人工知能から問い直す、身体性と上達──ドレイファス『純粋人工知能批判』を読む(第3回|全3回)

はじめに
今回のシリーズでは、ヒューバート・ドレイファス(Hubert Dreyfus)とスチュアート・ドレイファス(Stuart Dreyfus)の『純粋人工知能批判』(原題 Mind over Machine、1986年。椋田直子訳、アスキー、1987年)を紹介している。

第1回では、人間が技能を身につける5つの段階を紹介し、第2回では、それを自分自身の11年間にわたるロルフィングの学習経験に重ねてみていった。
ここまで考えてきたのは、上達とは単に知識や技術が増えることではなく、目の前の状況の見え方が変わることでもある、という問題だった。
しかし、そもそもこの本は人工知能について書かれた本である。なぜ、人間の技能習得から話が始まるのだろうか。最終回では、この本が生まれた背景を振り返りながら、人工知能と「現象学」、そして、身体性を考える際、大切になる「知覚」の問題について考えてみたい。
哲学者が人工知能に疑問を持った理由
1960年代の初め、ヒューバート・ドレイファスはマサチューセッツ工科大学(MIT)で哲学を教え始めた。プラトンからカントに至る哲学者たちが、人間の知識や知覚をどのように考えてきたのかを説明すると、学生たちから思いがけない反応が返ってきた。そのような哲学の問題は、計算機の登場によって、もう解決されつつあるのではないか、というのである。
学生たちが指していたのは、当時急速に発展していた人工知能研究だった。計算機に規則を与えれば、人間のように推論し、問題を解くことができる。さらに研究が進めば、人間の知性そのものを再現できるかもしれない。学生たちは、その可能性に期待していた。
ドレイファスにとって、これは無視できない指摘だった。なぜなら、当時の人工知能研究には、彼自身が講義で扱っていた西洋哲学と共通する前提があったからである。それは、人間の知性を、規則に従って情報を処理する働きとして説明できるのではないかという考え方だった。
例えば、私たちは犬を見たとき、それが犬だと分かる。では、なぜ犬だと分かるのだろうか。4本の足があり、吠え、尻尾を振る。そうした特徴を規則として組み合わせれば、犬を見分けられるかもしれない。しかし、吠えない犬もいれば、尻尾を振らない犬もいる。そこで、さらに細かい規則が必要になる。耳の形、鼻の特徴、身体の大きさ、動き方。規則の下に別の規則を置き、階層的に整理していくのである。
ドレイファスは、このような発想を西洋哲学の歴史の中に見ていた。カント(Immanuel Kant)は、人間が世界を理解する際に、概念や判断の規則が重要な役割を果たすと考えた。さらに、現象学の創始者であるフッサール(Edmund Husserl)は、私たちが物事を意味のあるものとして捉える仕組みを詳しく分析しようとした。ドレイファスは、フッサールを心の情報処理モデルの先駆けとして捉えていた。
もちろん、カントやフッサールが計算機プログラムを考えていたわけではない。しかし、知性を規則や構造によって説明しようとする点では、当時の人工知能研究と共通するところがある。人工知能の研究者たちは、その規則を計算機に実行させることで、人間の知性を再現しようとしていた。
ドレイファスが疑問を持ったのは、まさにこの前提だった。人間は、本当に規則を使うことによって世界を理解しているのだろうか。
現象学は何を問い直したのか
ドレイファスが講義で重視していたのは、ハイデガー(Martin Heidegger)、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)、ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)だった。
3人の思想はそれぞれ異なるが、ドレイファスは、彼らの中に、規則だけでは人間の知性を説明できないという共通の問題意識を見ていた。
例えば、ハイデガーは、私たちが普段、世界の中でどのように行動しているかに注目した。経験を積んだ大工は、ハンマーの握り方や振り方を一つずつ考えながら釘を打っているわけではない。釘を打つという作業に集中し、自然にハンマーを使っている。ハンマーが壊れたり、釘が曲がったりすれば、立ち止まって考える。しかし、普段は道具を分析する前に、すでに使いこなしているのである。
