絵画史と身体(3)〜線として引かれた身体(前編)── 仏画の身体と、南都絵所の重命

はじめに

7月23、上野の東京国立博物館・平成館で、「空海と真言の名宝」展を見た。その2日後、7月25日に奈良へ。

奈良では、奈良国立博物館の特別展「南都仏画 ── よみがえる奈良天平の美」をじっくりと見る機会に恵まれた。この展示は、ボストン美術館との国際共同企画で、南都ゆかりの仏画が一挙に里帰りしている。

立体として刻まれた身体──「空海と真言の名宝」展から、四国へ

前回の記事で扱ったのは、木彫の像だった。周囲を回って成立する身体。量塊としての身体。今回はまた別の視点を提供する展示になる。仏画の身体には、量塊がない。線しかないのだ。

最初の展示室にあった『法隆寺金堂壁画』の色彩を見ながら、今回のメインテーマである「南都仏画」について、

線しかないのに、なぜ身体が身体として見えるのか。

ということをロルファーの立場から考えてみた。

長くなるので二回に分けたい。前編では、仏画の身体そのものと、それを描いた工房の話をしたい。

そもそも「南都仏画」とは何か

先に、言葉の整理をしておきたい。

「南都」とは、平安京から見て南にある都、つまり奈良のことである。北の京都に対する呼び方だ。

「南都仏画」は、その奈良で、古代から受け継がれてきた仏教絵画を指す。特定の流派や技法の名前ではない。場所と、その場所に流れた系譜の名前である。

展示の説明を借りると、流れはこうなる。

  • 奈良時代 ── 国際色豊かな天平絵画が大寺院を彩り、それが後世まで規範とされていく
  • 平安時代 ── 貴族好みの優美な仏画が盛んに礼拝される
  • 鎌倉時代以降 ── 南都仏教の復興期にあたり、天平の図像にもとづく復古的な仏画が描かれる。「南都絵所」と呼ばれる奈良の仏画工房の絵仏師たちが、仏画や絵巻に加えて、仏像の彩色にも携わるようになる
  • 近代以降 ── 奈良天平の仏画が日本美術の古典として評価され、新しい日本画を生む着想の源泉となると同時に、文化財保護の対象になっていく

この展示は、7世紀末から16世紀末までを八章でたどる。「南都仏画」の歴史を通してたどる試みとしては、これが初めてだという。

ここで一つ、引っかかった点がある。

この系譜には、規範が最初に置かれている。天平が先にあって、それが後の時代の基準になり続ける。あとの時代は、そこから離れたり、戻ったりする。

西洋絵画史をたどったときとは、話の形が違う。この違いは、後編で効いてくることになる。

展示のスケールについて

先に規模を書いておきたい。奈良国立博物館とボストン美術館が約20年をかけて構想した国際共同企画である。会期は2026年7月18日から9月13日。ボストン美術館が所蔵する南都ゆかりの仏画13件が一挙に里帰りし、国内の名品と合わせて、7世紀末から16世紀末までの仏画・仏像・絵巻など171件が8章に分けて並ぶ。国宝19件、重要文化財69件。

なお前日は東大寺・興福寺・元興寺を歩いていて、この博物館はその合間に入った。仏教史としての奈良については別に書いた。

30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(前編)

なぜ、ボストンなのか

「里帰り」という言葉には、含みがある。作品リストを見ていくと、Fenollosa-Weld Collection という表記が繰り返し出てくる。

会場では、その経緯を説明する動画が流れていた。しばらく立ち止まって見た。

1868年の神仏分離令に始まる廃仏毀釈のなかで、膨大な数の仏像と仏画が壊され、寺宝が二束三文で売り払われた。興福寺の五重塔さえ売りに出され、解体寸前まで行っている。

前日、私はその塔を見上げて「30年前と変わっていない」と思っていた。だがあの塔は、150年前に一度、なくなりかけている。

アーネスト・フェノロサが来日したのは1878年である。東京大学で哲学などを教えるために招かれた。その学生で、通訳を務めたのが岡倉天心だった。

2人は近畿の古社寺を調査して回る。1884年(1886年とも伝わる)、法隆寺夢殿の厨子を開けさせた話は有名だ。200年開かれていなかった扉のなかから、木綿に巻かれた救世観音が現れた。天心はそのときのことを「一生の最快事なり」と書いている。

そしてフェノロサは、文化財の保護を強く訴えた。彼と天心の調査が土台となって、1897年に古社寺保存法が制定される。いまの文化財保護法の源流にあたる。

同時に、フェノロサは買っていた。

集めた収集品はウェルドという人物の手を経てボストン美術館に入り、Fenollosa-Weld Collection と呼ばれることになる。フェノロサ自身が1890年、ボストン美術館に新設された東洋部の初代部長に就いた。モースやビゲローの収集品も加わって、ボストンは日本国外で随一の日本美術コレクションを持つ美術館になる。

守った人と、持ち出した人が、同じ人だった。

ここは単純化しないほうがいいと思う。買われたから残った、という面はたしかにある。売られなければ焼かれるか朽ちるかしていたかもしれない。しかし買われたから、日本にない。「里帰り」という言葉は、その両方を一語で引き受けている。

そして、これはこの記事の主題にも関わってくる。

海を渡れたのは、絵だったからである。堂は渡れない。仏画は巻いて運べる。廃仏毀釈のなかで、運べるものだけが破壊からも逃れることができた。

その典型が、後編で書くことになる一つの寺である。

彫刻の身体と、仏画の身体は、何が違うのか

上野で見た彫刻は、正面から見るための像ではなかった。周囲を回って成立する。重さがあり、量塊があり、床との関係がある。

仏画には、そのどれもない。あるのは線だけである。

見ているうちに、その線には二種類あるらしい、と思うようになった。解説にそう書いてあったわけではない。自分の目でそう分けたほうが見やすかった、という程度の話である。

一つは、身体の外側を決める線。輪郭である。どこまでが身体で、どこからが空間かを、一本の線が引き分けている。

もう一つは、身体の内側を示す線。衣のしわを描いた線だ。仏像や仏画では、この衣のしわの表現を「衣文(えもん)」と呼ぶらしい。しわをどう走らせるかによって、その下にある肉の量と、重力のかかり方が示される。膝の位置、腹の厚み、肩から腕への落ち方。描かれていないのに、そこにあることになる。

ロルフィングの仕事でクライアントの身体を見るとき、私も似たことをしている。服の上から、しわの寄り方で下の構造を推測している。仏画の絵師がやっていたのは、その逆向きの作業である。推測させるように、線を引く。

つまり仏画とは、身体の情報を線という一次元の要素に圧縮して伝える技術だった。そう考えると、あの繊細さの意味が変わってくる。細く均質な線を引くことが目的なのではない。線一本の判断に、身体理解の全部が乗る。だから細くならざるを得ない。

天平の線 ──「国際色豊か」の中身

奈良時代の天平仏画は、後世まで規範とされた。展示や解説では「国際色豊か」と説明される。

この言い方を、線の話として読み直したい。国際色とは、要するに線がどこから来たかである。唐から来て、そのさらに西から来ている。冒頭に置かれた法隆寺金堂壁画についても、遣唐使が持ち帰った大陸の表現を映す力強い線描、という説明がなされていた。

繊細ではなく、力強い。平安のものに向けられる評価の言葉とは違っている。

そして、この章で足が止まったのが釈迦霊鷲山説法図だった。通称、法華堂根本曼荼羅。奈良時代・8世紀の作で、東大寺法華堂に伝わり、いまはボストン美術館にある。釈迦が霊鷲山で法を説く場面が描かれている。

前日、私はその東大寺を歩いていた。**堂は奈良にあり、絵はボストンにある。ここでも、運べるものと運べないものが分かれている。

そして、この絵を見て、前日から抱えていた疑問が形になった。

同じ「曼荼羅」という言葉が、まるで違う絵を指している。

前日、元興寺で智光曼荼羅を見ていた。奈良時代の僧・智光が感得した浄土の姿を描いたと伝わるものである。そのとき考えていたのは、空海が唐から持ち帰った両界曼荼羅との違いだった。智光曼荼羅は行きたい場所の絵、両界曼荼羅は宇宙の構造図。願望の対象と、認識の地図。同じ形式に見えて、機能がまるで違う。

30年ぶりの奈良、そこに戒壇があった(前編)

そこに、3つ目が来た。

法華堂根本曼荼羅は、出来事の絵である。釈迦が説法していて、周りに聞いている者たちがいる。ある時、ある場所で起きたことを描いている。構造でもなく、行き先でもない。場面だ。

さらに、この展示には四つ目があった。後編で書く春日宮曼荼羅である。あれは社殿と神域の山を描いた景観図で、つまり地図に近い。

並べてみる。

  • 法華堂根本曼荼羅(8世紀)── 場面。起きた出来事
  • 智光曼荼羅(奈良時代〜)── 場所。行きたい浄土
  • 両界曼荼羅(9世紀・空海)── 構造。宇宙の体系
  • 春日宮曼荼羅(鎌倉時代以降)── 景観。実在する神域

四つとも「曼荼羅」と呼ばれている。だが描こうとしているものは、出来事、場所、構造、景観と、まるで別である。一つの言葉が、四つの違う仕事をしている。

奈良で二日歩いて、この四つを続けて見た。おかげで、曼荼羅という言葉の変遷そのものを追うことができた。

そして、身体の描き方も、それぞれ違ってくる。

説法図の身体は、互いに向き合い、聞く姿勢を取っている。関係のなかにある身体だ。浄土図の身体は、風景の一部として置かれる。両界曼荼羅の身体は、整然と配置された体系のなかの一点に収まり、姿勢も持ち物も、その位置によって決まる。座標のなかの身体である。

関係のなか、風景のなか、座標のなか。身体がどこに置かれるかで、引かれる線が変わる。

天平の線が力強いと言われるのは、おそらくこれと関係がある。説法という出来事のなかで、誰かが誰かに向かって語っている。向かい合う身体には、方向が要る。そして方向を出すには、線に強さが必要になる。

平安の線 ── 覚えていない、ということ

平安時代になると、貴族文化を背景に優美な仏画が広まる。国宝の十一面観音像(平安時代・12世紀、奈良国立博物館蔵)も出ていた。

正直に書くと、この時代のものは、ほとんど記憶に残らなかった。

帰ってきてから展示を思い返して、自分でも意外だった。国宝である。展示の目玉の一つでもある。にもかかわらず、目の前に何があったかを再現できない。

理屈のほうだけ先に置いておくと、「優美」という評価を身体の話に言い換えれば、身体を細く、長くし、重さを抜く方向である。重力との関係が変わる。天平の像が床に据わっているのに対して、平安の優美な仏画の身体は、床から浮きはじめる。

ロルフィングの側から見ると、これは他人事ではない。重さを抜いた身体は美しく見える。だが実際の身体で重さを抜こうとすると、それは持ち上げるための緊張として現れる。美しく見える身体と、楽な身体は、同じではない。平安の仏画が示しているのは前者である。

鎌倉、そして工房 ── 重命という絵仏師

第5章は「内山永久寺 ── 南都仏師・絵仏師の競演」と題されていた。ここで足が止まった。

鎌倉時代、東大寺や興福寺を中心に南都仏教の教学が復興し、儀式が整えられていくなかで、本尊となる仏像の彩色と仏画の需要が急増する。それを一手に担ったのが、中世の興福寺で仏画制作を受け持った「南都絵所」の絵仏師たちだった。松南院座(しょうなみざ)、吐田座(はんだざ)、芝座(しばざ)。この三工房が有力だったという。

そのうち松南院座に、重命(ちょうみょう)という絵仏師がいる。

この人が、すごかった。

ボストン美術館蔵の四天王像(鎌倉時代・建長5年=1253年頃、重命筆)。海中の岩の上に立つ四天王が描かれている。動いている。足の踏み出し方、腰の捻れ、天衣の翻り方。線だけで、いま体重がどちらに移りつつあるかが分かる。

前の節で書いた平安の身体が床から浮いていたのに対して、こちらは岩を踏んでいる。重さが戻ってきている。

そしてもう一件。世田谷山観音寺蔵の不動明王および八大童子像には、こう記されていた。

文永6年(1269)康円作。文永9年(1272)重命彩色。

刻んだのは仏師の康円。運慶の孫にあたる人である。その三年後、像の表面に色と線を置いたのが絵仏師の重命だった。

前日、東大寺の南大門で運慶・快慶の仁王像を見ている。その運慶の孫が刻んだ像に、南都絵所の絵仏師が彩色する。仏師の系譜と絵仏師の系譜が、一体の像の上で交差していることになる。

立体を作る人と、その表面に線を引く人が、別人として記録に残っている*しかも三年空いている。像が完成してから彩色までのあいだに、それだけの時間が流れている。

ここで、この記事の中心にあった問いが具体的な形をとる。彫刻と仏画は別ジャンルではなかった。一体の像のなかで、量塊と線が分担されていた。

ルネサンスの工房との共通点

そして、この構造には見覚えがあった。ルネサンスの工房である。

レオナルド・ダ・ヴィンチが十代で入ったヴェロッキオの工房は、フィレンツェにあった。ヴェロッキオ自身は彫刻家であり画家であり金工でもあった人で、工房では絵画も彫刻もブロンズ鋳造も金工も、一つの場所で行われていた。レオナルドはそこで、絵を描くことと、像を作ることと、金属を扱うことを同時に学んでいる。同時代の画家たちが、何人もこの工房を通っている。

平面と立体のあいだに、境界がなかった。南都絵所とヴェロッキオ工房が共有しているのは、この一点である。

そして、この構造には帰結がある。立体を扱う手が平面を描くと、線が量塊を知っている線になる。レオナルドが後年、人体の解剖に踏み込んでいったのは、思弁からではない。像を作るために身体の内側を知る必要があった工房の要求から、地続きに出ている。身体の知識が、理論ではなく手仕事として蓄積される場所だった。

これは、ロルフィングのトレーニングで起きていたことと近い。Giovanni先生が絵画史を使って身体の見方を教えたのは、美術史の教養として教えたのではなかった。見る目を作るために教えていた。触る手と見る目が、同じ場所で育つ。

ただし、両者は違う方向へ行く。

ルネサンスの工房は、やがて個人としての天才を押し出していった。レオナルド、ミケランジェロ。名前が作品の価値そのものになる。

南都絵所との違い

南都絵所は、そうならなかった。重命の名前は残っている。だがそれは、天才の署名としてではない。展示の解説で、こんな一行に出会った。

重命が作業を終えて「南都の家」へ帰宅したことを記す史料が残っており、南都に拠点を構えた絵仏師の記録として最古のものにあたる。

家に帰った、という記録である。

これが、残っている名前の性質をよく表していると思う。作品に刻まれた署名ではなく、勤務の記録に近い。

そしてもう一つ、この工房が継承のほうを向いていた証拠が、同じ章に置かれていた。

福井・大善寺が所蔵する木造黒漆塗厨子(鎌倉時代・14世紀)である。その側面の扉に、四天王が描かれている。解説にはこうあった。重命が手掛けたボストン美術館本と、まったく同じ姿。

図像が、型として写されている。しかも若狭まで運ばれている。

寺は焼ける。潰される。像は失われる。だが図像は、写せる。線として抽出されたものだけが、複製されて遠くまで届く。重命が引いた線は、彼が世を去ったあとも別の手で引き直され、福井の厨子の扉に残った。

南都絵所の絵仏師たちは、室町時代末期までこの系譜を維持し、南都特有の図像と画風を守り伝えたという。個人へ向かわず、継承へ向かった工房である。

同じ構造から、一方は個人の名へ、一方は写される型へ向かった。

そして、この工房が技を競った寺は、いま存在しない

第5章の章題を、もう一度書いておきたい。

「内山永久寺 ── 南都仏師・絵仏師の競演」

重命が四天王を描き、康円が不動明王を刻み、その表面に重命が色を置いた。仏師と絵仏師が同じ寺を舞台に技を競っていた。

その寺は、いま跡形もない。堂塔は一棟も残っていない。にもかかわらず、四天王も不動明王も、こうして目の前にある。

後編では、その寺の話をしたい。建物が全部消えて、絵だけが残った寺である。そしてその話が、この日いちばん記憶に残ったものは何だったのか、という個人的な問いにつながっていく。

→ 線として引かれた身体(後編)── 消えた寺と、記憶に残るもの

関連記事


参考

  • 特別展「南都仏画 ── よみがえる奈良天平の美」奈良国立博物館(ボストン美術館共同企画)2026年7月18日〜9月13日
    • 第5章「内山永久寺 ── 南都仏師・絵仏師の競演」
    • 四天王像 鎌倉時代・建長5年(1253)頃 重命筆 ボストン美術館(Fenollosa-Weld Collection)
    • 木造黒漆塗厨子 鎌倉時代(14世紀) 福井・大善寺
    • 不動明王および八大童子像(重要文化財) 鎌倉時代・文永6年(1269)康円作/文永9年(1272)重命彩色 東京・世田谷山観音寺
    • 十一面観音像(国宝) 平安時代・12世紀 奈良国立博物館
  • 特別展公式サイト「みどころ 第5章」 https://nantobutsuga2026.exhibit.jp/highlights/chapter5/
  • 中村元『東洋人の思惟方法』

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka