人工知能から問い直す、身体性と上達──ドレイファス『純粋人工知能批判』を読む(第2回|全3回)

はじめに
今回のシリーズでは、ヒューバート・ドレイファス(Hubert Dreyfus)とスチュアート・ドレイファス(Stuart Dreyfus)の『純粋人工知能批判』(原題 Mind over Machine、1986年。椋田直子訳、アスキー、1987年)について紹介している。

第1回の記事では、この本の第1章で紹介されている、人間が技能を身につけていく5つの段階についてまとめた。
初心者(novice)、上級初心者(advanced beginner)、一人前(competent)、熟練者(proficient)、達人(expert)の5つだ。
最初は、教わった規則に従って行動する。経験を積むと、それまで気づかなかった違いが分かるようになる。さらに上達すると、状況全体を捉え、何をすべきかが自然に分かるようになる。
上達とは、単に知識や技術が増えることではない。目の前の状況の見え方そのものが変わっていくことでもある。
今回は、この考え方を、自分自身がロルフィングを学んできた経験に重ねてみたい。
2014年に基礎トレーニングを始め、2025年にアドバンスト・トレーニングを修了するまで、11年かかった。
その間、さまざまな教師から学び、何度も同じ指摘を受け、理解するまでに何年もかかった理論もあった。今になって振り返ると、その過程には、ドレイファス兄弟の5段階の考え方と重なるところが多い。
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学ぶ側から見ると
最初は、何が正しいかを教わる
2014年8月、ミュンヘンでロルフィングの基礎トレーニングを始めた。
最初のPhase Iは3週間。学ぶのは、ムーブメント、解剖学、タッチの3科目である。この段階では、まだ施術の手技は習わない。
毎週、担当教師が評価用紙を書き、各項目を5段階で採点する。
例えば、骨の位置を正確に見つけられるか。触診は確かか。左右の手の役割を変えられるか。筋膜を三次元の網として扱えるか。いずれも、施術者として必要な基本的な能力である。ただし、この段階では、目の前にいるクライアントが誰なのか、何を必要としているのかとは、まだ切り離されている。
ドレイファス兄弟が初心者の段階で説明していた「文脈のない要素」に近い。
初心者は、まだ状況全体を理解できない。だから、まずは具体的な課題を与えられ、何ができていて、何ができていないのかを教わる必要がある。私自身、解剖学の筆記試験で、その難しさを経験した。前半の試験は、51点満点中25点だった。
出願の際には、博士号を持っており、解剖学や生理学の基礎知識があることを伝えて、受講を認めてもらっていた。しかし、研究者として知っている解剖学と、実際に身体に触れるために必要な解剖学は、別のものだった。知識として筋肉や骨の名前を知っていても、目の前の身体で、それを正確に見つけられるとは限らない。
知っていることと、できることは違う。トレーニングが始まってすぐ、その違いを思い知らされたのである。
体験しているのか、遂行しているのか
Phase Iの3週間が終わると、3人の教師から評価を受けた。興味深いことに、3人は違う言葉を使いながら、ほぼ同じことを指摘していた。
Rita Geirola先生は、私が探究の対象を実際に体験しているのか、それとも課題として遂行しているのか、見分けにくいことがあったと書いていた。
Giovanni Felicioni先生は、自分自身の体験を信頼し、自分に留まり続けることの大切さを指摘した。
当時の私は、与えられた課題を正しく実行することに意識が向いていたのだと思う。教師から説明されたことを理解し、そのとおりに行う。間違えないように注意する。しかし、それでは、自分自身の身体で何が起きているのかを十分に感じ取れないことがある。
例えば、「肩の力を抜いてください」と言われたとする。
その指示に従おうとして、肩を下げることはできるかもしれない。しかし、肩の力が自然に抜けるという体験と、肩を下げるという動作を正しく遂行することは、同じではない。ドレイファス兄弟が紹介していた、マニュアル車の運転の例を思い出す。
