
はじめに
ボディワークの技術は、学べば身につく。どこにどう触れるか、どの順で進めるか、何を評価するか。手順はいくらでも増やせる。
けれども、ある段階から先へ進まなくなる。同じ手順を使っているのに、人によって起きることが違う。同じ人がやっても、日によって違う。
そこで問題になっているのは、技術ではない。施術者が、どういう在り方でそこにいるかである。
これは、ボディワークだけの話ではない。私はコーチングも行っているが、そちらでも同じことが起きる。問いかけの技術をいくつ持っているかより、その人がどう在るかのほうが、対話の質を決めてしまう。
では、在り方とは何なのか。どう深めればよいのか。
ここで手が止まる。技術なら、手順として教えることができる。在り方は、どう教えればよいのかが分からない。精神論にすると、何も言っていないのと同じになる。
この問いに、百年かけて取り組んできた分野がある。現象学である。
人が世界をどう受け取っているのか。受け取る前に、何を前提としているのか。その前提を、どうすれば一度外せるのか。現象学が扱ってきたのは、まさに在り方の側である。
そして、ロルフィングはこの分野と、思っていたより深いところでつながっていた。
2014年8月、ドイツでロルフィングの基礎トレーニングが始まった。授業に、哲学者の名前が次々に出てきた。デカルト、フッサール、メルロ=ポンティ、ハイデガー、ゲーテ。現象学、構造主義、ゲシュタルト。
身体に触れる技術を学びに来たはずだった。なぜこれらが出てくるのかは、分からなかった。
11年後の2025年、アドバンスト・トレーニングを受けた。そこで受け取った枠組みの多くが、Jeffrey Maitland という一人の人から来ていた。哲学の終身在職教授であり、禅僧であり、認定アドバンスト・ロルファーだった人である。
名前だけ知っていたものが、一つの並びとして見えた。
この記事は、そこから遡った記録である。施術者が、目の前の身体をどう見るか。哲学の側から降りてくるのではなく、現場から始めて概念へ上がる。
書いている相手は、同じ仕事をしている人である。ただ、受ける側の方にも読んでいただけたらと思っている。セッションで何をされているのかは、手順を聞いても分からない。施術者がどこから見ているかのほうが、実際に起きていることに近い。
判断を止める
前提を外す
先に、物理学の話をしたい。
ニュートン力学は、絶対空間と絶対時間を前提としていた。世界という入れ物が先にあって、その中で物が動く、という見方である。エルンスト・マッハ(Ernst Mach、1838-1916)は、それを観測されないものとして外した。
残るのは、感覚に現れるものと、その関係だけになる。アインシュタインは、そこから出発して相対性理論を作った。
前提を外したら、見えるものが変わった。
名前が付くと、見えなくなる
同じ形が、施術の現場にもある。
11年前、能楽師の安田登さんの本について書いたことがある(「「からだ」はもともと死体を指した──日本語の身体観とロルフィング」)。日本語の「膝」は膝頭から腿の付け根までを指し、「肩」は肩峰から首のあたりまでを含んでいた。解剖学がポイントとして身体を見るのに対して、おおざっぱさが日本語の身体言語の基本だった、という話である。
そして、肉離れの例が出てくる。
一つの名前が付くことで引きずられ、身体をどのように感じるかという観点が忘れられ、その名前に対する処置だけが始まる。結果として、いま目の前にある、その人の足という個別の状況が忘れられる。
名前を外したら、目の前の身体が見えた。マッハが物理学でやったことと、形が同じである。
エポケーという手続き
この、いったん外すという手つきに、哲学の側で名前が付いている。エポケー(判断中止)という。理論が前提としているものを括弧に入れ、経験に現れているものから始める。
これを方法として立てたのがエトムント・フッサール(Edmund Husserl、1859-1938)で、現象学の父と呼ばれる。その手前にフランツ・ブレンターノ(Franz Brentano、1838-1917)がいて、志向性(intentionality)という概念を見出している。意識とは、つねに何かについての意識である、という捉え方だ。
この並べ方は、Maitland のものである。2016年の著書『Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy』(身体化された存在──徒手療法の哲学的な根)で、現象学を進めた人として、ブレンターノ、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、そしてゲーテを挙げている。そして現象学をこう定義する。
Phenomenology turns the tables on the Cartesian worldview by embracing experience as it is lived and not as it is thought about later in reflection.
現象学は、経験を生きられたまま受け取ることによって、デカルト的な世界観をひっくり返す。後から反省のうちで考えられたものとしてではなく。
そして、こうも書いている。
There is plenty of theory associated with phenomenology, but it is more a method for how to attend to experience than a theory of experience.
現象学には理論も多くあるが、それは経験についての理論であるよりも、経験にどう注意を向けるかの方法である。
理論ではなく、方法。これが、身体の仕事をしている人間にとって大きい。
ロルフィングの理論を整理した Aline Newton は、1995年の解説「Basic Concepts in the Theory of Hubert Godard」(Rolf Lines, Vol. XXIII, No. 1, March 1995, pp. 32-43)で、現象学に触れたうえでこう書いている。
Even when pain brings our attention to a particular area or muscle, still we do not experience ourselves as a collection of nerve impulses, muscle fiber contractions, or sidebends and rotations.
痛みが、ある部位や筋肉に私たちの注意を向けさせるときでさえ、それでもなお私たちは、自分を神経インパルスの集まりや、筋線維の収縮や、側屈と回旋として経験してはいない。
解剖学の言葉で記述できることと、その人が経験していることは、別である。施術者は後者を相手にしている。
禁止の形で教わっていた
基礎トレーニングの後半で教わったことの多くが、禁止の形をしていた。判断しない。指摘しない。当時は、なぜそういう言い方になるのかが分からなかった。
2025年のアドバンスト・トレーニングでは、Kind Indifference という語を受け取った。冷たい無関心ではなく、距離を保つという意味である。オステオパスの Jim Jealous の言葉も紹介された。観察はしても、物語の一部になるな。
いずれも、判断を止めることを別の言い方で述べている。
あるがままが現れるのを待つ
関わっているところから始まっている
判断を止めたあと、何をするのか。
マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976)は、フッサールの方法を世界の側へ徹底させた。人間は、世界を眺めてから関わるのではない。関わっているところから始まっている。
ハンマーの例がよく知られている。使いこなしているとき、ハンマーは意識から消えている。それが手を離れて壊れたときに初めて、対象として現れる。技能をもって関わることのほうが、理論として認識することよりも先にある。
Maitland は、この立場を一つの文で言っている。
You have to give up your stance as an onlooker/bystander in order to let what is show itself to you.
「あるもの」が自らを現すためには、傍観者としての立ち位置を手放さなければならない。
これは、ハイデガーによる現象学の定義そのものである。現象学とは、自らを示すものを、それが自らを示すとおりに見えるようにすること。Maitland はそれを、施術の手順として書き直している。
…shift your orientation from trying to accomplish results and evaluating structure to an orientation of allowing what is to show itself. You simply get out of the way by expanding your perceptual field, dropping your self, and opening a loving space.
結果を出そうとし、構造を評価しようとする向きから、あるがままが自らを現すのを許す向きへ切り替える。知覚の場を広げ、自己を降ろし、愛に満ちた空間を開くことで、ただ邪魔にならない場所へ退く。
2025年のアドバンスト・トレーニングで、これは「あるがまま」が現れるのを待つという形で教えられた。2016年の本に書かれていたことが、9年後の教室に届いていたことになる。
意図と、志向性
そして、意図についての整理がある。
施術者のあいだでは、意図は技法より重要だ、という言い方がよく聞かれる。Maitland は、この言い方が成り立たないと述べた。意図(intention)と志向性(intentionality)が混同されているからである。
志向性は、施術者が世界へどう向いているかという在り方を指す。意図は、その志向性の一つの形にすぎない。白昼夢も、怒りも、恐れも、問題解決も、知覚も、すべて志向性の形である。
だから、意図は技法の一種であり、その効果は志向性に依存する。意図が技法より重要だと言うなら、それは技法が技法より重要だと言うに等しい。
志向性が、意図よりも、技法よりも重要である。これが結論だった(詳しくは「意図と志向性の違い──セッションに臨む二つの「在り方」」に書いた)。
