2026年11月3日、港区立産業振興センターで開かれた一日ワークショップ「身体で感じるヨガ哲学 〜哲学は、身体の体験をどう変えるのか〜」に参加した。講師は三浦敏郎さん、通称「としさん」。主催はTeachers(ティーチャーズ株式会社)。

テーマは、ヨガ哲学。ヴェーダーンタ(Vedānta)、サーンキャ(Sāṅkhya)、ヨーガ・スートラ(Yoga Sutras)、タントラ(Tantra)〜ハタヨガ(Hatha Yoga)等、多岐にわたる。
1つのヨガ哲学の思想を座学で学んだら、その世界観を持ったまま、アーサナや呼吸、瞑想の実践に入る。身体でどう感じるかを確かめ、ペアになり、シェア。次の思想に移る。1日かけて、それを思想ごとに繰り返していくというワークショップだった。
15年ぶりの、2回続けての参加
としさんのワークショップは、2026年8月16日以来の参加だった。その前は2011年5月7日なので、だいぶ時間が経ってからの2回連続の参加になる。
15年前に受けた時に比べ、いい意味で、としさんが変わっていない。そこに安心感があった。
としさんのヨガ・ワークショップの面白さは、一つ一つのアーサナ(ポーズ)・瞑想の言葉による誘導が巧みで、自分の内面に没頭できる。理由は、その後の懇親会でとしさんに伺った。
実際、実体験に裏付けられた言葉に注意を払い、クラス運営を行っているそうだ。知っていること、経験していることを言葉にしている点、としさんの指導には、すごく説得力がある。
私は、違う流派(アシュタンガ・ヴィンヤーサヨガ)ではあるけれど、同じヨガインストラクターとしても、言葉をどう選び、クラスを提供しているのか?、非常に学ぶことが大きかった。
ヨガ=智慧の伝統 ──「ダルシャナ」から始まる
最初に学んだ言葉は、ダルシャナだった。
ダルシャナ(darśana)とは、サンスクリット語で「物の見方」。インドのヨガ哲学は、西洋哲学とは違って、こう呼ばれている。余談として。としさんも、もともとヨガには哲学という言葉はなく、単純に西洋人が「哲学」を加えたのではないか、と私見を語っていたが、私もそうではないかと思っている。
その見方だと、ヴェーダーンタもサーンキャもタントラも、そのカテゴリに入っていると捉えることができる。
興味深いのは、
どれが正しくて、どれが間違いか。
そういう見方は、しないほうがいい。
必要だから、その見方をする。
という、一種の枠組み、概念、仮説という形でダルシャナを紹介したことだ。
要は、ダルシャナが変われば、起こすACTION(実践)が変わる。例えば、行法、修行法等の実践法。なるほど!納得!と、この日いちばん腑に落ちたところだった。
アーサナ、呼吸法、瞑想、マントラ、ヤマ・ニヤマ。実践そのものがクローズアップされすぎていて、「なぜそれをやっているのか」が抜けてしまう。「なぜ」にあたるのがダルシャナであり、それは自分の体験にもとづいて選び取られてきたものだ、という話だった。
実際に、図にすると下記のようになる。

現代ヨガは、「実践」に偏っているのではないか
この4つの並びを、もう一度見てほしい。

私がいちばん考えさせられたのは、3つ目の「直接体験(DIRECT EXPERIENCE)」だ。
現代のヨガは、実践に偏っているのではないか。そして、その先にある直接体験が、おろそかになっているのではないか。
アーサナはできるようになる。呼吸法も覚える。けれど、そこで自分に何が起きたのかは、通り過ぎてしまう。実践が智慧にならずに、実践のままで終わってしまう。
これは、ヨガだけの話ではないと思っている。
私はかねてから、直接体験を表現できないことが、科学の欠点だと感じていた。測れるもの、再現できるもの、三人称で書けるものだけが扱われて、「その人に何が起きていたか」は、すくい上げられずに残る。
実際、そのことを正面から扱った本も出ている。天体物理学者のアダム・フランク(Adam Frank)、理論物理学者のマルセロ・グライサー(Marcelo Gleiser)、哲学者のエヴァン・トンプソン(Evan Thompson)による『The Blind Spot: Why Science Cannot Ignore Human Experience』(未邦訳、MIT Press, 2024)だ。

ブラインド・スポットとは、目の盲点のことである。
網膜には、視神経が眼球から出ていく場所に、光を感じることのできない「盲点」がある。視覚を成立させるために不可欠な構造が、同時に、見ることのできない場所を生み出している。同じように科学にも盲点があり、そこに隠れているのが私たち自身の「直接体験」である、というのが3人の指摘だ。
Direct experience is bodily experience. “The body is the vehicle of being in the world,” says French philosopher Maurice Merleau-Ponty, but as we will see, firsthand bodily experience lies hidden in the Blind Spot.