自然にギアを変えられていた人が、正しい変速の手順を考え始めた途端に、動きがぎこちなくなる。私も、正しく行おうとすることに意識が向きすぎて、自分自身の体験から離れていたのかもしれない。
同じ指摘は、半年後のPhase IIIの中間面談でも繰り返された。問題は、技術が足りないということだけではなかった。施術者が、自分自身の身体とどのように関わっているか。最初の3週間に指摘されたことが、半年後にも課題として残っていたのである。
見えるものが多すぎて、選べない
Phase IIでは、ロルフィングの10回シリーズを学ぶ。身体のどこを観察するのか。どのように触れるのか。何を変化の手がかりにするのか。学ぶことが一気に増えた。
当時の記録を読み返すと、身体を観察しても、情報が多すぎて、何を見ればよいのか分からないと書いている。最初は、何も見えない。ところが、少し経験を積むと、今度は見えるものが増えすぎてしまう。
これは、ドレイファス兄弟が説明する「一人前」の段階とよく似ている。初心者は、規則に従って行動する。しかし、経験を積むと、考慮すべきことが多くなり、規則だけでは判断できなくなる。
例えば、身体を観察するとき、骨盤の傾き、足の向き、背骨の動き、呼吸、左右の違いなど、さまざまなことが目に入る。では、その中で何を優先すればよいのだろうか。すべてを同時に扱うことはできない。
Phase IIIでは、実際のクライアントを担当するようになった。そこで教わったのは、学んできた知識をどのように整理し、優先順位をつけるかという考え方だった。
同時に、繰り返し伝えられた言葉がある。Less is More(少ないことは、より豊かなこと)。何をするかだけでなく、何をしないかを考える。身体のすべてを変えようとするのではなく、今、この人にとって何が重要なのかを選ぶのである。
ここで必要になるのは、単に手技を正しく行う能力ではない。目の前の人を観察し、自分で判断し、その判断に責任を持つことである。
ロルフ・ムーブメントのトレーニングでも、同じことを教わった。手順が決められていないということは、何をしてもよいという意味ではない。むしろ、自分の判断が問われるということである。自由度が高くなるほど、セッションがどこへ向かい、いつ終わるのか分からなくなることもあった。
しかし、その不安も含めて、自分で判断することを学んでいたのだと思う。
完璧にやろうとすることを手放した
Phase IIIで、1つの転換点があった。
2週目のことである。その前に南米でひいた風邪が、1か月半ほど治らなかった。体調が万全ではないまま、トレーニングに参加していた。ようやく回復し始めた頃、無理ができないこともあって、完璧にやろうとすることを手放した。それまでは、身体観察に時間をかけ、何をすべきかを慎重に考えていた。
しかし、このときから、観察を短時間で切り上げ、自分の手の感覚を信じて進めるようになった。すると、不思議なことに、以前よりも自然にセッションを進められるようになった。
観察することをやめたわけではない。むしろ、必要なことを見極めようとして、あれこれ考え続ける時間が減ったのである。ドレイファス兄弟の言葉を借りれば、状況を分析してから行動することと、状況を感じ取りながら行動することの違いを、少し体験したのかもしれない。
きっかけが体調不良だったというのは、今になって考えると可笑しい。同じPhase IIIで、Jeff MaitlandがIda Rolfの教えを理論化した「Saturation Method(飽和法)」についての論文が配られた。
そこでは、概念を持っていなければ、目の前にあっても見えないこと、そして、部分をいくら足し合わせても全体にはならないことが論じられていた。
ドレイファス兄弟が説明している熟達も、これと重なる。熟達者は、身体の各部分を分析し、その結果を組み合わせて全体を理解しているわけではない。経験を通して、状況全体が意味を持って見えるようになるのである。
別の場所で学んだことが、同じ問題につながっていた。
教える側が、手順を示さない