禅が、三つの経路で入ってきた
Maitland は禅僧でもあった。師は佐々木杏山承周老師である。
私にとって禅は、三つの経路から入ってきた。
一つ目は、家である。墓が世田谷の豪徳寺にあり、曹洞宗である。学ぼうとして出会ったのではなく、先にあった。2000年、父が亡くなった年には、永平寺を訪れている。
二つ目は、自分で読んだ鈴木俊隆の本から。手に取ったときには、それが同じ流れにあることを意識していなかった。
三つ目は、制度として渡ってきたものである。佐々木老師から Maitland へ、Maitland から Ray McCall へ、そして2025年の教室へ。
一つ目に気づいたのは、いちばん後だった。
ただし、ハイデガーのこの立場にも、後から重い批判が向けられることになる。それは、後の節で扱う。
見分ける性質としての、原則
手順ではなく、見分ける性質
ロルフィングには、5つの原則がある。全体性(Wholism)、支持(Support)、適応性(Adaptability)、二方向性(Palintonicity)、完了(Closure)。
これは Ida Rolf が立てたものではない。1989年に協会が分裂したあと、Maitland と Jan Sultan が、アドバンスト・クラスを一緒に教えているあいだに作った。後に Michael Salveson が必要な補正を加えている。Maitland 自身が、そう書いている。
私がこれを教わったのは、2014年から2015年にかけての基礎トレーニングだった(「Phase III(12)〜5原則」)。2025年のアドバンスト・トレーニングでも、同じ5つを受け取っている(「ロルフィングにおける原理・原則と観察力 — Jeff Maitlandのアプローチ」)。
当時は、手順のようなものとして受け取っていた。どれから見るか、どの順で当てるか。そうではなかった。
Maitland の原則は、機械的な優先順位も、介入の道具も規定していない。そこに既にあるのか、それともさらに喚起される必要があるのかを、見分けるための性質である。
原則は、何をするかではなく、何を見るかを決めている。ここで、前の2章とつながる。判断を止め、あるがままが現れるのを待つとき、何が現れたのかを受け取る枠が要る。原則はその枠である。
5つのうち、二方向性だけが見慣れない語だと思う。原語は Palintonicity で、英語の辞書にも載っていない。これは Maitland が作った語である。1991年に「The palintonic lines of Rolfing」(Rolf Lines 19巻1号)で持ち出し、翌1992年に Sultan との共著「Definition and principles of Rolfing」(同20巻2号)で原則として定式化している。
Spannung に、英語がなかった
出発点は、Ida Rolf が好んで使っていたドイツ語の Spannung だった。張り、高まり、伸び、span。ギターの弦が調子よく張られている状態にも、吊り橋や人体のような張力構造にも使える。同時に、強い注意や、美的な観照や、瞑想のさなかに身体が示す質にも使える。
これらすべてを収める英語が、一語もなかった。そこで Maitland が探しに行き、古代ギリシャに辿り着く。ヘラクレイトス(紀元前500年頃)の断片である。
They do not apprehend how in differing with itself it is brought to agree with itself: stretched-back-and-forth harmony like that of the bow and lyre.
相反しながら、いかにして自らと一致するに至るのかを、人々は理解しない。弓と竪琴のような、張り返す調和。
「張り返す」にあたるギリシャ語が palintonos である。palin は「行きつ戻りつ」「戻る」、tonos は英語の tone の語源で、音の調子にも、筋緊張にも、感情の調子にも使われる。
プラトンではなく、ヘラクレイトス
そして Maitland は、プラトンとの対比を示す。
プラトンは、地上と身体を否定したところに自由を求めた。永遠で不変の、この世ならぬ領域である。ヘラクレイトスは違った。調和は、一方の極を否定することにではなく、両極のあいだの適切な張りのうちに見出される。
Harmony results when the poles which constitute the opposition are held in a unified balance. “Palintonos” means, therefore, “unity of opposition” or “oppositional balance.”
対立を構成する両極が、統一された均衡のうちに保たれたとき、調和が生じる。したがって palintonos とは、「対立の統一」、あるいは「対立的な均衡」である。
張りは、対立を必要とする。対立がなければ、調和もない。
Maitland は、ここに荘子を並べている。
Can a man cling only to heaven / And know nothing of earth? / They are correlative: to know one / Is to know the other. / To refuse one / To refuse both.
天のみに固執して、地を知らずにいられるか。両者は相関する。一方を知ることは、他方を知ることである。一方を拒むことは、両方を拒むことである。
ここで、現象学と東洋が同じ場所に来る。ハイデガーがプラトン以来の枠組みを問い直したことと、ヘラクレイトスがプラトン以前にいたこと、そして荘子が同じことを別の言葉で言っていたことが、一つの節に並ぶ。
立っている身体のこと
そして、この語が指しているのは、立っている人間の身体である。
ほとんどの動物は、背骨を地面と平行にして時間と空間の中に自分を置く。人間はそうではない。足を地につけ、頭を天へ持ち上げている。地に支えられながら、上へ伸びていく。その両方が同時に成り立っている状態を、palintonos が指している。
ロルフィングで二方向性と呼んでいるものが、これである(「2方向性(Palintonicity)」)。
身体は空間の中にあり、空間は身体の中にある
身体は、知覚される側ではない
モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908-1961)は、ハイデガーが手薄にしていた身体そのものを、正面から扱った。
身体は、知覚される対象ではなく、知覚する側である。私たちは身体を通して世界を持っている。考えるより先に、身体のほうが「できる」ことを知っている。
身体図式は、メルロ=ポンティの語ではない
ここで一つ、訂正しておきたい。
身体図式(ボディスキーマ)という概念を、メルロ=ポンティが提唱したと書かれることがある。私も、そう書いたことがある。だが、これは正しくない。
身体図式の起源は、神経学者の Henry Head と Gordon Holmes が1911年に発表した論文にある。身体イメージ(ボディイメージ)のほうは、Paul Schilder が1935年に提示した。二つは別の学統から出て、後に対にされた。メルロ=ポンティ(1945年)は、既にあった神経学の概念を現象学の側へ引き取った人である。
この訂正には、個人的な経緯がある。2014年、基礎トレーニングの最初の段階で、Shaun Gallagher と Jonathan Cole の論文が配られていた。まさにこの二つの語の混同を整理するために書かれたものである。年表資料も一緒に配られ、1911年と1935年が明記されていた。
私は、それを読まなかった。読まないまま、後年この主題について書いている。
Maitland も、メルロ=ポンティから受け取ったものをはっきり書いている。
At the end of the thread I discovered the sentient (self-sensing) body uncovered first by Maurice Merleau-Ponty. In time I realized that what I was calling “the sentient body” was a clear example of consciousness as a somatic event.
糸の先で私が見出したのは、モーリス・メルロ=ポンティが最初に明らかにした、感受する(自らを感じる)身体だった。やがて私は、自分が「感受する身体」と呼んでいたものが、意識が身体的な出来事であることの明らかな一例だと気づいた。
意識と身体は、互いに排他的な二つの種類ではなくなる。デカルト以来の枠組みが、ここで崩れる。
触れることと、触れられること
触れることについては、もう一冊のほうに一節がある。1994年の『Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology』(広がりのある身体──身体の存在論をめぐって)である。手を使う仕事をしている人間にとって、決定的だと思う。
Touching is an act of will, a movement out and away from yourself designed to accomplish a certain end. … Being touched is not an act of will; it is an act of allowing.
触れることは意志の行為であり、ある目的を果たすために自分から外へ出ていく動きである。触れられることは意志の行為ではない。それは許しの行為である。
そして、許すことは能動でも受動でもない、と続く。
Things contact other things—just because your body is in contact with hers is no guarantee that she is being touched.
物は物に接触する。身体が接触しているというだけでは、その人が触れられている保証にはならない。
接触していることと、触れていることは違う。相手が許していなければ、手は身体の上に乗っているだけである。
「どこにいるか」が、先にある
そして、空間の話になる。
ドイツ生まれの神経学者で現象学者の エルヴィン・シュトラウス(Erwin Straus、1891-1975)は、哲学の出発点を「人間の直立した姿勢」に定めた人である。ナチスを逃れて渡米し、退役軍人病院で38年間を過ごした。Newton は1995年の解説のなかで、彼の論文「Upright Posture」を三度にわたって長く引いている。
まず、環境についてである。
Men and mice do not have the same environment, even if they share the same room. Environment is not a stage with the scenery set as one and the same for all actors who make their entrance. Each species has its own environment.
人と鼠は、同じ部屋にいたとしても、同じ環境にはいない。環境とは、登場するすべての役者にとって同じように設えられた舞台ではない。それぞれの種が、それぞれの環境を持っている。
そして、直立していることは、力学の問題ではないと続く。
Upright posture preestablishes a definite attitude toward the world; it is a specific mode of being in the world.
直立した姿勢は、世界へ向かう一つの明確な態度をあらかじめ定めている。それは、世界の内に在ることの、特定の様式である。
もう一つ、私が長く覚えている一節がある。
While the heart continues to beat from its fetal beginning to death without our active intervention and while breathing neither demands nor tolerates our voluntary interference beyond narrow limits, upright posture remains a task throughout our lives.
心臓は胎児のときから死にいたるまで、私たちが積極的に介入しなくても打ち続ける。呼吸は、狭い範囲を超えた随意の干渉を、求めも許しもしない。それに対して、直立した姿勢は、生涯を通じて課題であり続ける。
立っていることは、達成して終わることがない。毎朝、また取り組み直す。シュトラウスはさらに、重力は完全に克服されることがなく、直立した姿勢はつねに対抗という性格を保ち続けると書いている。私たちの活動と注意を、絶えず求めている。
そして身体図式について、彼はこう言う。
The body scheme is not so much a concept or image that a person has of his own body as it is an ensemble of directions and demarcations—directions in which we reach out toward the world and demarcations that we encounter in contact with the world.
身体図式とは、人が自分の身体について持っている概念や像であるというより、方向と境界の集まりである。私たちが世界へ向かって手を伸ばしていく方向と、世界と接するときに出会う境界の。
身体の空間は、皮膚で終わらない。私たちは感覚の届く範囲を、周囲の空間へ投げ出している。
Rolf Movement の理論を作った ウベア・ゴダール(Hubert Godard) は、2005年のインタビューで、自分の空間論を現象学的空間(Phenomenological Space)と呼んだ。本人が、その章の題はそれであるべきだと言っている。
身体が空間の中にあるだけではない。空間のほうも、身体の中にある。ウベアは、側弯を背骨の形の問題としてではなく、その人の空間の問題として見た。
メルロ=ポンティについても、同じことを言っておかなければならない。身体を正面から扱ったこの人にも、批判が向けられている。それも、次の節で扱う。
この主題は、別に連載として書く予定でいる。
知覚は、頭の中で起きていない
ここまで、Maitland を通して現象学を見てきた。この節だけ、彼は出てこない。認知科学は、彼の系譜ではないからである。
1991年、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)、エヴァン・トンプソン(Evan Thompson)、Eleanor Rosch の3人が『The Embodied Mind』を出した。ヴァレラは生物学者で認知科学者、トンプソンは哲学者である。
当時の認知科学の主流は、心を記号の操作として捉えていた。それを乗り越えるために、彼らは現象学に手を伸ばした。生きられた経験を一人称で扱う方法を、現象学が既に一世紀かけて磨いていたからである。
だが、この本は現象学を受け継ぐ本ではない。現象学が、なぜそこで止まったのかを書いている。
実践の次元が、なかった
フッサールは「事象そのものへ」と言った。理論の前提を括弧に入れて、経験そのものを記述せよ、と。3人は、そこに欠けていたものを指摘する。
Husserl’s turn toward experience and “the things themselves” was entirely theoretical, or, to make the point the other way around, it completely lacked any pragmatic dimension.
フッサールの、経験と「事象そのもの」へ向かう転回は、まったく理論的なものだった。言い換えれば、実践的な次元をまるで欠いていた。
記述せよ、とは言ったが、そのための訓練された手続きがなかった。だから、括弧に入れたはずの自然的態度が、反省のうちにまた戻ってくる。
It is hardly surprising, therefore, that it could not overcome the rift between science and experience, for science, unlike phenomenological reflection, has a life beyond theory.
したがって、それが科学と経験の裂け目を乗り越えられなかったのは、驚くにあたらない。科学は、現象学的な反省とは違って、理論の外に生きている場所を持っているからである。
科学には、実験室がある。手を動かして確かめる場所が、理論の外にある。現象学には、それがなかった。
そして3人は、この批判をフッサールで止めない。
Indeed, this criticism would hold even for Heidegger’s existential phenomenology, as well as for Merleau-Ponty’s phenomenology of lived experience. Both stressed the pragmatic, embodied context of human experience, but in a purely theoretical way.
この批判は、ハイデガーの実存的な現象学にも、メルロ=ポンティの生きられた経験の現象学にも、同じように当てはまる。二人とも、人間の経験が実践的で身体化された文脈にあることを強調したが、それはあくまで純粋に理論としてであった。
ここまで書いてきたことが、そのまま批判の対象になる。
あるがままが現れるのを待つ、と言う。触れることと触れられることは違う、と言う。そのとおりなのだが、言っているだけでは変わらない。メルロ=ポンティについて、3人はこう書いている。科学も現象学も、私たちの具体的で身体化された存在を、つねに事後的に説明していた、と。
では、何が要るのか。
What we are suggesting is a change in the nature of reflection from an abstract, disembodied activity to an embodied (mindful), open-ended reflection. By embodied, we mean reflection in which body and mind have been brought together.
私たちが提案しているのは、反省というものの性格を、抽象的で身体を欠いた活動から、身体化された(マインドフルな)、開かれた反省へと変えることである。身体化された、というのは、身体と心が一つに持ち来たらされた反省という意味である。
そして、次の一文が続く。
…reflection is not just on experience, but reflection is a form of experience itself.
反省とは、経験についての反省であるだけでなく、反省それ自体が経験の一つの形である。
これを繰り返し行う規律を、瞑想の伝統が2500年かけて磨いてきた。現象学に欠けていた実践を、そこから持ってくる。それが3人の提案である。
ここは、原則の節と呼応している。Maitland は禅の側からロルフィングへ来た。ヴァレラたちは認知科学の側から瞑想へ行った。向きは逆で、出会う場所は同じである。
知覚とは、行為である
この本が出した概念が エナクション(enaction) である。
Our intention is to bypass entirely this logical geography of inner versus outer by studying cognition not as recovery or projection but as embodied action.
私たちの意図は、内と外というこの論理的な地勢を丸ごと迂回することにある。認知を、回復としてでも投影としてでもなく、身体化された行為として研究することによって。
そして、定義が続く。
…the enactive approach consists of two points: (1) perception consists in perceptually guided action and (2) cognitive structures emerge from the recurrent sensorimotor patterns that enable action to be perceptually guided.
エナクティヴなアプローチは二点からなる。(1)知覚とは、知覚によって導かれる行為である。(2)認知の構造は、行為が知覚によって導かれることを可能にする、反復する感覚運動のパターンから立ち現れる。
知覚は、受け取ることではない。行為である。
これは、ロルフィングの側でも同じことが言われている。Aline Newton が1995年に書いた解説には、知覚は志向性の一形態であり、ある方向への動きである、とある。1991年と1995年に、別々の場所で同じことが書かれていた。
知覚については、別に一つのページを立てた(「知覚という見方──ロルフィングは、身体の何を見ているのか」)。
脳の中だけの出来事ではない
アルヴァ・ノエ(Alva Noë) は、もう一歩進めた。知覚は脳の中で起きているのではない。身体が世界とやり取りすること、それ自体が知覚である。消化が胃の中だけの出来事ではないように、見ることも脳の中だけの出来事ではない。
これは、施術の現場に直接届く。クライアントの知覚を変えようとして、頭に働きかける必要はない。身体と世界のやり取りのほうを変えれば、知覚が変わる。足の裏の接地が変われば、見え方が変わる。
トンプソンは、ヴァレラの共著者として1991年から現在まで一本の線を引いている。『The Blind Spot』(Adam Frank、Marcelo Gleiser との共著)では、こう問うている。科学は、人間の経験を抜きにできるのか。
できない、というのが答えである。どんな測定も、どんな理論も、誰かが経験しているところから始まっている。それを忘れたところに、科学の盲点がある。
ここで、最初の節のマッハが戻ってくる。絶対空間という誰も見たことのない前提を外し、感覚に現れるものから始め直した人である。百年後、認知科学が同じ場所に戻ってきた。
動きの研究から
もう一人、別の入口から来た人がいる。エドワード・リード(Edward Reed) は、現象学の視点を運動研究へ持ち込んだ。リードは、文脈から切り離した動きの研究は、リハビリテーションに応用できないと書いている。
そして、すべての行為系(action system)の根に、横たわる・座る・立つがある。さらにその根に、重力の場との関係を打ち立てる必要がある、と。
ロルフィングが扱っているのは、まさにその層である。
認識のOS という見方
アプリケーションではなく、その下
私は、人が世界をどう受け取っているかを認識のOS という言い方で扱っている。論理のOS、感覚のOS、対話のOS、視点のOS の4つの層からなる枠組みである。
OSという言い方をするのは、その上で動いているものではなく、その下で動いているもののほうを指したいからである。何を考えるかではなく、何が考えられる範囲に入っているか。何を見るかではなく、何が見える範囲に入っているか。
身体図式は、意識されるかどうかに関わらず作動している。皮膚・関節・筋肉・内臓からの情報が絶えず更新され、その大部分は自動的に処理される。本人には、それが選択だと思えない。当たり前の現実として処理されている。
この百年が扱ってきたのは、下の二層
ここまで見てきた人たちが扱ってきたのは、感覚のOS と視点のOS である。
エポケーは、視点のOS を一度止めてみせる手続きだった。身体図式は、感覚のOS そのものである。エナクションは、この二つが別々ではなく、一つの働きだと言っている。知覚が行為なら、感覚と視点は分けられない。
そして、身体に働きかけることが、なぜ世界の見え方を変えるのかも、ここで説明がつく。下の層が変われば、その上で動いているものも変わる。いつも同じ結論に至る思考のパターンや、特定の状況で判断が狭くなる癖は、論理のOS の問題として扱われやすい。だが、その下が動いていないことのほうが多い。
両側から、同じ場所へ
この枠組みの哲学史の側は、別のサイトで4回に分けて書いた(「主観・客観の破綻から身体図式へ──現象学とロルフィングの接点」)。
向きが逆になっている。あちらはヒュームからカント、マッハ、フッサール、メルロ=ポンティと哲学史を辿り、身体図式へ降りてくる。この記事は、施術の現場から始めて、概念へ上がってきた。
読んで分かることと、変わることは別である。哲学を読めば、自分のOSがどういう構造をしているかを知ることはできる。だが、知ることと書き換えることのあいだには、まだ距離がある。
その距離のことを、ヴァレラたちは実践の次元と呼んでいた。
手が届くのは、身体だけだった
手で触れられるもの
ここまで、何人もの名前を並べてきた。最後に、ロルフィングを作った人のことを書いておきたい。
Ida Rolf(1896-1979)は、メルロ=ポンティとほぼ同時代を生きている。生化学者として出発し、身体構造に向かった人である。
彼女は、こう言っている。
Only thing that I can get hands on is physical.
私が手で触れ、コンタクトできるのは、身体的な部分だけである。
身体以外を扱わなかったのではない。1974年の協会の年次総会では、構造を整えたときに、その人の内と周囲のエネルギー場に何が起き、それと並行して行動がどう変わるのかを見たい、と語っている。構造の変化、場の変化、行動の変化を、一つの連続した現象として捉えていた。
手が届くのが身体だったから、身体から入った。それだけのことだったように読める。
重力を、支えとして
そして、重力について。Maitland が引いている Ida Rolf の言葉に、こういうものがある。
Yoga as it is taught today does not go far enough. The body organized through yoga achieves joint mobility but does not consciously recognize and seek out the gravity field as its basic supportive factor.
今日教えられているヨガは、十分に遠くまで行っていない。ヨガによって組織された身体は関節の可動性を得るが、重力の場を、自らの基本的な支持要因として意識的に認識し、求めることをしない。
重力を、負担としてではなく支えとして使えるかどうか。ここに、Ida Rolf の仕事の全体がかかっている。
そして、これは palintonos と同じことを指している。地に支えられながら、上へ伸びる。両方が同時に成り立っている状態である。
見ることは、教えられるのか
水に放り込む
ロルフィングで最も難しいのは、触れることではなく見ることである。経験を積んだ施術者は、なぜそこに働きかけたのかを説明できないことがある。聞かれて「見えないか」としか答えられない。
Ida Rolf の教え方は、水に放り込むことだったと伝えられている。泳ぐか、沈むか。その後、協会は体系を整えることでこの空白を埋めようとした。Peter Schwind のように、見えなくても触れる精度を上げれば届く、という答えを出した人もいる。
Maitland は、四つ目の答えを出していた。見る練習を、組み立てたのである。
The result is a simple three-step exercise based upon insights I gained from years of practicing Zen, Rolfing Structural Integration (Rolfing SI), philosophy, and phenomenology. But, by far and away, the most potent insight came from Goethe and the way of seeing he called “exact sensorial imagination.”