直接体験とは、身体を通して生きられる経験である。フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、「身体は、私たちが世界の中に存在するための媒体である」と述べている。しかし、これから明らかにしていくように、私たち自身が身体を通して直接体験していることこそが、「盲点(Blind Spot)」の中に隠されているのである(拙訳)。
本のなかに、温度のたとえが出てくる。
温度を測るという営みは、もともと「熱い」「冷たい」という身体の感覚から始まった。やがて熱力学と統計力学によって精密に説明されるようになると、温度計の数値こそが「本当の温度」であり、身体の感覚は主観的なものにすぎない、と考えるようになる。しかし、そもそも温度を測ろうとしたのは、人間が身体を通して熱さや冷たさを感じていたからである。
科学的な説明が精密になるほど、その出発点である身体の経験が、かえって見えなくなってしまう。
これが、著者たちの指摘する「盲点」である。科学的な測定の価値を否定しているのではない。その知識を生み出し、理解しているのも、身体を通して世界を経験している人間であることを忘れてはならない、という指摘である。
この箇所を読んだとき、ヨガにも同じことが起こりうると思った。
アーサナの正しい形、呼吸の方法、哲学的な説明。本来それらは直接体験を深めるためのものだったはずである。ところが方法や体系そのものが目的になると、今、自分の身体で何が起きているのかが見えなくなる。
もっとも、直接体験を智慧につなげることは簡単ではない。自分が何かを感じたからといって、それが正しい理解につながるとは限らない。その体験をどう他人と共有し、確かめるのか。測れないものを無条件に知識として認めれば、何とでも言えてしまう危うさもある。
智慧は、哲学的な視点を学ぶだけでも、アーサナを繰り返すだけでも生まれない。実践の中で身体や心に何が起きているのかを感じ取り、その経験を哲学的な視点とも照らし合わせながら、理解を深めていく。
哲学的な視点、身体の実践、そして直接体験。この3つが互いに関係し合うところに、智慧が生まれる可能性がある。
としさんのワークショップが、思想ごとに講義と実践をセットにして繰り返していたのは、知識と身体の実践を切り離さず、その間に生まれる直接体験を大切にするためだったのだと思う。
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ヴェーダーンタ ──「これは私ではない」
今回のワークショップでは、「ヨガの源流となる主なインド思想」の年表をたどりながら進んだ。ヴェーダ聖典(BC1500年頃)からウパニシャッド、ヴェーダーンタへ。サーンキャ(BC1000〜500年)からヨーガスートラへ。初期タントラからタントラ(500〜800年)、そしてハタヨガ(1000〜1800年)へ。
まずヴェーダーンタ。非二元論(アドヴァイタ、non-dualism)とも呼ばれる。ブラフマン(梵天)は絶対的存在であり、永遠不滅の内面的調和。アートマンは真我。マーヤ(幻影)はアヴィディヤ(無知)の原因であり、苦の原因でもある。
実践法には、ヴィヴェーカ(識別、真実か否か)、ヴァイラーギャ(離欲、手放す)、オーム詠唱などがある。

としさんは、ヴェーダーンタを海と、そこから跳ねる水しぶき、という喩えで説明した。広々とした海がブラフマンで、水しぶきがアートマン。海から離れているように見えるけれど、自分は本来ブラフマンである、と。
そして実践へ。ヨガのいくつかのアーサナを取り、としさんのガイドとともに進む。途中、現れてくる「マーヤ」は「私ではない」とガイドがあった。
例えば、
身体が伸びている。つらい。痛い。
それは、私ではない。
と、そうすると不思議と手放せる。そして中心はどこか、一点はどこか?意識することで、最終的に、身体の軸が整っていく感覚があった。
サーンキャ ── 25は細かすぎる、だから5つの鞘
次にサーンキャ。二元論(dualism)とも呼ばれている。プルシャ(Puruṣa、純粋意識)とプラクリティ(Prakṛti、根源的物質)。そこからブッディ(Buddhi、覚)、アハンカーラ(Ahaṃkāra、自我)、マナス(Manas、意)、そして、五行為器官と五感覚器官、五微細元素、五大元素へと展開していく。
以下のような図のように、25のタットヴァ(Tattva、原理や構成要素と訳されることが多い)に分けることができる。