11年間のトレーニングを振り返って、改めて気づくことがある。それは、学ぶ段階が進むにつれて、教師が答えや手順を示さなくなっていったことである。
そもそも、ロルフィングのトレーニングには、決まった教科書がなかった。教師が説明し、実演する。生徒が実際にやってみる。そして、教師がその場で助言する。
学ぶのは、知識や手技だけではない。目の前の身体をどう見るか、どう感じ取るかということでもあった。
スーパービジョンのワークショップでは、Pierpaola Volpones先生が、TeachとEducateの違いを説明した。Teachは、手順を一つずつ教え、覚えさせること。Educateは、生徒が持っている可能性を引き出し、自分自身で考えられるようにすること。
先生は、Educateという言葉の語源には「引き出す」という意味がある、と説明していた。
この違いは、ロルフ・ムーブメントのトレーニングで、さらに明確になった。
例えば、3回シリーズをどのように設計するかについて、決まった手順は示されない。Part 3の前半では、クラスを作るための6つの問いが示された。後半では、9つのポイントと5つの考慮点が紹介された。しかし、どのように教えるべきかという答えは、与えられなかった。
2025年のアドバンスト・トレーニングでも、Jeff Maitlandの3つの問いが紹介された。
- どこから始めるか。
- 次に何をするか。
- いつ終わりと判断するか。
一見すると、単純な問いである。しかし、実際にセッションをしてみると、この3つに答えることが、いかに難しいかが分かる。目の前のクライアントは、一人ひとり違う。同じ手順を当てはめても、同じ結果になるとは限らない。
だからこそ、決まった答えを覚えるのではなく、自分で観察し、判断することが求められるのである。
ロルフィングの教育の歴史にも、同じ方向性を見ることができる。
1989年に組織が分かれた後、伝統的な手順を重視する考え方と、決まった手順にとらわれない「non-formulaic」という考え方の違いが、より明確になっていった。基礎トレーニングでは、10回シリーズという共通の枠組みを学ぶ。
一方、アドバンストでは、その人の身体の独自性を尊重し、必要に応じてセッションを組み立てていく。つまり、上達とは、より複雑な手順を覚えることではなかった。
手順を学んだうえで、手順だけでは対応できない状況に向き合えるようになることだった。
4人目の教師で、ようやく理解できた
もう1つ、忘れられない経験がある。
Hubert Godardの理論を理解するまでに、4年ほどかかったことである。Godardは、身体の動きや姿勢を、筋肉や骨格だけでなく、知覚や空間との関係から捉えようとした研究者である。
その理論に初めて触れたのは、2014年だった。Giovanni先生が説明してくれたが、当時はほとんど理解できなかった。2016年には、パリでGodard本人からメンタリングを受けた。2017年には、Gael Rosewood先生から、具体的な事例を通して学んだ。
そして2018年、Aline Newton先生が、Godardの理論を5つの因子に整理して説明してくれたとき、ようやく自分の中でつながり始めた。
同じ理論を、4人の教師から学んだことになる。なぜ、最初の3回では理解できなかったのだろうか。今になって考えると、教師の説明が足りなかったのではないと思う。自分の中に、その説明と結びつく経験が十分になかったのである。
例えば、料理をしたことがない人に、火加減の微妙な違いを言葉で説明しても、理解するのは難しい。しかし、何度も料理をして、焦がしたり、うまく仕上がったりする経験を積むと、同じ説明が突然意味を持ち始めることがある。
説明の内容が変わったのではない。説明を受け取る側の経験が変わったのである。ドレイファス兄弟が、上級初心者の段階で説明していたことと重なる。
経験を積むことで、言葉では定義しにくい違いが分かるようになる。すると、それまで理解できなかった説明も、具体的な意味を持ち始める。
ロルフ・ムーブメントの認定を受けた日の面談では、3人の教師がそろって、学んだことを自分の中で消化するには時間がかかる、と話していた。
