はじめに
こんにちは。渋谷でロルフィング・セッションを提供している大塚英文です。
このブログでは、「社会性の脳(social brain)」とInterpersonal Neurobiology(IPNB)の視点から、身体・感情・関係性の再統合について探っています。

第2回の今回は、「早い脳」と「遅い脳」という切り口から、なぜ私たちは“つい反応してしまう”のか?を見つめ直します。
その背景には、2人の“Daniel”──ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)とダニエル・シーゲル(Daniel Siegel)が提唱する「Fast / Slow」モデルが存在します。
それぞれの理論の違いを理解することで、脳の働きと自己理解がさらに深まります。
Daniel Kahneman の「System 1 / System 2」
行動経済学における“速い思考”と“遅い思考”
まず紹介するのは、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の「System 1 / System 2」モデルだ。

彼は著書『Thinking, Fast and Slow(邦訳:ファスト&スロー)』の中で、人間の意思決定や判断が2つの思考システムによって成り立っていることを明らかにした。
- System 1(速い思考)は直感的・感情的で、自動的に働きます。私たちが何かを“ぱっと”判断するとき、たいていこのSystem 1が使われてい流。
- System 2(遅い思考)は論理的・意識的に働き、熟慮や自己制御が必要な場面で登場する。
このモデルの目的は、人間の「非合理的な判断の傾向(認知バイアス)」を理解することにあり、マーケティングや経済行動、認知科学など幅広い分野で応用されている。
System 1 / System 2 の比較表:
観点 | System 1(速い思考) | System 2(遅い思考) |
---|---|---|
性質 | 直感的・即時的・自動的 | 論理的・熟慮的・努力的 |
処理スピード | 非常に速い(0.05秒〜) | 遅い(0.5秒以上) |
意識化 | 無意識(automatic) | 意識的(controlled) |
エネルギー消費 | 省エネルギー(負荷が小さい) | 高エネルギー(負荷が大きい) |
主な役割 | 瞬時の判断、パターン認識、日常動作、感情的な反応 | 計算、推論、論理的判断、自己制御、選択的注意 |
長所 | 素早く動ける、直感的な反応に優れる | 冷静に考えられる、複雑な問題に対応できる |
短所 | 認知バイアスを起こしやすい、誤解・早とちり | 処理が遅い、疲労しやすい、集中力が必要 |
応用領域 | 経済行動、マーケティング、心理テスト | 教育、意思決定理論、認知トレーニング |
例 | 「この顔は怖い」「赤信号だ、止まろう」 | 「この状況ではどう対応すべきか考えよう」 |
Daniel Siegel の「早い脳 / 遅い脳」
神経系の発達・感情調整・関係性に基づくモデル
次に紹介するのは、精神科医でありIPNB(対人神経生物学)の創始者でもあるダニエル・シーゲル(Daniel J. Siegel)が提唱する「早い脳/遅い脳」(The Developing Mindで取り上げている)という神経発達モデルだ。

早い脳(Fast Brain)とは何か?──反応する神経回路
早い脳とは、危険の察知や緊急反応を担う原始的な神経回路のことである。主に扁桃体(amygdala)や脳幹(brainstem)が関与しており、脅威やストレスに対して即時に身体を動員させる。
- 扁桃体:恐怖や怒りなどの感情を瞬時に処理する。脅威を察知し、交感神経を活性化させる。
- 脳幹(延髄・橋・中脳):心拍や呼吸、筋緊張といった生命維持反応を制御する。
- 島皮質(insula):内臓感覚(interoception)を瞬時に感じ取る役割も果たす。
この早い脳は、外的刺激に対して即座に反応するため、無意識的で自動的な行動や感情のトリガーとなる。
NLPやコーチングでは、早い脳の反応──たとえば瞬時に湧き起こる緊張、不安、衝動──を「意識化」し、それを別の行動パターンに変える技法が使われる。たとえばアンカリングやサブモダリティの変更は、感情のトリガーを再設定する試みである。
遅い脳(Slow Brain)とは何か?──意味づけし、調整する神経回路
一方、Slowな脳は、経験を吟味し、意味づけ、抑制し、社会的・倫理的な判断を下す回路である。
- 中前頭前皮質(mPFC):自己認識、共感、道徳的判断などの高次認知機能を統合する。
- 海馬(hippocampus):記憶の文脈化、時間の連続性を保持する。
- 前帯状皮質(ACC):注意の切り替え、情動の調整、エラー検出を担う。
このSlowシステムは、Fastな反応を一度保留し、社会的に適応した反応に変換するための脳の調整装置とも言える。
IPNBでは、このSlowな脳の回路こそが「統合(integration)」を生む鍵だとされている。ロルフィングなどのボディワークでは、感覚をゆっくりと観察し、そこに意味を与えることで、このSlowな脳が活性化されると考えられる。
シーゲルの理論では、脳の働きは「単なる情報処理の速さ」ではなく、身体や感情、そして他者との関係の中でどのように統合されているかが重視される。
- 早い脳とは、進化的に古く、扁桃体や脳幹を中心とした「瞬時に命を守る反応」を担う脳です。トラウマや情動記憶とも深く関係している。
- 遅い脳とは、前頭前皮質や島皮質といった「社会的で意味づけ的な統合を行う脳」であり、安全や共感、自己制御を支える働きをしている。
このモデルは、マインドフルネスやセラピー、ロルフィングといった“今ここ”の体験に深く関係している。
早い脳 / 遅い脳 の比較表:
観点 | 早い脳(Fast brain) | 遅い脳(Slow brain) |
---|---|---|
主な部位 | 扁桃体、視床下部、脳幹、古い辺縁系 | 前頭前皮質、海馬、島皮質 |
処理スピード | きわめて速い(無意識的・情動的) | 比較的遅い(意識的・意味づけ) |
進化的役割 | 生存・防衛・闘争逃走反応 | 共感・調整・自己制御・社会性 |
記憶の形式 | 暗黙的記憶(implicit memory) | 明示的記憶(explicit memory) |
反応の特徴 | 反射的・条件反射的・身体的緊張 | 熟考・メタ認知・物語化・再評価 |
感情傾向 | 怒り・恐怖・回避・シャットダウン | 好奇心・共感・安心・つながり |
行動との関係 | 過去のトラウマが再演される可能性がある | トラウマの意味づけと再統合が可能 |
癒し・統合の方法 | ポリヴェーガル理論による安全の回復、身体への気づき、マインドフルネス | 関係性の再構築、内省、愛着修復、身体からの意味づけ |
応用領域 | トラウマ療法、愛着理論、ロルフィング、SE、ソマティック心理学 | マインドサイト、セラピー、統合的教育、神経系再調整 |
ダニエル・カーネマンとダニエル・シーゲルの視点の違い(表)
観点 | カーネマン:System 1/2 | シーゲル:早い脳/遅い脳 |
---|---|---|
モデルの目的 | 認知バイアスと意思決定の非合理性を説明 | 感情調整と対人関係・自己統合の促進 |
応用対象 | 経済、心理実験、認知科学 | セラピー、教育、身体心理、愛着 |
処理単位 | 認知的プロセスの違い(知覚/推論) | 神経系の発火パターン、身体反応と情動 |
キーワード | 自動 vs 熟慮/バイアスと合理性 | 情動 vs 意図/安全・つながり・再統合 |
早い脳と遅い脳の“統合”──テクニックとプロセスの違い
NLPでは、早い脳にアクセスする技法(アンカリング、ミラーリングなど)を用いることで、反応パターンの再設定を試みる。一方、IPNBでは、早い脳を抑制・統合する遅い脳の回路を育むことが重視される。
能動的推論(Active Inference)では、早い脳が作り出す予測誤差を遅い脳で解釈・更新していくことが「学習」や「変容」の本質とされている。つまり、即時的な反応(Fast)と内省的な調整(Slow)が相互に作用することで、神経系の再組織化が進むのである。
ロルフィングのようなボディワークでは、呼吸や感覚に意識的に注意を向けることが、早い脳を鎮静化し、遅い脳の活動を促進する。これは、単なる筋肉調整ではなく、神経系の可塑性を引き出す統合的アプローチといえる。
比較表:早い脳・遅い脳と各アプローチの関係
領域 | Fastな脳へのアプローチ | Slowな脳へのアプローチ |
---|---|---|
NLP(神経言語プログラミング) | アンカリング、サブモダリティ変更、ラポール技法 | 意識的再解釈や再フレーミング |
コーチング | 感情の気づき、トリガーへの問いかけ | 傾聴、内省、行動の再設計 |
IPNB+能動的推論 | 神経生理的反応の観察と理解 | 安全な関係性の中での統合と再予測 |
ボディワーク(例:ロルフィング) | 筋緊張の解放、姿勢・動作の変化 | 感覚の内省化、呼吸と意識の調和 |
まとめ:早い脳・遅い脳:両方の脳に働きかけるには?
変化は、早い脳だけを変えるのでは起こらない。反応的な回路と、意味づけ・抑制・統合する回路の両方が対話することによって、人間の行動や関係性は変容する。NLPやコーチング、ロルフィング、IPNBなどの手法は、それぞれ異なるアプローチで早い脳・遅い脳の神経回路に関与している。
これらを単独で用いるのではなく、補完的に組み合わせることで、より深い自己理解と、他者との健全な関係性が育まれるといっていい。
次回予告:
第3回では、右脳主導の乳児期の発達と愛着形成に焦点を当てます。母子の共調整(co-regulation)、感情記憶の形成、そして“つながりの原初的地図”について、身体と脳の対話から掘り下げていく。