その結果が、禅・ロルフィング・哲学・現象学を長年実践して得た洞察にもとづく、簡素な三段階の練習である。だが、もっとも強力な洞察は、ゲーテと、彼が「精密な感覚的想像力」と呼んだ見方から来た。
そして、そのワークショップを一緒に教えたのが Ray McCall だった。2025年のアドバンスト・トレーニングで、私が教わった講師の一人である。
三段階の、一つ目
その練習は、こういうものである。
ゲーテが示したのは二段階だった。一つは能動的に見る(active seeing)こと。言語的・分析的な心をいったん止めて、感覚に注意を向ける。もう一つが精密な感覚的想像力(exact sensorial imagination)で、目を閉じ、いま受け取ったものを想像のなかと身体のなかに再現する。
そして、この二つを往復する。見て、閉じて、思い浮かべ、また見て、抜けていたものを足し、歪めていたものを直す。相手の全体性が立ち現れてくるまで、繰り返す。
Maitland は、ここに一つ足した。そして、それを最初の段階に据えた。
…before you do anything else, your very first act must be to shift your orientation or intentionality from an onlooker experiencing the world through abstractions of the analytic/verbal mind to becoming a participant in the lived perception of the world.
ほかの何よりも先に、あなたの最初の行為は、分析的・言語的な心の抽象を通じて世界を経験する傍観者から、世界の生きられた知覚における参加者になることへ、自らの向きを、あるいは志向性を切り替えることでなければならない。
この段階だけが、全過程を通じて保ち続けられなければならない。あとの二つは往復するが、これは降ろせない。
そして Maitland は、この切り替えそのものが、既に一つの介入であると書いている。それだけで変化を起こしうる、と。Ida Rolf が「クライアントと一つになる」と言ったのは、この切り替えのことだった、とも。
冒頭の問いに、ここで答えが出る。
在り方は、どう教えればよいのかが分からない、と書いた。Maitland は、それを手順の一段階目にした。精神論にせず、かといって技法にもせず、練習の中に組み込んでいる。
概念がなければ、何も見えない
Maitland は、見ることについて一つの実験を書いている。意味のない染みの集まりに見える図がある。そこにキリンを探すと、キリンが現れる。
No lines were added to the drawing, nothing about it changed. What changed was that you acquired the appropriate concept of giraffe. … But notice it was not there in advance of your seeing it.
図に線は一本も足されていない。何も変わっていない。変わったのは、あなたがキリンという適切な概念を手にしたことである。そして、それはあなたが見る前からそこにあったのではない。
ここで、はじめの問いに戻る。
名前が付くと、目の前の身体が見えなくなる。だが、名前がなければ何も見えない。肉離れという名前が視野を狭めるのと同じ働きで、キリンという概念が図の中にキリンを出現させる。
判断を止めることは、概念を捨てることではない。概念を持ちながら、それに乗っ取られないでいることである。持ったうえで、使わない。最初から何も持たないこととは違う。
手のほうは、どうか
ここまで、見ることについて書いてきた。だが、これは手を使う仕事である。
触れることと触れられることの違いを思い出したい。触れることは意志の行為で、触れられることは許しの行為だった。そして、許すことは能動でも受動でもない。
見ることにも、同じ構造がある。探しに行くだけでは見えない。あるがままが現れるのを許す側にも、同時に立っていなければならない。キリンを探すという能動と、図のほうから何かが現れてくるのを待つことが、一度に起きている。
そして、これが palintonos だと思う。張り返す調和。能動と受動という二つの極を、どちらかに倒すのではなく、そのあいだの適切な張りとして保つ。地に支えられながら上へ伸びる身体と、同じ形をしている。
知覚が行為である、というエナクションの主張も、同じことを言っている。受け取るのでも、こちらから投げるのでもない。やり取りそのものが知覚である。
現象が先にあり、名前が後から来る
2015年に書いたものに、不思議なのは、という書き方をした箇所がいくつもある。説明はできないが、確かに起きていること。10年後のアドバンスト・トレーニングで、そのいくつかに名前が付いた。ニュートラルという名前と、それを育てるための手順である。
現象が先にあり、名前が後から来る。
Maitland も、同じことを書いている。2007年の論文の締めで、禅の師に「どうやって人を癒すのですか」と尋ねた話を振り返り、相手と一つになりなさい、というその答えの単純さを思い出すと述べる。そして、こう続けている。
そこへ辿り着くのに、どれだけの言葉が必要だったかに驚く。
この記事も、そのための言葉である。読んで変わるものではない。だが、名前がなければ、何が起きているのかも見えない。
この記事は、在り方は、どこから来るのか──ボディワーカーのための現象学の本編です。ここで触れた主題を扱った記事は、そちらに群ごとにまとめています。