3人とも、Godardから直接学んだ教師である。当時は、30日間のトレーニングを、2年5か月かけて受講していた。Part 1のとき、Giovanni先生からGuy Claxtonの『Hare Brain, Tortoise Mind』を勧められたことも思い出す。
この本は、素早く判断しようとする心と、時間をかけて理解が形になるのを待つ心を対比している。何かを理解するには、すぐに答えを出そうとするだけでは足りない。経験が積み重なり、時間をかけて形になっていくこともある。
Godardの理論を理解するまでに4年かかったことは、まさにその経験だった。
見ることは、学ばれる
ロルフ・ムーブメントのPart 3で、Rita先生が興味深いことを話していた。
人間は、教育や経験を通して「見ること」を学ぶ、というのである。私たちには、内耳から得られる平衡感覚や、筋肉や関節から得られる身体の位置・動きの感覚が備わっている。
しかし、その感覚をどう使い、何に注意を向けるかは、経験によって変わっていく。例えば、初めて人の歩き方を観察したとき、私には何を見ればよいのか分からなかった。足の動き、骨盤の傾き、腕の振り方、呼吸。見ようと思えば、いくらでも見るところがある。
ところが、経験を積むにつれて、ある人の歩き方を見たときに、以前とは違うことが分かるようになった。身体の各部分を細かく調べる前に、動き全体の特徴が目に入るようになったのである。
ドレイファス兄弟が5段階で説明していたのも、この変化だった。
上達するにつれて、何が重要なのかが自然に分かるようになる。だからこそ、ロルフィングのトレーニングでは、観察に多くの時間が使われていたのだと思う。Phase IIIでは、自分が施術する機会が20回ある一方で、他の生徒や教師のセッションを観察する機会が40回あった。
Volpones先生によれば、1980年代のミュンヘンのトレーニングでは、9週間にわたって観察だけを行い、その間は施術をしなかったという。手技を覚えることだけが、トレーニングの目的ではなかった。
身体をどう見るか。その見方を育てること自体が、学習だったのである。
教える側に残る問題
ここまで、自分が学んできた経験を振り返った。では、教える側に立ったとき、何が求められるのだろうか。
『純粋人工知能批判』には、心肺蘇生法(CPR)についての興味深い実験が紹介されている。6人が心肺蘇生を行う様子を録画する。5人は学生で、1人は経験を積んだ救急救命士である。
その映像を、学生、救急救命士、CPRの指導者に見せる。そして、自分の命がかかっているとしたら、誰に蘇生してほしいかを選んでもらう。
すると、救急救命士は、10人中9人が経験者を選んだ。学生は10回中5回。ところが、CPRの指導者は、10回中3回しか経験者を選べなかった。
なぜ、このような結果になったのだろうか。
ドレイファス兄弟の解釈では、指導者は、自分が教えている規則に忠実な人を探していた。一方、経験を積んだ救急救命士は、状況に応じて自然に動いていた。その動きは、必ずしも教科書の手順どおりには見えなかったのである。
この実験は、教えることについて重要な問題を投げかけている。
初心者にとって、正しい手順を教えてもらうことは必要である。しかし、手順を正しく説明できることと、実際に上手にできることは、同じではない。そして、手順を教えることが得意だからといって、熟達した人の行動を正しく評価できるとは限らない。
ドレイファス兄弟は、初心者から一人前までの段階では、事実や手順を教えることが役立つと考えている。しかし、その先へ進むためには、教える側自身が、規則だけでは捉えられない経験を持っている必要がある。
ロルフィングのトレーニングで、教師たちが繰り返し私に問いかけたのも、そこだったのかもしれない。何を知っているかだけではない。今、何を見ているのか。何を感じ取っているのか。そして、なぜそのように行動するのか。
答えを教えることよりも、自分で感じ取り、判断できるようになることが重視されていたのである。
受ける側から見ると
ここまでは、私自身がロルフィングを学んできた過程について書いた。
では、ロルフィングを受ける側にも、似たような変化が起きているのだろうか。