メルロ=ポンティは、身体の役割をさらに重視した。私たちは、狭い通路を通るとき、自分の肩幅と通路の幅を毎回計算しているわけではない。身体を少し傾けたり、向きを変えたりしながら、自然に通り抜けている。階段を上るときも、一段ごとの高さを測定して足を上げているわけではない。身体は、経験を通して、周囲の環境に応じた動き方を身につけている。
ウィトゲンシュタインも、規則に従うとはどういうことかを問い直した。例えば、子どもが「2、4、6、8」と数を並べ、次は「10」だと答えられるようになったとする。そのとき、頭の中で常に「2を足す」という規則を意識しているのだろうか。それとも、繰り返し練習し、周囲の人と同じように数を使うことを学んだ結果、自然に続きが分かるようになったのだろうか。
3人に共通しているのは、人間の知性を、頭の中で規則を操作する働きだけで理解しようとしないことである。私たちは、身体を持ち、道具を使い、他者と関わりながら生活している。その経験を通して、世界の中で何が重要なのかを学んでいく。
ドレイファスは、この現象学的な見方を手がかりに、人工知能研究の前提を問い直そうとした。身体を持たず、子ども時代もなく、人間社会の中で育った経験もない計算機が、人間と同じように世界を理解できるのだろうか。
その疑問を確かめるため、彼は1964年の夏、RAND研究所へ向かった。そこで人工知能研究を評価することになったのである。
この場面は、別のサイトでも扱っている。シリーズ「現象学と認知科学──心をどこまで捉えられるか」の第4回、ヴァレラの仏教と科学は、誰から来て、誰に渡ったのか?──マカロック、トゥルンパ、トンプソンに、「RAND研究所で、哲学者が必要だと言われた」という節がある。フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)とエヴァン・トンプソン(Evan Thompson)の系譜をたどった回である。
ドレイファスが問おうとしたのは、計算機の処理速度ではなかった。計算機が再現しようとしている「人間の知性」とは、そもそも何なのかという問題だった。
この本は何に反論しているのか
『純粋人工知能批判』の序文は、当時の軍事技術への期待を紹介するところから始まる。人工知能や計算機科学が発展すれば、偵察や攻撃を自律的に行う陸・海・空の乗り物も実現できるかもしれない。そうした構想が語られていた。
なぜ、それほど急いでいたのだろうか。ドレイファス兄弟は、その背景に核戦争の問題があったと説明している。核攻撃に対して、人間が判断できる時間は、わずか7〜8分しかない。そのような状況では、人間より速く、疲れることもなく、動揺しない計算機が、魅力的な解決策に見える。
1985年の『タイム』誌からは、アメリカの戦略防衛構想、いわゆるスターウォーズ計画についての記述も引用されている。人間があらかじめ迎撃の条件を決め、それをプログラムにする。しかし、実際に攻撃が始まれば、最後の判断は計算機が行うことになる。人間の指揮官が戦闘の開始を知る前に、計算機が作動するかもしれないのである。
ドレイファス兄弟が問題にしたのは、計算機に何ができるのかを十分に検討しないまま、期待が膨らんでいたことだった。当時、人工知能研究はすでに25年ほど続けられていた。しかし、当初の約束のごく一部しか実現していない。それにもかかわらず、いずれ計算機は人間の知性に追いつくはずだという期待が繰り返し語られていた。
2人は、計算機が何をすべきかを議論する前に、まず何ができるのかを明らかにする必要があると考えた。
特に批判の対象となったのが、知識工学(knowledge engineering)という考え方だった。専門家に、どのように判断しているのかを尋ねる。そこで得られた経験則を整理し、プログラムにする。そうすれば、計算機も専門家と同じように判断できるのではないか。いわゆるエキスパートシステムの発想である。
例えば、医師がレントゲン写真を見た瞬間に病態を見抜くとする。その医師に理由を尋ねれば、いくつかの特徴を説明できるかもしれない。しかし、その説明が、実際の認識の過程をすべて表しているとは限らない。長年の経験によって、画像全体が意味を持って見えるようになっている可能性があるからである。
第1回で紹介した、ソクラテスとエウテュプロンの議論を思い出す。専門家は、何が適切なのかを判断できる。しかし、その判断を一般的な規則として説明できるとは限らない。ソクラテスは、そこに説明すべき知識があるはずだと考えた。ドレイファス兄弟は、同じ発想が人工知能研究にもあると見ていた。
専門家が説明できないだけで、頭の中には規則が存在しているはずだ。その規則を取り出せば、知性を再現できるはずだ。しかし、もし熟達した判断が、そもそも規則を適用することによって生まれているのではないとしたら、どうだろうか。