ここで興味深かったのは、2点。
- プルシャ(Pure Awareness)、プラクリティ(Creative Energy)と表現したこと
- マーヤの中に、何があるのか?細かく分けていった先に、25のタットヴァという地図を作ったこと
プルシャを Pure Awareness、プラクリティを Creative Energy と呼ぶとき、意識とエネルギーは、2つの別のものとして分けられている。サーンキャが二元論と呼ばれるゆえんである。

では、クリパル・ヨガはこの2つをどう見ているのか。『Kripalu Yoga: A Guide to Practice On and Off the Mat』(Richard Faulds著(邦訳:クリパルヨガ ~ヨガの実践と人生へのガイド~))に、こうある。
Spirit prana is the subtle energy that emanates from the soul to quicken the body and illumine the mind. Similar to the sun radiating light and heat, the indwelling spirit radiates spirit prana, which has the dual qualities of energy and awareness.
Richard Faulds『Kripalu Yoga: A Guide to Practice On and Off the Mat』
スピリット・プラーナとは、魂から発せられる微細なエネルギーであり、身体に生命を吹き込み、心に光をもたらすものである。太陽が光と熱を放つように、私たちの内に宿る霊もまた、スピリット・プラーナを放っている。それは、生命を動かすエネルギーと、物事に気づく意識という、二つの性質を併せ持っている(拙訳)。
ここで目を引くのは、エネルギーと気づきが、1つのものがもつ2つの性質として書かれていることだ。
サーンキャは、意識とエネルギーを2つに分ける。クリパルは、同じ対を、1つのものの2つの質として見ている。このあとに出てくるタントラの一元論は、こちらの側に立っているように読める。
プラーナという言葉そのものの意味と、エネルギーとの関係については、後半でもう一度扱いたい。
「25は細かすぎる」という観点から、
- 五臓説(鞘=コーシャ)という、5つに畳んだ地図がある。アンナマヤ(食物鞘)、プラーナマヤ(生気鞘)、マノーマヤ(意思鞘)、ジュニャーナマヤ(理知鞘)、アーナンダマヤ(歓喜/至福鞘)。
- シャリーラ(ストゥーラ=粗大身(Gross Body)、スークシュマ=微細身(Subtle Body)、カラーナ=原因体(Causal Body))
- グナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)。
という3つの分類・見方が出てきたこともシェアされた。

このうちグナは、プラクリティがもつ3つの性質である。
サットヴァ(純質)は、澄んでいて軽い質。ラジャス(激質)は、動きと熱の質。タマス(鈍質)は、重く、とどまる質。
そして実践は、タマスからラジャスへ、ラジャスからサットヴァへと向かう。パタンジャリがサットヴァを目指すのは、サットヴァがプルシャにいちばん近いからだ、という説明だった。
この並びが、次のヨーガ・スートラの節に、そのままつながっていく。
ここでクリパル・ヨガらしいと感じたのは、アハンカーラ、つまり自我を、self sense、small self、ego として捉え、それをwitness する、observe する、awareness を向ける、という進め方だった。一気にブラフマンに行くのではなく、ステップを刻んでいく道である。
ヨーガ・スートラ ── ラジャスから、サットヴァへ
紀元前250年、著者パタンジャリ。六派哲学の一つとして体系化されたのが『ヨーガ・スートラ』、サーンキャ、仏教、ジャイナ教、有神論など多くの影響を受けている。定義は「心の鎮静」。
ただ、この日は経典そのものの説明に、あまり時間は割かれなかった。問いは、ずっと1つだったと思う。ラジャスから、サットヴァへ。どうやって行くのか、だ。
Mindは、ラジャスである。放っておけば、動く。だから「心を静める」という定義は、裏返せば、この激しさをどう収めるかという問いになる。