ロルフィングの10回シリーズは、一般に、表層(第1〜3回)、深層(第4〜7回)、統合(第8〜10回)という3つのフェーズで進められる。
身体の構造に働きかけながら、呼吸や動き、重力との関係を見直していく。ここで断っておきたいのは、これから書くことは、ドレイファス兄弟が本の中で説明していることではない、という点である。
私自身の臨床経験を、5段階モデルに照らして考えたものである。
正しい姿勢を守ろうとする
初めてロルフィングを受けに来る方の多くは、姿勢について、何らかの規則を持っている。背筋を伸ばす。肩を下げる。お腹に力を入れる。どれも、一般によく知られている姿勢の整え方である。
しかし、実際にやってみると、意識している間しか続かないことが多い。
例えば、背筋を伸ばそうとして胸を張る。しばらくはよい姿勢を保てるが、別のことに注意が向くと、元に戻ってしまう。
なぜだろうか。
それは、姿勢を保つために、意識的に規則を使い続けているからかもしれない。ドレイファス兄弟の初心者の段階と、形が似ている。教わった規則に従えば、一定の形は作れる。しかし、その規則が、自分の身体の感覚と結びついているとは限らない。
ロルフィングの目的は、この規則を、別の正しい規則に置き換えることではない。むしろ、身体の中で何が起きているのかを、自分で感じ取れるようになることが重要だと考えている。
今まで分からなかった違いに気づく
10回シリーズの最初の3回では、呼吸、足元、身体の側面などに働きかける。
例えば、セッションの前後で立ってもらうと、右足と左足で地面の感じ方が違うことに気づく方がいる。あるいは、呼吸が以前よりも楽になったと感じる方もいる。
それまで、左右の足の感覚が違うことなど、考えたこともなかったかもしれない。しかし、一度その違いを感じると、自分の身体に対する見方が変わり始める。ここで起きているのは、正しい姿勢を覚えることではない。
今まで意識していなかった違いが、感じ取れるようになることである。
ドレイファス兄弟が、上級初心者の段階で説明していたことと似ている。経験を積むことで、言葉では明確に定義できない特徴が分かるようになる。身体の感覚についても、同じようなことが起きるのではないだろうか。
感じ取れることが増える
深層の4回では、骨盤、脚、体幹など、身体のより深い部分へと働きかけていく。すると、それまで気づかなかった身体のつながりを感じ取れるようになることがある。
例えば、足の置き方が変わると、骨盤の動きが変わる。骨盤の動きが変わると、呼吸の感じ方も変わる。最初は、肩が凝っている、腰が痛い、といった部分的な感覚だけだったものが、身体全体のつながりとして感じられるようになることがある。
一方で、感じ取れることが増えるほど、どうすればよいのか分からなくなる場合もある。「こういうときには、どのように動けばよいのでしょうか」そのような質問を受けることもある。
これは、ドレイファス兄弟の一人前の段階で説明されていた問題と似ている。見えるものが増えたからこそ、何を重視するかを考える必要が生まれるのである。
ただし、ロルフィングを受ける人が、5段階を順番に進むという意味ではない。ここで比べているのは、技能の優劣ではなく、自分の身体の何に気づき、どのように関わるかという変化である。
意識しなくても動けるようになる
最後の3回は、統合のフェーズである。それまでに得た身体の感覚を、歩く、立つ、座るといった日常の動きになじませていく。
例えば、セッション中には肩の力が抜けていても、仕事に戻ると、また力が入ってしまうことがある。最初は、そのことに気づく必要がある。しかし、いつまでも「肩の力を抜こう」と意識し続けることが目的ではない。
自然に動いているときにも、余分な力を使わずに済むようになることが大切である。
熟達した運転手が、いちいちハンドルやギアを意識せずに運転できるようになるのと、方向性は似ている。身体をどう動かすかを考え続けるのではなく、状況に応じて自然に動けるようになる。
そして、10回シリーズは終わる。なぜ、終わりがあるのだろうか。私は、このシリーズが補助輪のような役割を持っているからだと考えている。補助輪は、自転車に乗るための助けになる。しかし、いつまでも補助輪に頼ることが目的ではない。
ロルフィングも、施術者に身体を整えてもらい続けることが目的ではない。自分の身体を感じ取り、自分自身で動けるようになること。そのために、一定の期間、施術者が関わるのである。
もちろん、10回のセッションで誰もが同じ変化を経験するわけではない。身体の状態も、それまでの経験も、一人ひとり違う。硬くなっている場所には理由があり、それまでその人を支えてきたものでもある。
だから、無理に正しい形へ変えようとするのではなく、その人が自分の身体と新しい関係を築けるように関わることが大切だと考えている。
分析をやめる話ではない
ここまで読むと、考えることや分析することは、上達の妨げになるのではないか、と思うかもしれない。しかし、ドレイファス兄弟は、そうは考えていない。本の結論の章では、哲学者パスカル(Blaise Pascal)の『パンセ』が引用されている。
そこで示されるのは、2つの極端である。
理性を完全に排除すること。そして、理性以外のものを一切認めないこと。どちらも危うい、という考え方である。ドレイファス兄弟が批判しているのは、考えることそのものではない。人間の知性を、分析と規則だけで説明できると考えることなのである。
達人も、考える
熟達した人は、普段の行動では、いちいち規則を思い出す必要がない。しかし、だからといって、何も考えずに行動しているわけではない。例えば、熟達したチェスの指し手は、盤面を見た瞬間に、有望な手が浮かぶことがある。
しかし、その手をそのまま指すとは限らない。
本当にその手でよいのか。別の可能性はないのか。相手はどう応じるのか。直観によって浮かんだ手を、さらに検討することがある。ドレイファス兄弟は、このような考え方を「熟考(deliberative rationality)」と呼んでいる。
初心者が行う分析との違いは、出発点にある。初心者は、状況を細かい要素に分解し、規則に従って答えを探す。一方、熟達者は、まず状況全体を捉える。そのうえで、浮かんできた見方が適切かどうかを考え直す。
つまり、分析を捨てるのではない。直観によって捉えたものを、必要に応じて吟味するのである。
見方を変えるということ
本の中に、立方体の線画を使った例がある。紙に描かれた立方体を見ると、通常は、どちらか一方の面が手前に見える。
しかし、しばらく見つめていると、手前と奥が入れ替わることがある。

同じ線画なのに、見え方が変わる。なぜだろうか。私たちは、線の長さや角度を計算し直しているわけではない。立方体全体の見方が切り替わっているのである。
ドレイファス兄弟は、この例を使って、熟達した人の熟考を説明している。ある状況を見たとき、私たちは自然に1つの解釈をしている。しかし、その解釈にとらわれると、別の可能性が見えなくなることがある。そこで、あえて重要でないと思っていた部分に注意を向ける。すると、それまでとは違う見方が生まれることがある。
例えば、ロルフィングで身体を観察しているとき、骨盤の傾きが気になったとする。
最初は、骨盤を中心に考えるだろう。しかし、あえて足元や呼吸へ注意を向けてみると、骨盤の傾きが、それまでとは違った意味を持って見えることがある。骨盤だけの問題だと思っていたものが、身体全体の動きの中で理解できるようになるのである。
これは、分析を放棄することではない。
最初に浮かんだ見方を、別の角度から確かめているのである。もし見方が変わらなければ、それでもよい。別の可能性を確かめたことで、最初の判断への確信が強まる場合もある。重要なのは、1つの見方に固執しないことである。
計算を、直観に仕えさせる
チェスを扱った章には、印象的な考え方が登場する。計算を直観に仕えさせる、というものである。直観が浮かんだからといって、必ず正しいとは限らない。だから、必要に応じて計算する。しかし、すべてを計算してから判断しようとすると、熟達者が持っている状況全体を捉える力が生かされなくなる。
計算は、直観に取って代わるものではない。直観を確かめ、補うために使うのである。
そして、自分の経験では対応できない状況に出会ったときには、意識的な分析へ戻ってもよい、と2人は書いている。
これは重要な指摘だと思う。
熟達した人だからといって、すべての状況に直観だけで対応できるわけではない。経験したことのない問題では、立ち止まり、情報を集め、慎重に判断する必要がある。むしろ、自分の直観が通用する場面と、そうでない場面を見分けられることも、熟達の一部なのだろう。
学ぶためには、振り返ることも必要になる
ドレイファス兄弟は、学習についても興味深いことを書いている。技能を身につけるためには、状況に深く関わる必要がある。
しかし、それだけでは十分ではない。
自分が何をしたのか。その結果、何が起きたのか。次はどうすればよいのか。経験を振り返り、次の行動につなげる働きも必要なのである。
例えば、ロルフィングのセッションがうまくいったとする。そのとき、ただ満足して終わることもできる。しかし、何がよかったのか、どのような判断が役立ったのかを振り返ることで、次のセッションにつながる学びが生まれる。
反対に、うまくいかなかった場合も同じである。なぜ、あの場所に触れたのか。なぜ、あのタイミングで終えたのか。別の選択肢はなかったのか。そうした問いを持つことで、経験が次の経験へとつながっていく。
ただし、行動している最中に、いつも自分を監視し続ける必要があるわけではない。本では、その監視が一時的に止まる状態についても触れられている。
いわゆるフロー(flow)である。何かに深く集中し、考えることと行動することが自然につながっている状態である。ドレイファス兄弟は、これを6つ目の段階とは考えていない。
熟達した人にも通常は残っている、自分の行動を振り返る働きが、一時的に止まっている状態として捉えている。つまり、上達するためには、状況に深く関わることと、そこから少し距離を置いて振り返ることの、両方が必要なのである。
まとめ──手順を学び、手順から離れる
11年間のロルフィングのトレーニングを、ドレイファス兄弟の5段階に照らして振り返ってきた。
最初は、解剖学や触診の基本を学び、教師の指示に従っていた。経験を積むにつれて、身体の違いが少しずつ分かるようになった。その一方で、見えるものが増えすぎて、何を優先すればよいのか分からなくなることもあった。
さらに経験を積むと、すべてを分析しなくても、身体全体の特徴が分かるようになってきた。そして、教師たちが繰り返し問いかけていたのは、何を知っているかだけではなかった。今、何を見ているのか。何を感じているのか。そして、なぜそうするのか。
手順を学ぶことは必要である。しかし、手順を覚えることが、学びの終わりではない。
むしろ、手順を学んだ先に、手順だけでは捉えられないものが見えてくる。ロルフィングを受ける側についても、同じように考えることができる。正しい姿勢を意識して保とうとすることから、自分の身体の違いを感じ取り、自然に動けるようになることへ。
その変化を支えることが、ロルフィングの大切な役割の1つだと思っている。
そして、教える側にも問いが残る。何を教えるのか。どこまで教えるのか。いつ、教えることをやめるのか。それを決めるための規則が、あらかじめ用意されているわけではない。だからこそ、教師自身にも、状況を感じ取り、判断する力が求められるのである。
次回──哲学者は、なぜ人工知能を批判したのか
ここまで、ドレイファス兄弟の5段階と、それをロルフィングの学習経験に重ねた話を書いてきた。
しかし、そもそもこの本は、人工知能について書かれた本である。
なぜ、人工知能を論じるために、人間の技能習得から始める必要があったのだろうか。
その背景には、ヒューバート・ドレイファスが1960年代に人工知能研究と出会い、そこにある前提に疑問を持った経験がある。
次回は、この本が生まれた背景を振り返りながら、人工知能と現象学、そして「知覚」という問題について考えてみたい。
このシリーズの記事
人工知能から問い直す、身体性と上達──ドレイファス『純粋人工知能批判』を読む
- 第1回:なぜ、考えた瞬間に下手になるのか──ドレイファスが示した、上達の5つの段階
- 第2回:手順を、教わらなかった──11年の課程を、身体性から読み直す(本記事)
- 第3回:分析ではなく、知覚を問う──哲学者が、人工知能の評価を引き受けた理由