取り出すべき規則が、最初からその形では存在していないのかもしれない。
ここで、第1回の5段階モデルにつながる。初心者は規則に従って行動するが、経験を積むにつれて、状況全体を直観的に捉えるようになる。達人は、慣れた状況であれば、何をすべきかを意識的に計算しなくても自然に行動できる。
ドレイファス兄弟は、人工知能研究が、人間の知性を初心者のような規則の適用として理解しすぎていると考えた。だからこそ、人工知能を論じた本が、人間の技能習得から始まっていたのである。
ドラッカーの「純粋知覚批判」
ここで、もう1人の人物を紹介したい。経営学者のピーター・ドラッカー(Peter Drucker)である。
実は、ドラッカーは、ヒューバート・ドレイファスの著作が生まれる過程に関わっている。1960年代、ドレイファスはRAND研究所のために人工知能研究についての報告を書いた。その報告は公表をめぐって論争となり、後に「錬金術と人工知能(Alchemy and Artificial Intelligence)」という論文として発表された。この論文を本にまとめるよう勧めたのが、ドラッカーだった。そうして1972年に出版されたのが、『コンピュータには何ができないか』(What Computers Can’t Do)である。

そのドラッカーが、1989年の『新しい現実』(The New Realities)の終章で、興味深いことを書いている。
17世紀、デカルト(René Descartes)やガリレオ(Galileo Galilei)の時代に、自然を機械的な仕組みとして理解する科学が発展した。その後、カントが1781年に『純粋理性批判』を出版し、知識がどのように成立するのかを哲学的に問い直した。ドラッカーによれば、カントの哲学は、その後の西洋哲学に長く影響を与えた。カントに反対したニーチェ(Friedrich Nietzsche)も、20世紀前半のウィトゲンシュタインも、カントが提起した問題から自由ではなかったという。
しかし、現代の哲学者たちは、もはやカントと同じ問題だけを考えているわけではない。ドラッカーが注目したのは、記号、象徴、模様、神話、言語といったものだった。これらは、世界を個々の要素に分解するだけでは理解できない。要素同士の関係や、全体としてどのような意味を持つのかが重要になる。
そしてドラッカーは、機械的な宇宙観から生物的な宇宙観への移行には、新しい哲学が必要になると考えた。カントなら、それを「洞察(Einsicht)」、あるいは「純粋知覚批判(Critique of Pure Perception)」と呼んだかもしれない、と書いている。
この表現が、非常に興味深い。
『純粋人工知能批判』という邦題が付いたのは1987年であり、ドラッカーの『新しい現実』が出版されたのは1989年である。したがって、ドラッカーの言葉が邦題に影響したわけではない。また、ドラッカーがこの邦題を意識していたと考える材料もない。ここは、2つの言葉が重なっているという以上のことは言えない。
それでも、両者が向かっている方向には、共通するところがあると思う。それは、世界を分析する能力だけでなく、世界がどのように見えているのかを問い直すということである。
ドレイファス兄弟が熟練者や達人について説明していたのは、状況を細かい要素に分解しなくても、全体として何が重要なのかが分かるようになることだった。チェスの盤面を見る。患者のレントゲン写真を見る。車を運転する。人の身体を観察する。経験を積むにつれて、それまで分からなかった特徴が、自然に分かるようになる。
ドラッカーが注目した模様や配置という問題も、部分を一つずつ調べるだけでは分からない、全体の意味に関わっている。もちろん、ドラッカーとドレイファスが、まったく同じことを主張していたわけではない。しかし、機械的な分析だけでは捉えられないものに注目している点で、両者には接点がある。
そして、そこにロルフィングを学んできた私自身の経験も重なってくる。身体を細かく分析することは重要である。しかし、筋肉や骨格を一つずつ調べるだけでは、目の前の人がどのように立ち、歩き、重力と関わっているのかを十分に理解できないことがある。
部分を知ることと、全体が見えることは、同じではないのである。
この本の限界と、今も残る問い
ここまで、ドレイファス兄弟の議論を紹介してきた。しかし、この本が1986年に出版されたことも忘れてはならない。それから人工知能は大きく発展した。では、2人の主張は、現在でもそのまま通用するのだろうか。
まず、チェスについての予測は外れた。ドレイファス兄弟は、計算を中心とする人工知能には、人間の熟達したチェスの指し手に並ぶことは難しいと考えていた。しかし、1997年、IBMのディープ・ブルー(Deep Blue)が世界王者ガルリ・カスパロフ(Garry Kasparov)に勝利した。現在では、チェスの人工知能は、人間の最高水準を大きく上回っている。
ただし、計算機が人間より強くチェスを指せることと、人間と同じように盤面を理解していることは、必ずしも同じではない。同じ結果に到達しても、その過程が同じとは限らないからである。
5段階モデルの根拠についても、慎重に考える必要がある。本では、パイロット、チェス、自動車の運転、第二言語の学習などをもとに共通する段階が示されている。しかし、どのような方法で観察し、何を基準に段階を分けたのかについては、十分に詳しく説明されていない。すべての技能習得に当てはまる科学的な法則として受け取ることは難しい。
私自身のロルフィングの経験に重ねてみても、5段階を順番に進んできたと断定できるわけではない。ある領域では自然にできることが、別の領域ではまだ意識的に考えなければできない。同じ人の中でも、技能によって熟達の程度は異なるのである。
さらに大きな問題は、直観がどのように生まれるのかということである。ドレイファス兄弟は、熟達者の直観を、過去に経験した状況との全体的な類似性を認識する能力として説明している。しかし、何千回もの経験が、どのようにして瞬間的な判断へと変わるのか。その仕組みまでは十分に説明されていない。
例えば、ロルフィングの経験を積むと、人の身体を見たときに、以前とは違うことが分かるようになる。しかし、その変化が脳や身体の中でどのように起きているのかを説明するには、現象学だけでは足りない。神経科学や認知科学の研究も必要になるだろう。
現在の人工知能との違いも重要である。ドレイファス兄弟が主に批判していたのは、人間の知識を明確な規則として表現し、それを計算機に実行させるという発想だった。一方、現在の生成AIは、大量のデータから言葉や画像などの複雑なパターンを学習している。1980年代の人工知能と、現在の人工知能を同じものとして扱うことはできない。
それでも、ドレイファスが提起した問題が消えたわけではない。計算機が人間と同じ課題を解けることと、人間と同じように世界を経験していることは、別の問題だからである。
人間の知性を考えるとき、身体を通して世界と関わる経験を、どこまで考慮する必要があるのか。この問いは、人工知能が発展した現在でも、考える価値があると思う。
まとめ
全3回にわたって、『純粋人工知能批判』を読んできた。
第1回では、人間が技能を身につける5つの段階を紹介した。第2回では、その考え方を11年間のロルフィングの学習経験に重ねた。そして今回、ドレイファス兄弟が、なぜ人間の技能習得を通して人工知能を批判しようとしたのかを振り返った。
この本を読んで、最も印象に残ったのは、上達とは、単に知識や技術が増えることではないという点だった。経験を積むにつれて、目の前の状況の見え方そのものが変わっていくのである。
ロルフィングを学び始めた頃、私は、解剖学や手技を覚えれば身体を理解できるようになると考えていた。もちろん、それらの知識は必要だった。しかし、11年間を振り返ると、最も大きく変わったのは知識の量だけではなかった。目の前の身体が、以前とは違って見えるようになったことである。
では、教えるという仕事は、何をすることなのだろうか。
規則を教えることは必要である。しかし、いつまでも規則に従わせることが目的ではない。最初は補助輪が必要になるが、いずれ補助輪を外さなければ、自分でバランスを取ることは学べない。そして、補助輪を外すタイミングを、あらかじめ規則として決めることは難しい。目の前の人が、何を感じ取り、何ができるようになっているのかを見なければならないからである。
私は、『在り方は、どこから来るのか──ボディワーカーのための現象学』の終わりに、「言っているだけでは変わらない」と書いた。今回も、同じところに戻ってきた。規則に頼らずに行動できると説明することと、実際にそうできることは違う。身体性について語ることと、身体を通して世界を経験することも違う。
分析することは必要である。しかし、分析だけでは届かないものがある。
ドレイファス兄弟が問いかけたのは、そのことだったのだと思う。
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