ヨガ・スートラには8支則がある。
ヤーマ(禁戒)、ニヤーマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、プラーナヤーマ(呼吸法)、プラティヤハーラ(制感)、ダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(悟り)が下から積み上がっていた。
その横に、タマス(鈍質)→ ラジャス(激質)→ サットヴァ(純質)を並べることができる。

8つの段階は、そのままグナを上がっていく梯子になっている。実践法は、物質から精神へ。タマス、ラジャスから、サットヴァへ至ること。
そして瞑想は、心を一点に集中させるダーラナから始まる。集中するとは、全てを手放すこと。一点に集めるというのは、足していくことではなく、引いていくことだった。
タントラ ── 光も影も含めて、すべてを受け入れる
次に取り上げられたのが、タントラ(密教)の思想である。ワークショップでは、ヴェーダーンタとの違いを通して、その特徴が説明された。
ヴェーダーンタでは、現象世界を究極的な実在 ── 見かけではなく、本当にあるもの ── とは捉えず、ブラフマンという根源的な実在を重視する。一方、非二元論的なタントラでは、現象世界も神聖な意識の表現として捉える。シヴァ(意識)とシャクティ(エネルギー)は、その一つの実在の異なる側面である。感情や欲望についても、単に否定するのではなく、変容の可能性を持つものとして受け入れる。
懇親会では、Georg Feuersteinの「垂直志向/水平志向」、Swami Kripaluの「チッタの道/プラーナの道」という分類も紹介された。前者は、現象を超えた実在を目指す方向と、現象の中に神聖さを見いだす方向、後者は、心の働きを整える道と、生命エネルギーを通して変容する道という違いがあるという。
印象的なのは、タントラが「光」だけでなく「影」も受け入れようとする点である。喜びや愛情だけでなく、怒り、恐れ、悲しみ、欲望も人間の経験の一部であり、最初から排除する必要はない。しかし、すべてを受け入れることと、すべてに無条件に従うことは違う。 特にトラウマに関わる感情や身体感覚に向き合う際には、そこに飲み込まれない慎重さが必要になる。
ここから、心(Mind)の働きについての話につながった。私たちは、現実(Reality)をそのまま見るのではなく、頭の中で勝手にストーリーをつくり上げてしまう。ストーリーは言葉(ロゴス)の世界に属し、同じ出来事についても、さまざまな解釈が生まれる。
しかし、そのストーリーの背後には、身体を通して感じられるエネルギーがある。 大切なのは、ストーリーを追いかけ続けるのではなく、その背後にある身体の感覚に目を向けることだという。
混乱したエネルギー(ラジャス)が、より純粋なエネルギーへと変わっていく。この過程が「transformation(変容)」として説明された。そこにはブッディ(識別する知性)や、自分の経験を見つめる目撃意識が関わってくる。自分の内側で何が起きているのかに気づき、向き合うことが重要なのである。
タントラでは、「プラーナは悪くない」と考える。感情も欲望も混乱も、最初から否定すべきものではない。それらを排除するのではなく、変容の可能性として受け入れる。 これが、タントラの全面的な肯定という考え方なのだと思う。
懇親会では、ソマティック・エクスペリエンシング(SE)との共通点も話題になった。SEでは、トラウマに関するストーリーだけを追うのではなく、身体に生じる感覚や変化にも注意を向ける。トラウマの渦(Vortex)に巻き込まれないよう、自分の中にあるリソース(安心感や安定を支える資源)を活用しながら、少しずつ身体の反応に働きかけていく。
ストーリーの背後にある身体の感覚に目を向け、そこから変化を促していく。タントラとSEは、理論的な背景こそ異なるものの、身体の直接体験を重視する点で共通している。 懇親会で話しながら、そのことに気づいた。
ワークショップで「覚悟をもって」という話が出たのも、タントラの全面的な肯定が、単に何でも受け入れればよいという安易な姿勢ではないからだと思う。光も影も含めて自分自身に向き合う。その可能性と難しさの両方を引き受けることが、タントラの重要な特徴なのだと感じた。
余談になるが、私が実践しているロルフィングというボディワークにも、身体を通した変容という点で、タントラと通じるところがある。ロルフィングのセッションを通して、どのように変容が起こるのかについては、別の記事で詳しく紹介しているので、ご興味のある方は、ぜひご覧いただきたい。
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それぞれの限界は、相手の側から見える
ヴェーダーンタとタントラを比較すると、片方の強みは、もう片方から見るとそのまま限界になっている。
ヴェーダーンタの瞑想のスタンスは、思考と感覚を沈めて「何もない純粋意識」へ向かうこと。アーサナの最中に「これは私ではない」と声をかけるのも、その方向だ。
タントラの側から見れば、これは身体の感覚を通り過ぎていく道でもある。つらい、痛いを「私ではない」と見るのは、手放しであると同時に、身体が出している信号から離れることでもありうる。ボディワークの仕事をしていると、そこはどうしても気になる。
タントラは、感覚とエネルギーのただなかに意識の本質を感じ取ろうとする。身体から離れない。対照的に、ヴェーダーンタの側から見れば、現象そのものに巻き込まれる危うさを抱えている。光と影の両方を見るからこそトラウマに引きずられることもある、という当日の話は、この危うさを指していたのだと思う。
どちらにも、向いている場所と、向いていない場所がある。だから「どれが正しいか」ではなく、「必要だから、その見方をする」なのだろう。
そしてこの2つの道は、直接体験の扱いでちょうど分かれている。沈めて通り過ぎるのか、そのただなかに留まるのか。
セツバンダーサナを10分ホールドする ── Edgeは、時間とともにゆるむ
クリパルでは、ハタ・ヨーガを「タントラ・ハタ・ヨーガ」と呼ぶそうだ。ここからプラーナを使いはじめ、エネルギーを変革していく。
タントラは、日本では密教と呼ばれる系譜につながっている。資料にあったタントラ思想の特徴にも、「儀式:内面的変容を促す」「エネルギーと気づきの融合」「原始的エネルギーに溶解すること」「意識の覚醒」と並んでいた。
つまり、まずエネルギーを高める。高めたうえで、それを変容させていく。
実践として、セツバンダーサナ(橋のポーズ)を10分ホールドし、その途中で呼吸法の一つカパラバティを入れる、ということをした。
ラジャス、つまり混乱するエネルギーが、サットヴァ、つまりPureなエネルギーに変わっていく。それが、transformation。エネルギーがありすぎると、かえって波に乗りやすい。
大事なのは、まず土台が安定していること。そのうえで、エッジにふれること。
ふれるのであって、越えるのではない。ぎりぎりまでやることが、かえってよくない。無理をしすぎないこと。
そして、Edgeは、時間の経過とともにゆるんでいく。8月のワークショップでも出てきたEdgeという言葉が、ここでは10分という長さのなかで、直接体験という形で、自分のなかで腑に落ちた感覚だった。
ヨガ哲学のエンターテインメント ── 地図をもらって、観察する
主催の中場牧子さんは、この日のことを「ヨガ哲学のエンターテインメント」とおっしゃっていた。
1日を終えて私の手元に残ったのは、新鮮な基準が1つ足された、という感覚だった。観察するモノサシ、と言ってもいいかもしれない。
全部をオールOKとするのは難しい。けれど、その見方も入れておこう。
地図をもらって、そこから観察する。その見方が、よかった。
そして同じ体験でも、その日のコンディションによってまちまちである、ということも。
UTLで学んだ哲学は、「Who am I?」から始まった
今回学んだヨガ哲学は、UTL(アンダーザライトヨガスクール)で学んだ哲学とは一味違ったものだった。改めて、ヨガ哲学について知りたくなった。
では、何が違ったのか。それを確かめるために、RYT200を受けていた頃のノートを引っ張り出してみた。2012年から2013年にかけてのものだ。
UTLでヨガ哲学を教えてくださったのは、ムニンドラ・K・パンダ(Munindra K. Panda)先生。インドのBerhampur大学でインド哲学を専攻され、サンスクリット語、インド哲学、ヴェーダ文献の研究に携わってこられた方だった。
その講義は、いきなりこの問いから始まっていた。
Problems ── Sufferings/Sorrow/Fear
[自分のことがわかっていないことから発生してくる問題]Who am I? Where I came from? Why I came here?
→ 自分自身を理解するために発する質問 = India Meditation
良い Question を出せば 良い Meditation に…
苦しみも、悲しみも、恐れも、自分が何者かを分かっていないところから出てくる。だから「私は誰か」を問う。その問いの立て方が良ければ、瞑想も良いものになる。
そこから答えは、自分は魂であり、身体はその家であり乗り物である、という方向に展開していく。身体は粗大な体(Gross body)と微細な体(Subtle body)に分けられ、地・水・火・風・空という5つの元素の話になる。
読み返してみて、違いがどこにあったのかが、少し見えた気がした。UTLで教わったのは、「私は誰か」という1本の問いから、魂、身体、元素へと降りていく、1つの体系。対して今回のワークショップは、複数の世界観を横に並べて地図にし、それぞれの見方で身体の体験がどう変わるかを確かめるという組み立てだった。
どちらが良い、という話ではない。ただ、14年前のノートにあった5つの元素と、今回のサーンキャの五大元素が同じものを指していて、それが今になってつながったのは、思いがけない体験だった。
プラーナ ──『Kripalu Yoga』を手がかりに
UTLのノートでは、5つの元素のうちAIRのところに「呼吸/PRANA/POWER」とあり、その下に「PRANAYAMA が yoga の入り口」と書いてあった。そして今回の比較表では、タントラが「プラーナの道」と分類されていた。両方に出てくるこの言葉を、『Kripalu Yoga: A Guide to Practice On and Off the Mat』(Richard Faulds著)で確かめてみた。
まず、言葉の意味から。
The Sanskrit word prana means primary energy even though it is most often translated as life force or simply breath. Although intimately tied to the flow of breath, prana is not air or oxygen. Prana is the source energy that fuels the biological, emotional, and mental faculties. Just as electricity can be used to generate heat, light, and sound, prana enables you to see, hear, feel, taste, and think.
Richard Faulds『Kripalu Yoga: A Guide to Practice On and Off the Mat』
サンスクリット語のプラーナ(prana)は、「生命力(life force)」あるいは単に「呼吸(breath)」と訳されることが多いが、本来は「根源的なエネルギー(primary energy)」を意味する。呼吸の流れと密接に結びついてはいるが、プラーナは空気でも酸素でもない。プラーナとは、生物的・情動的・精神的な働きを支える源のエネルギーである。電気が熱や光や音を生み出すのに使われるように、プラーナは、見る、聞く、感じる、味わう、考えるということを可能にしている(拙訳)。
ここで目が止まった。プラーナは、空気でも酸素でもない(not air or oxygen)。UTLのノートでは、風の元素(AIR)と呼吸(breath)とプラーナが、一続きのものとして並んでいた。けれどこの本は、呼吸の流れと深く結びついていることを認めたうえで、そこに線を引いている。
そして実はこの日、プラーナとエネルギー(energy)の関係をめぐって、会場でも議論があった。本は、そこにもはっきり線を引いている。
We are used to thinking of energy as an inanimate and neutral force, but prana is intelligent and evolutionary.
Richard Faulds『Kripalu Yoga: A Guide to Practice On and Off the Mat』
私たちはエネルギーを、生命をもたない中立的な力として考えることに慣れている。しかしプラーナは、知性をもち、進化に向かうものである(拙訳)。
物理のエネルギーは中立(inanimate and neutral)で、そこに向かう先はない。プラーナはそうではなく、知性をもち(intelligent)、進化に向かう(evolutionary)ものだ、と本は言う。
本には「Does Prana Exist?(プラーナは存在するのか)」という節もある。ニュートン以来、多くの科学者が生命力(life force)を突き止めようとして、成功していない。ヨガや鍼のように療法としての効果が検証されているものはあるが、その生命力が何であるか、そもそも存在するのかについて、科学的な証明はまだない。そこで本は、対立する2つの声を並べている。
1つは、ハワイ大学の物理学・天文学名誉教授、ヴィクター・J・ステンガー(Victor J. Stenger)。
Belief in the existence of a living force is primeval.… Despite complete scientific rejection, the concept of a special biological field within living things remains deeply engraved in human thinking.… This delusion has become so ubiquitous that it is appearing in books and journals that claim to practice scientific standards.
Victor J. Stenger(『Kripalu Yoga』より)
生命力が存在するという信念は、太古からのものである。……科学が完全に退けたにもかかわらず、生き物の内に特別な生物学的な場があるという考えは、人間の思考に深く刻まれたままである。……この妄想(delusion)はあまりに広く行き渡っていて、科学的な基準に従っていると称する書物や学術誌にまで現れている(拙訳)。
もう1つは、医師のアンドルー・ワイル(Andrew Weil)。『Spontaneous Healing』から。
The energy that you feel in your body after [breathing exercises] is the energy that Chinese doctors call chi, their term for universal life energy. Most people experience it as warmth or tingling or subtle vibration.
Andrew Weil『Spontaneous Healing』(『Kripalu Yoga』より)
[呼吸法の]あとにあなたが身体で感じるエネルギーは、中国の医師たちが「気(chi)」と呼ぶもの、すなわち普遍的な生命エネルギーを指す言葉である。多くの人は、それを温かさ、うずき、あるいは微細な振動として経験する(拙訳)。
片方は、科学が完全に退けた「妄想(delusion)」だと言う。もう片方は、呼吸法のあとに身体で感じる温かさ、うずき、微細な振動(warmth or tingling or subtle vibration)を挙げる。
ここで争われているのは、直接体験(direct experience)をどう扱うかである。温かさも、うずきも、たしかにそこにある。けれどそれは、測れるもの、再現できるものの枠には、うまく収まらない。前半に書いたブラインド・スポット(Blind Spot)が、そのままここに顔を出している。
この本はまた、プラーナを2つの層に分けている。魂から放たれて身体を目覚めさせるspirit pranaと、呼吸する空気、食べ物、水、肌に当たる日光から取り込まれるbiological pranaである。
そしてもう1つ、見落としていたことがあった。プラーナが心(mind)のレベルで働くとき、ヨガはそれをチッタ(chitta)と呼び分ける、と本にはあった。資料で、ヴェーダーンタが「チッタの道」、タントラが「プラーナの道」と分類されていた、あの一行。あれは、同じものが心のレベルで働くか、身体のレベルで働くか、という分け方だったのではないか。そう読めた。
微細な体(subtle body)を走るプラーナの通り道が、ナーディ(nadi)である。主要な3本は、スシュムナー(sushumna、中央の管)、ピンガラー(pingala、太陽の道)、イダー(ida、月の道)。そのうち太陽の道(the solar pathway)は交感神経(sympathetic)に、月の道(the lunar pathway)は副交感神経(parasympathetic)に対応する、とも書かれていた。左右の鼻を交互に使うナディ・ショーダナ(nadi shodhana)は、自律神経の2つの枝のバランスを整えることになる。
そして、この本の日本語版は2011年に出ていて、監修はとしさんである。
あの日、会場で聞いていた言葉の背景に、この本があったのだと、あとから気づいた。
ベジカレーを囲んで
懇親会の時も、主催者によるお食事(ベジカレー)の提供とともに、参加者とともに学んだ内容をさらに深める機会があった。学びが深まった感じがした。
まとめ ── 見方が変わると、体験が変わる
ダルシャナは、物の見方。見方が変わると、起こす行動が変わる。そして、行動が変わると、体験も変わっていく。

この並びの、3つ目の直接体験を空けないこと。1日を通して確かめたのは、そういうことだったのだと思う。
哲学という難解な内容を、わかりやすくお伝えいただいたとしさん。このような貴重な機会を与えていただいた中場牧子さん、山田直さんをはじめ、参加者の皆さんに感謝しています。
