2020年10月12日(月)。大阪は快晴。空気も澄んでおり、素晴らしい天気に恵まれた。
大阪滞在も8日目を迎え、トレーニングも最終日を迎えた。
過去のModule 3の模様は、初日(「初日を迎えて〜介入をしないこと・瞑想とSPTの共通性・シャーマンとの関係性」参照)、3日目(「3日目を終えて〜エネルギーワークの中でトラウマをどのように扱うのか?〜意図する大切さ」参照)、4日目(「4日目を迎えて〜クラスはどう進むか?&カルマとは「意志に基づく行動」のこと」参照)、5日目(「5日目〜感情面へのアプローチ&遠隔を使ったセッション」参照)に書いたので、あわせてご覧いただきたい。
この日の注目は、なんといってもDonna Thomson(以下ドナ)のアウェアネス・セッションである。ソースポイントセラピー(以下SPT)がどのように生まれたのかを含め、聞くことができるいい機会だった。
ロングマン現代英英辞典によると、Awareness とは the ability to notice something using your senses、すなわち感覚を使って何かに気づく能力を意味する。
SPTでは、五感の手前にあるもので、経験を通じて作られるものとして、アウェアネスを捉える。
ドナは、禅の瞑想を15年実践していく中で、アウェアネスの違った次元の状態(Another Dimension of Awareness)へアクセスできるようになった。目を閉じて瞑想を通じて入っていく状態を、アウェアネス・セッションと呼ぶようになっていく。
ドナは、やりたくてアウェアネス・セッションを行っているのではなく、必然的にできるようになったと表現していた。そのうえで、これはサイキック・リーディング(チャネリング)とはまるで違うものだと念を押していた。
基本的に、アウェアネス・セッションからは、人間一人ひとりが自分の存在としてサポートとなる情報を得られるような叡智が得られるというが、これは実際に体感してみないと分からない。
アウェアネス・セッションからSPTは誕生した。
1986年、ロルファーとして活動していたボブは、解決するのが難しいクライアントを抱えていた。そこで、クライアントがより良くなるために手助けとなることを、アウェアネス・セッション中に質問した。
興味深いことに、「おへその位置から結んだ外側の右側にワークするといい」というアドバイスがあった。
そこで、約2年間、辛抱強く、右側の一箇所へアプローチした。それだけでもすごいと思う。
効果のある人もいたが、クライアントの中にはバランスが整うのが難しいというコメントもあった。
そこで2年後に、再びアウェアネス・セッションで質問した。すると、次から次へとポイントが見つかっていき、やがてSPTとして体系化された。実際、アウェアネス・セッションに現れた順番にカリキュラムが構成されている。
最終日のドナの瞑想では、Awareness of Awareness(気づきの気づき)の方法を紹介してもらった。五感を外から見ているような瞑想のガイドである。これが準備となり、ドナのアウェアネス・セッションへ進んだ。
前日にヒロさんを囲んだ話し合いでドナに聞く質問をまとめ、事前に送っておいた。
アウェアネス・セッションは約1時間にわたって行われた。SPTがどのように生まれてきたのか、創始者はどういう思いで作っていったのか。ドナの愛を感じられるようなセッションであり、あっという間に過ぎていった。
今回はトラウマ、カルマ、感情を扱っているが、そういう言葉よりも、人生において大事なのは選択であり、人生の運命はあらかじめ決まっているわけではなく、その都度変えることができる、という一貫したメッセージを受け取った印象があった。
時差の関係で、ここで認定の賞状が配布され、ボブとドナとパソコンの画面を通じて写真を撮影した。二人とは、ここでお別れである。
その後、昼休みになった。SPTに必要な手技はほぼ学び終え、この日は時間に余裕もあったので、昼休憩中に道修町へ向かった。
製薬会社が集中する道修町には、武田薬品工業、小野薬品、大日本住友製薬などの本社がある。そこに、薬を祀る神社もあることが判明した。
何度も大阪・北浜に来ることがあったが、神社の存在を知ったのは初めてだったので参拝した。
製薬会社に勤めていた頃の自分を思い出した。
練習会では、ソースポイントのポイントを15分ほどホールドする交換セッションを行い、終わりを迎えた。最後にヒロさんを囲んで、6日間の経験を一人ずつ共有していった。
面白かったのは、ヒロさんの経験の話である。
ヒロさんがSPTとどのように出会ったのか。SPTを受けたときに、ロルフィングを受けたときよりも整った感覚があったという。そこで、SPTを教わることになった。
当初、ボブとドナから教わったのではなく、ボブとロルファーのRay McCallから教わったこと。SPTはロルフィングのコミュニティで広まったので、ロルフィングとSPTとの違いに目が向いており、トレーニングの内容は分かりにくかったという。
さらに、エネルギーワークで出てくる言葉や用語を日本語でどのように訳したらいいのかが分からず、SPTをセッションの中に取り入れつつ、関連書籍を手に取って調べていったという。
ボブといろいろとコミュニケーションを取っていくうちに、ドナのアウェアネス・セッションとボブの実践によって作られたものであることが分かってきて、日本への招聘、そして現在に至っている。
歴史的背景をヒロさんからよく聞くと、こういった素晴らしいエネルギーワークをよくぞ日本に持ってきてくださった、という感謝しかない気持ちが湧いてくる。
Module 3を受けた今、その気持ちを忘れずに、一人でも多くの方の健康改善を目指して、いい方向へ進んでいけるよう手助けできればと思っている。
最終日の全日程を終え、伊丹空港から羽田へ無事に帰京した。最終的に疲れがどっと出たが、充実した6日間だった。
コロナ禍の大変な中、ボブとドナと綿密に連絡を取っていただき、企画と通訳をしていただいたヒロさん、そしてこのワークを紹介いただいた伊藤彰典さんに、改めて感謝を申し上げたい。
2026年8月の注記
この記事には、SPTがどう生まれたのかが、ドナ本人の口から語られた形で記録されている。6日間の最終日に、成り立ちが明かされたことになる。
一箇所に、約2年
1986年、ロルファーとして活動していたボブは、解決の難しいクライアントを抱えていた。アウェアネス・セッションで、どう手助けすればよいかを尋ねる。返ってきたのは、へその位置から結んだ外側の右側にワークするといい、という答えだった。
そこからが長い。ボブはその一箇所に、約2年間アプローチを続けている。効果のある人もいたが、バランスが整いにくい人もいた。2年後にあらためて尋ねると、今度は次から次へとポイントが見つかっていった。
そして、この記事はもう一つ書いている。アウェアネス・セッションに現れた順番が、そのままカリキュラムの構成になっている、と。
教える順序が、発見の順序を保存している
この一点は、体系としては珍しいと思う。
ロルフィングの10回シリーズは、後から組み直された手順である。何をどの順で行うかには理由があり、その理由は身体の側の論理として説明される。1989年の分裂の後、この手順を外す方向への模索が始まり、2025年のアドバンスト・トレーニングでは、決まった手順を持たない設計そのものが主題になった。
SPTは違う。見つかった順に並んでいる。Module 1で最初に学ぶのがソース・ポイントで、それは1986年に最初に見つかった一箇所である。
だから、この課程を順に受けていくことは、発見の道筋をもう一度たどることでもあった。当時はそう思っていない。手技を順に覚えているつもりでいた。
日本へ届いた経路
もう一つ、最終日の共有で分かったことがある。
ヒロさんが当初SPTを教わったのは、ボブとドナからではなく、ボブとロルファーのRay McCallからだった。
Ray McCall は、2025年のアドバンスト・トレーニングで私を教えることになる講師の一人である(「Advanced Rolferの認定までの歩みについて【総括】〜認定までの道のり」参照)。ボブとともに長くSPTを教えてきた人でもある。
2015年に大阪でSPTと出会い、2020年に創始者から直接学び、2025年に、その日本への経路の上流にいた人から、今度はロルフィングを学んだ。この記事を書いた時点では、Ray McCall という名前が誰なのかを知らない。
日本語にする、という仕事
ヒロさんの話には、もう一つ具体がある。
当初は、ロルフィングとSPTとの違いに目が向いてしまい、トレーニングの内容が分かりにくかったという。さらに、エネルギーワークで出てくる言葉や用語を日本語でどう訳したらいいのかが分からず、SPTをセッションに取り入れながら、関連書籍を調べていった。
受け取った人が、訳しながら理解していったことになる。この6日間、ヒロさんは通訳を担当していた。教える側であると同時に、訳す側でもある。
私自身も後に、別の課程で通訳をしながら学ぶ経験をすることになる。訳せない箇所は、分かっていない箇所だった。
前職の街を歩いた日
最終日の昼休み、道修町へ行っている。武田薬品工業、小野薬品、大日本住友製薬などの本社が集中する街に、薬を祀る神社があることを知って参拝した。そして、製薬会社に勤めていた頃の自分を思い出している。
エネルギーワークの基礎課程を修了したその日に、薬の街を歩いた。何度も北浜に来ていながら、神社の存在を知ったのはこの日が初めてだった。
この課程の初日には、Michael Pollan を読んで脳科学と製薬史を持ち込んでいた。最終日には、前職の街を歩いている。6日間の両端に、同じものが置かれていたことになる。
当時は、時間に余裕があったから寄った、とだけ書いている。













