。1890年にエーレンフェルスの「〈ゲシュタルト質〉について」が出て、ゲシュタルト理論の第一歩になる。1891年にフッサールの『算術の哲学』が出て、現象学の第一歩になる。

現象学とゲシュタルト心理学が分かれた場所は、人ではなかった。一冊の本である。

ブレンターノの門下から、そこへ三つの線が伸びていく。先に言ってしまうと、ゲシュタルト心理学を作ったのは、エーレンフェルスを受け継いだ線ではない。

フッサール。現象学へ。

マイノング。フッサールの兄弟子にあたる。グラーツ大学にオーストリアで最初の実験心理学研究室を作り、エーレンフェルスのゲシュタルト質を受け継いで展開した。グラーツ学派である。エーレンフェルス自身、最初はこのマイノングのもとで学んでいる。

カール・シュトゥンプフ(Carl Stumpf)。ベルリン大学の哲学科の主任教授になった人で、ヴントの要素主義的な心理学への反撥を、ブレンターノから承け継いでいる。その反撥を受け取った三人が、のちにベルリン学派と呼ばれる。ゲシュタルト心理学を成立させるのは、この三人である。

現象学とゲシュタルト心理学は、別々に生まれた別々の分野ではない。同じ師のもとで、同じ一冊を読んだところから分かれた線である。

ただし、フッサールがマッハをそのまま受け継いだわけではない。現象学的方法という用語は継承しながら、その前提にあった進化論的な認識論は拒否している。1900年の『論理学研究』では、マッハの思考経済の原理を、論理学や認識論の生物学的な基礎づけだとして厳しく批判した。受け取ったものと、退けたものがある。

そこから、何が変わったのか

エーレンフェルスは、まとまりに名前を与えた。だが、そこまでは概念である。

しかも、グラーツ学派には限界があった。要素のほうを、まだ土台に置いていたのである。物理的な刺激が個々の感覚を引き起こし、その感覚が基礎にあって、その上にゲシュタルトが乗る。外界の刺激と感覚は一対一で対応している──この前提を、彼らは外せなかった。〈恒常仮定〉と呼ばれる。

これを攻撃の的にしたのが、ベルリン学派である。マックス・ウェルトハイマー(Max Wertheimer、1880-1943)、クルト・コフカ(Kurt Koffka、1886-1941)、ヴォルフガング・ケーラー(Wolfgang Köhler、1887-1967)の三人。この前提を打ち破ったところに、ゲシュタルト心理学が成立する。

打ち破ったのは、議論ではなく、一つの実験だった。

運動体のない、運動

1910年、フランクフルト。ウェルトハイマーは、コフカとケーラーを被験者にして、ストロボスコープを使った実験を行う。

一定の距離に置いた二つの光点を、適当な時間の間隔で点滅させる。すると、一方から他方へ向かう運動が見える。動いているものは、どこにもない。光点が二つあって、それぞれ点いて消えただけである。

間隔を変えると、見え方が変わる。同時に光れば、二つが同時に見える。長くすれば、交替に光るのが見える。そして最適な間隔のとき、運動が知覚される。ウェルトハイマーはこれにφ運動という名を与えた。

この成果が、1912年の論文「運動視の実験的研究」にまとまる。これをもって、ゲシュタルト心理学が誕生した。

なぜ、これが決定的だったのか。

それまでの考え方では、運動の知覚は二次的なものだった。まず、対象がどこにあるかを知覚する。その位置の知覚が積み重なって、二次的に運動の知覚が成立する。部分が先にあって、全体が後から組み上がる、という順序である。

φ運動は、その反証になった。運動が知覚されているのに、動いている対象は知覚されていない。いわば、運動体のない運動である。部分が先にあるという順序が、ここで崩れる。

運動は、刺激の側にない。知覚の側にある。

これが、映画が成立している理由でもある。並んだ静止画が、動いて見える。

ここから、知覚がどうまとまりを作るのかの法則が整理されていった。図と地。近いものはまとまって見える。似たものはまとまって見える。閉じかけた線は、閉じて見える。マッハが「地の上の図柄」として書いたことが、法則として並べ直された。いまも、デザインや文字の組み方、画面の設計の基礎になっている。

恒常仮定は、どこから来たのか

ここで、一つ戻っておきたい。そもそも恒常仮定は、どこから来たものだったのか。

心理学が哲学から独立して科学になるのは、十九世紀の後半である。そのとき、物理学から二つの想定を借りた。客観的世界がそれ自体として実在するという想定と、複雑なものを単純な要素に分解して組み直せば説明したことになる、という想定である。

心のほうも、要素に分解しなければならなくなった。そこで使われたのが〈感覚〉という概念だった。刺戟が感覚器官に興奮を起こし、それが中枢に伝えられて感覚になる。その間に一対一の対応がある——これが恒常仮定である。

そして、この想定で知覚を説明しようとすると、行き詰まった。木田元は、こう書いている。

どうしても要素の算術的寄せ集めには還元できない全体的まとまり、つまりゲシュタルトの現象に突き当たってしまうのである

第1回のエポケーも、外していたのは同じものである。フッサールが止めたのは、客観的世界が実在するという想定そのものだった。

マッハが物理学で外し、フッサールが心理学で外し、ベルリン学派が末端の恒常仮定を壊した。三つは、同じ一つの想定を外している。

別の道から、同じ場所に出た

ここで、もう一度マッハが出てくる。

ベルリン学派の三人は、エーレンフェルスやグラーツ学派に師事したわけではない。シュトゥンプフを通じて、ブレンターノの側から来ている。歴史の順序としては、マッハからエーレンフェルス、グラーツ学派を経てベルリン学派に至る一本の流れである。だが、人のつながりとしては別の道だった。

にもかかわらず、たどり着いた場所がマッハと重なっていた。

コフカ自身が、後にこう書いている。

わたしはたまたま偶然にマッハの著作の中にこの問題についての一説を見いだして驚いた

木田元は、村田純一の論文を引きながら、こう書いている。

ベルリン学派こそが、マッハのゲシュタルト質を受け継いだ独墺学派以上に、マッハの精神に忠実であったということさえ不可能ではない

ただし木田元自身は、この見方がどこまで成り立つかについては留保をつけている。ここでは、そういう見方があるということにとどめたい。

それでも、形ははっきりしている。感覚に現れるものから始め直す、という同じ一つの動きが、別々の経路をとって同じ場所に出ている。

そして、ゲシュタルト心理学は、見ることの研究である。第2回で、ロルフィングでいちばん難しいのは触れることではなく見ることだ、と書いた。その「見ること」を百年かけて調べてきた分野が、現象学と同じ根から出ていた。では、同じ根から出た二つは、何が違うのか。

どこを見ているのか

ここで、二つの違いをはっきりさせておきたい。

現象学は、見ている側を問う。ゲシュタルト心理学は、見えるものの成り立ちを調べる。

セッションで考えると、分かりやすい。

クライアントが立っている。施術者が、それを見ている。片方の肩が上がっている、と見えたとする。

ゲシュタルト心理学の問いは、こうなる。なぜ、それが見えたのか。上がっているというのは、何かと比べてのことである。もう片方の肩と比べたから、そう見えた。比べる相手を変えれば、見えるものが変わる。両肩をまとめて地にすれば、今度は胸郭の全体が図として立ち上がる。どこを図にして、どこを地にしているか。それが、見えるものを決めている。

現象学の問いは、こうなる。なぜ、肩から見たのか。予約のときに肩こりだと聞いていたからではないか。その一語が、ほかを見えなくしていないか。第1回の肉離れと、同じ形である。

片方は、現れ方の側を点検する。もう片方は、自分の側を点検する。

もう一つ、よくある場面がある。施術のあと、クライアントが「軽くなった」と言う。

ゲシュタルトの側からは、何に対して軽いのかという問いになる。比べる相手が変わったから、そう感じている。

現象学の側からは、施術者が「良くなったはずだ」と思って聞いていないかという問いになる。

どちらも、前提を外している。だが、外す相手が違う。現象学は、自分の見方を外す。ゲシュタルト心理学は、見え方が成り立っている条件のほうを、外から崩す。

現象学の側は、認めなかった

ただし、話はきれいに終わらない。

同じマッハから出発し、同じブレンターノ門下の周りで、平行したり交錯したりしながら形づくられた二つである。では、互いをどう見ていたのか。

フッサールは、ゲシュタルト心理学に終始冷淡だった。『イデーン』へのあとがきで、こう書いている。

原子論的心理学もゲシュタルト心理学も、原理的な意味では心理学的〈自然主義〉にとどまっている

心を砂粒のように寄せ集めようが、全体の部分としてしか現れないものと考えようが、原理的には何の違いもない、というのである。どちらも、意識を自然の事物の一つとして見ることから出ていない、と。

同じ一冊から出発した二つが、片方からは認められないまま進んだ。

次の世代が、もう一度つないだ

ところが、次の世代で評価が逆になる。

メルロ=ポンティである。第1回で、身体を正面から扱った人として出てきた。その人が、『知覚の現象学』の注でこう書いている。

ゲシュタルト心理学の実行したことは、フッサールの現象学によって理論化された反省の一様式であった

ゲシュタルト心理学者たちがゲシュタルトという現象を見つけ、恒常仮定を批判した。その仕事に、フッサールの現象学的還元に匹敵する価値を、メルロ=ポンティは認めている。

ただし、手放しで認めたわけではない。記述としては正しい。だが、いざ理論に仕立てようとすると、素朴な実在論に戻ってしまう──メルロ=ポンティはそう見ていた。心のゲシュタルトを脳のゲシュタルトに基づかせ、さらにそれを物のゲシュタルトに基づかせてしまう。受け継いだうえで、その先へ進める必要があった。

メルロ=ポンティにドイツの現象学を手ほどきしたのは、リトアニアからの亡命者アロン・ギュルヴィッチ(Aron Gurwitsch)だった。ベルリンでゲシュタルト心理学を学び、そのうえでフッサールを読んだ人である。両方を内側から知っている立場から、二つの関係をこう言っている。

ゲシュタルト学説も、やはり〈志向性〉の理念にもとづいた心理学だということになりましょう。ただ、すべての心的現象に住みついているこの〈意味〉は、精神の純粋な活動から由来するものではなく、いわゆる要素的なものの組織化によってひとりでに構成される〈土着の意味〉なのです

意味は、こちらの側から与えられるのではない。向こうで、ひとりでに立ち上がる。現象学が「意識が向かっている」と言ったところを、ゲシュタルトは「向こうからまとまってくる」と言った。同じ一つのことを、別の側から言っている。

師が冷淡だったものを、次の世代が引き受け直した形である。

分かれた二本が、ここでもう一度出会う。そして、出会わせたのが、身体を扱った人だった。

ゲシュタルト心理学がそこからどう展開したのかは、知覚の側の主題になる(「知覚という見方──ロルフィングは、身体の何を見ているのか」)。

全体性は、どこから来たのか

1890年のエーレンフェルス。1989年のドラッカー。ちょうど百年である。そして1990年に、その本が父から手渡された。2015年にミュンヘンの教室でそれを思い出し、同じ週にロルフィングの5原則を習っている。

全体性という原則は、ロルフィングが考え出したものではなかった。百年前に決着した問いを、受け取っていたことになる。

Ida Rolf の答え

第2回で、見ることをどう教えるかという問いを扱った。Ida Rolf の答えは、水に放り込むことだったと書いた。

ただし、それだけではなかった。彼女が教え始めた当初、カリキュラムは二つの段階に分かれていた。Auditing(観察する段階)と、Practitioner(施術する段階)である。

Auditing では、施術を一切しない。ひたすら他の施術者を観察し続ける。Saturation Method と呼ばれる。情報が飽和するまで与え続けることで、見る目が育つのを待つ。

方法として体系化されてはいない。だが、時間の設計としては存在していた。そして、この形はいまのカリキュラムにも残っている。基礎トレーニングでは、他の施術者を観察することに多くの時間が割かれる。

1日6セッション、10回シリーズで60回。自分の手が動くのは20回で、残りの40回は見ている。

脳で捉えると、見失う

基礎トレーニングの講師は、繰り返しこう言っていた。脳によって捉えると、body reading は見失ってしまう。

第2回で扱ったキリンの図を、ここに戻したい。図形が並んでいるだけの絵に、キリンという概念を持った瞬間、キリンが浮かび上がる。線は一本も足されていない。変わったのは、見る側である。

分析的な心のほうが優勢になると、これが起きなくなる。部分を数えているあいだは、全体が現れない。

マッハが同じことを書いていた。私たちは光と影を知覚しているのではなく、空間の中の物を知覚している。エーレンフェルスが同じことを書いていた。メロディは、個々の音のどこにもない。そしてドラッカーが、CAT は C と A と T ではない、と書いた。

全部、同じ命題である。

分からなかったものに、名前が付く

第1回の冒頭で、2014年8月に授業で出てきた名前を並べた。デカルト、フッサール、メルロ=ポンティ、ハイデガー、ゲーテ。現象学、構造主義、ゲシュタルト。そして、こう書いた。なぜこれらが出てくるのかは、分からなかった、と。

ゲシュタルトが、ここで回収される。

判断を止めろと教わった。あるがままが現れるのを待て、と教わった。部分の和は全体にならない、と教わった。それぞれ別の教えに見えていたものが、一つの根から出ている。19世紀末のウィーンで、感覚に現れないものを学問の土台から外そうとした動きである。

そこから現象学が出て、ゲシュタルト心理学が出た。片方は施術者の在り方へ、もう片方は身体の見方へ。11年かけて、両方を別々に受け取っていたことになる。

別々に見えていたのは、こちらの事情でしかなかった。メルロ=ポンティは、とうに両方を一つのものとして見ている。

一人の師から来たのではなかった。百年前の、同じ一つの転換から来ていた。


参考文献

マッハからエーレンフェルス、フッサール、ベルリン学派へ至る経緯と、この回で引いた文の大半は、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』(新書館 2002年/講談社学術文庫 2014年)によります。マッハ、エーレンフェルス、フッサール、コフカ、メルロ=ポンティ、ギュルヴィッチの引用も、同書からの孫引きです。

ドラッカーの引用は、P.F.ドラッカー『新しい現実』(上田惇生ほか訳、ダイヤモンド社 1989年)の終章「分析から知覚へ〜新しい世界観」によります。


この記事は、在り方は、どこから来るのか──ボディワーカーのための現象学の本編です。ここで触れた主題を扱った記事は、そちらに群ごとにまとめています。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka