Phase III(8)〜Seeingと知覚すること(2)〜部分の和は、全体にならない

前回、本コラムにて、body readingの際、Seeing(観察すること)も大事だが、「知覚すること」(クライアントの身体にどのような変化があるのか?施術中に知覚すること)とのバランスを取ることについて触れた(「Seeingと知覚すること(1)〜概念を持つと、見えるようになる」参照)。もう少しこのことについて触れてみたい。

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実は、知覚的な見方に出会ったのが、今回が初ではなくある本を通じてだった。経営学者であり、クレアモント大学院の教授でもあった、ピーター・F・ドラッカーの『新しい現実』。1989年に出版された本で、旧ソ連を含めた社会主義諸国がなぜ崩壊して行ったのか?何か本を教えて欲しいと大学受験の頃(1990年頃)父に聞いたところ、紹介してくれた本だ。ドラッカーがこの本を書いたのは80歳のとき。この年齢でこれだけの書物を出せるのか、と驚いたのを覚えている。

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この本は、経済や経営の歴史の移り変わりを語っているのみならず、その根底にある世界観(哲学)の変化について語っているところがすごい。象徴的に現れているのが、終章「分析から知覚へ〜新しい世界観」だ。少し長くなるが、紹介したい。

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まずは分析的見方について。同書ではコンピュータを例に以下のように述べている。

コンピュータは、ある意味で、17世紀の末、デニス・パパンの時代に始まった物理的な世界という、分析的かつ概念的な世界観の究極的な表現だった。コンピュータは、パパンの同時代人で友人だった数学者、ゴットフリート・ライプニッツの発見に端を発している。ライプニッツは、あらゆる数字がデジタルで、つまり1と0によって表現できることを発見した。
さらにまたバートランド・ラッセルとアルフレッド・ホワイトヘッドの「数学原理」が、ライプニッツの発見を、数字という限定された範囲を超えた論理にまで発展させた。
その結果、明確にデータとして示されるかぎりにおいて、あらゆる概念が、1と0によって表現できることが明らかにされた。
したがってコンピュータは、パパンの師ルネ・デカルトの概念的な分析的モデルの勝利でもあった。

対照的に、知覚的な見方について。現代の生物学の例を挙げる。

近代生物学によれば、生命は遺伝コード、すなわちプログラム化された情報として記録されている。あの不可思議な実体としての生命も、超自然的な説明に頼らないとするならば、情報によって組織された何者かであるとしか説明はできない。
そして生物的なプロセスは、分析的ではない。
物理的な現象では、全体は部分から成り、かつ部分の合計に等しい。したがって、分析によって理解することが可能である。しかし、生物的な現象には、部分はなく、すべて「全体」である。部分を合計したとこで全体にはならない。
確かに情報そのものは、分析的、概念的である。しかし、「意味」は分析的、概念的ではない。それは知覚的な認識である。

そして生物的なプロセスは、分析的ではない。

こうした知覚的な見方が、心理学とモダン・アートの世界に現れており、分析的な見方から知覚的な見方の移行について以下のように説明している。

実は、分析的な概念から知覚的な認識への発展は、コンピュータ登場の前から始まっている。1世紀ほど前の1890年代、形態(ゲシュタルト)心理学が、われわれが理解できるのは「C」「A」「T」ではなく、「CAT」であることを明らかにしている。現実に存在するものは、すべて知覚的な認識であることを明らかにしている。
爾来、児童心理学、行動心理学、臨床心理学など、心理学のほとんどあらゆる分野が、分析から認識へと重点を移行させた。
(略)
現代絵画が「現代」的であるのは、絵を鑑賞する者ではなく、絵を描く者が見るものを表現しようとするところにある。
それは、たんなる描写ではない。「意味」である。

最後に、今後世の中に起きることについては(生態系の問題、グローバルの経済問題、資本主義の様々な問題など)

デカルト以来、重点は概念的な分析におかれてきた。しかし今後は、概念的な分析と知覚的な認識の均衡が必要である。

まさに、私が本コラムで触れてきた分析的な見方と知覚的な見方のバランスの大切さがわかりやすく述べられていて興味深い。

こういった観点からもう少しロルフィングに注目して、body readingなどを考えていければと思う。

2026年8月の注記

この記事は、25年前に読んだ本を、ミュンヘンの教室で思い出している記録である。

大学受験の頃、1990年前後のことだ。旧ソ連を含む社会主義諸国がなぜ崩壊していったのかを知りたくて、父に本を尋ねた。返ってきたのがドラッカーの『新しい現実』だった。当時80歳の著者が書いた本である。

読んだときには、終章の意味が分からなかった。分析から知覚へ、という題がついていて、物理的な現象は部分の和として理解できるが、生物的な現象に部分はなくすべてが全体である、と書いてある。情報そのものは分析的だが、意味は知覚的な認識である、とも。言っていることは追えるが、どこで使う話なのかが分からない。

分かったのは25年後だった。ミュンヘンの教室で、図形が並んだだけの絵を見せられ、キリンだと言われた瞬間にキリンが浮かび上がる。線は一本も増えていない。変わったのは見る側だった。その体験の三日後に、この記事を書いている。

書店で見つけた本ではなく、人から渡された本だった。そして父から返ってきたのは、社会主義がなぜ崩壊したのかという問いへの答えではなかった。世界の見方が変わりつつある、という話だった。問いに対して、答えではなく見方が返ってきた。それに気づくのに、やはり25年かかっている。

さて、この記事が引いているドラッカーの命題を、二つ書き留めておきたい。

一つは、部分と全体についてである。生物的な現象には部分がなく、すべてが全体である。部分を合計しても全体にはならない。

この記事の後、Phase IIIの授業でロルフィングの5原則を学ぶ。その第一がWholism、全体性である。身体を部分の和として見る科学的な見方も大切にしつつ、全体を全体のまま見ること。理論として教わる前に、経営学の本から同じ命題を受け取っていた。しかもこの記事では、それを引用として並べただけで、自分がまもなく習う原則と同じだとは気づいていない。

もう一つは、情報と意味についてである。情報そのものは分析的、概念的だが、意味は分析的でも概念的でもなく、知覚的な認識である。

2025年のアドバンスト・トレーニングで、Kevin Frankの考え方を教わった。ボディワークは筋膜や骨格という物理的構造へのアプローチ、エネルギーワークは目に見えない情報のフィールドへのアプローチだが、両者は対立せず、情報の伝達という共通項を持つ連続体の両端として捉えられる。ボディワークとエネルギーワークの区別は本質的にはなく、すべては情報である、と。

一見、ドラッカーとは逆のことを言っているように見える。片方はすべてを情報として捉え直し、もう片方は情報と意味を分ける。しかし扱っている場所は同じである。情報として記述できる層の外側に、記述できない何かが残る。ドラッカーはそれを意味と呼び、ATではそれを、癒しが起こる場を保つという言い方で扱った。どちらも、分析の届く範囲の縁を指している。

この記事の末尾に、こういった観点からもう少しロルフィングに注目してbody readingなどを考えていければ、と書いた。実際には、その作業に10年かかった。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka