人は同じものを見ていない──なぜ、知覚に働きかけるのか

はじめに

同じ言葉を聞いても、人によって受け取るものが違う。言葉が情報を運んでいるだけなら、そうはならないはずだ。

受け取る側は、その言葉を自分の感覚に照らして解釈している。その解釈のことを、知覚という。

だから、伝えるというのは、相手の知覚に触れることだ。

セッションで「足の裏を感じてみてください」と言うことがある。同じ言葉でも、起きることは人によって違う。立ち方が変わる人もいれば、何も起きない人もいる。言葉が届いたかどうかではなく、その人の知覚に触れたかどうかで決まる。

10年ほど前、私はこれを「どう伝えるか」の問題だと思っていた。今年になって、当時書いたものをまとめ直していて、向きが逆だったことに気づいた。

コミュニケーションとは、知覚である。そしてロルフ・ムーブメントは、知覚に働きかける仕事だ。

この記事は、その知覚を正面から扱う。身体の仕事をしている人間から見て、知覚とは何なのか。

見えていないものが、ある

私たちの身体のまわりには、注意が届いている範囲がある。手を伸ばせば届く距離。背後の気配。部屋の広さ。それは均一ではなく、方向によって厚みが違う。

ダンスやボディワークでは、この範囲をキネスフィア(kinesphere)と呼ぶ。ギリシャ語の kinein(動く)と sphaira(球)から作られた語だ。動きの球。

頭のどちらかに打撃を受けた人が、その側の空間を感じられなくなることがある。動きにも生活にも深く影響するのに、本人は気づかない。施術者がその人の知覚の構造を見はじめるまで、隠れたままになる。

ここが厄介なところだ。見えていないものは、見えていないということ自体が見えない。身体を見ても、可動域を測っても出てこない。

身体的な療法も心理的な療法も、とりわけトラウマを扱う仕事の多くが、この欠けたキネスフィアを建て直すことに集中していると、Kevin Frank と Caryn McHose は書く。

「こうあるべき」が、いちばん厚い壁になる

見えなくなる原因は、外傷だけではない。

集団の中で、居心地が悪くて自然に身体を遠ざける人がいる。そのとき本人は、自分には親密さの能力がないのだ、と判断してしまうことがある。

同じ本にこうある。本当に心地よい距離を認めることこそが、自己組織化と健康の調整の始まりである。何が本当かに気づけば、空間としては遠くても、関係としては居合わせていられる。

そして——

Often our greatest barrier to health is an image of what should be.

私たちの健康にとって最大の障壁は、しばしば「こうあるべき」という像である。

判断と自己像を外したところで、何が本当かを問う。セッションでいちばん大事にしているのは、ここだ。良い姿勢を作りにいくのではなく、いま何が起きているかを感じられるようにする。

知覚とは何か

言葉そのものを確かめておきたい。

知覚は、英語では perception。ラテン語の percipere から来ている。per(通して)と capere(取る)が合わさった語だ。通して、取る。

同じ capere から、capture(捕らえる)、conceive(思い描く、身ごもる)、receive(受け取る)が出ている。掴む、という手つきが、この語の芯にある。

つまり、語のかたちからして、知覚は受け身ではない。届いたものを受け取るのではなく、こちらから掴み取っている。この点は、あとでもう1度出てくる。

皮膚、感覚器官、筋肉、内臓から、脳へ絶えずメッセージが届いている。Kevin Frank はそれを「関係者各位」型の宛名を持つメッセージと呼ぶ。誰に宛てたものでもない。その大半は、気づかれないまま通り過ぎる。

気づかれたものが、知覚を構成する。

Perception is the interpretation we make of our sensation.

知覚とは、自分の感覚について自分が作る解釈である。

序章には、もう1つの言い方がある。知覚とは、1人ひとりが、その瞬間に生じる感覚情報の流れをどう組織化するか、である。そして問う。私たちは知覚したものに応答する。では、何を知覚しているのか。世界についての自分の解釈は、現実なのか、想像なのか、その混ざったものなのか。

答えははっきり書かれている。

the perception that we create is just that–a creation.

私たちが作り上げる知覚は、まさにそれ、作られたものである。心の創造物であり、現実世界の、選び取られた再構成だ。

悲観的な話ではない。作られたものなら、作り直せる。

重力の中で自分がどこにいるかを感じ取る力を、固有受容(proprioception)と呼ぶ。この本は、それが記憶やイメージに閉じ込められてはいない、と書いている。

向きが、2つある

自分の記事を読み返していて気づいた。「見えるようになる」という話を、私は2回書いていた。しかも向きが逆だった。

概念を持つと、見えるようになる

1つ目は、2015年にドイツのトレーニングで受け取った。

Ida Rolf が作った教育に、Auditing という段階がある。施術する側に回る前に、観察する側として長く居る。そして Saturation Method。とにかく見続ける。

そこで教わったのが、概念を持つと、見えるようになるということだ。名前を知らないものは、目に映っていても見えない。1度その概念を持つと、同じ身体がまったく違って見えはじめる。

キリンの絵の話がある。見たことのない人が、話だけを聞いて描いた絵は、キリンにならない。持っている概念の形に、見たものが収まってしまう。

→ Phase III(6)Seeingと知覚すること(1)〜概念を持つと、見えるようになる

動くことで、見えるようになる

2つ目は、2024年に書いた。こちらは逆を向いている。

池谷裕二さんの本から、3つの実験を引いている。

  • 開眼手術。生まれつき見えなかった人が、手術で光を受け取れても、すぐには遠近が分からない
  • サルの頭部固定実験。頭を固定されて育つと、視覚の育ち方が変わる
  • ネコのゴンドラ実験。自分で歩いたほうは見えるようになり、ゴンドラに乗せられて同じ景色を見ていたほうは、見えるようにならない

同じ景色を同じ時間だけ見ている。違うのは、自分で動いたかどうかだけだ。

見ることは、受け取ることではない。動くことが、見ることを作っている。

これを正面から論じているのが、哲学者のアルヴァ・ノエ(Alva Noë)だ。知覚を、脳が受け取るものではなく、身体が行うこととして見る。ノエも、同じネコの実験を議論の土台に置いている。

ノエがもう1つ挙げている例がある。触覚視覚代行装置。カメラの映像を、背中や舌への触覚の刺激に変換する装置だ。目が見えない人が使うと、はじめは背中を触られている感じしかしない。ところが、自分でカメラを動かしているうちに、背中ではなく、前方にあるものとして感じられるようになる。

入ってくる信号は、最後まで触覚のままだ。変わったのは信号と自分の動きとの関係のほうである。

→ 「見る」とは?〜身体が動くことで身につく

2つは、矛盾していない

概念が先にあると見える。動くことで見えるようになる。この2つを並べたのは、今回が初めてだ。

矛盾して見えるが、そうではないと思う。知覚は、上からと下からの両方で作られている。概念という上からの枠と、動きという下からの経験。どちらか一方では、見えるようにならない。

セッションで起きているのは、たいてい下からのほうだ。説明して分かってもらうのではなく、動いてもらうと、その人の中で何かが見えはじめる。

ただし、これは私の見立てで、どこかに書かれていたことではない。2つを並べたときに、そう見えたというだけだ。

定義は、人によって違う

ここまで Kevin Frank の言い方を軸に書いてきたが、知覚の定義は人によって違う。身体の仕事の外にも、同じ場所を別の言葉で指している人たちがいる。

  • Kevin Frank──知覚とは、感覚について自分が作る解釈である
  • フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)──世界は、行為を通じて立ち上がる。知覚するものと知覚されるものは、先にあって出会うのではなく、たがいを生み出しながら成り立つ
  • アルヴァ・ノエ(Alva Noë)──動くことが、見ることを作っている

近いが、同じではない。解釈を作ると言うのと、行為を通じて立ち上がると言うのとでは、主語の置き方が違う。

この不一致のほうが重要だと思う。定義が揃っていないということは、知覚がまだ決着していない問いだということだ。身体の仕事も、哲学も、認知科学も、それぞれの場所から手を伸ばしていて、まだ1つの言葉になっていない。

ただし、揃っていないなりに、重なっているところがある。

さきほど引いた「知覚は行為である」という一文は、Aline Newton 先生が1995年に書いたものだ。ロルフィングの機関誌に載った、施術者向けの文章である。

ヴァレラたちが『The Embodied Mind』を出したのは、その4年前の1991年。そして Newton 先生の論文に、ヴァレラの名前は1度も出てこない。参考文献にも入っていない。

影響を受けたわけではない。別々の場所から出発して、同じところに届いていた。

そして、語源もそこにある。percipere──通して、取る。ヨーロッパの言葉は、知覚を最初から能動の側に置いていた。

なぜ、現象学なのか

ここで、1つ疑問が出るかもしれない。身体の仕事をしているのに、なぜ哲学の言葉が要るのか。

Newton 先生が、その理由を書いている。

重力との適切な関係が、人の健康の基本にある。これは Ida Rolf の中心的な洞察だ。その関係を、構造の側からは アライメントとして、機能の側からは 生体力学として記述するのが標準的なやり方になっている。

けれども、どちらも人の経験を落としてしまう。生体力学は、身体をもう1つの精巧な機械として見る。動きは力学の観点から完全に理解できる、という前提から始まる。主観的な経験には、何の重要性も認められない。

そして、Newton 先生はこう書く。

Even when pain brings our attention to a particular area or muscle, still we do not experience ourselves as a collection of nerve impulses, muscle fiber contractions, or sidebends and rotations.

痛みが、ある部位や筋肉に注意を向けさせるときでさえ、私たちは自分を、神経インパルスの集まりや、筋線維の収縮や、側屈と回旋として経験してはいない。

ここが、現象学が要る理由だ。

現象学は、知覚の経験を、主観の側から研究しようとした。主体と客体という昔からの区分を受け入れず、世界の中にいる人間を、経験されているままに扱おうとした。現象学者にとって、身体は「生きられた身体」と切り離して存在しない。人も、環境と切り離しては存在せず、そこに埋め込まれている。

身体の仕事をしていると、毎日それに突き当たる。構造の制限を外しても、動きのパターンが変わるとはかぎらない。新しい動かし方を教えて、機械的に反復してもらっても、そうはならない。変わるのは、知覚が変わったときだ。

だから、力学だけの言葉では足りない。この記事が知覚という語を中心に置いているのは、そのためだ。

この記事は身体の仕事の側から書く。現象学そのものの系譜は、別に場所を作って扱った(「現象学とロルフィング──ボディワーカーのための、身体の見方」)。

知覚には、癖がある

いま何を感じていますか、と聞く。

遠くの音をすぐ言う人、首や肩を先に言う人、足の裏の接地から言う人。答えの内容ではなく、どこから答えるかに癖が出る。

Kevin Frank と Caryn McHose は、これを知覚構造と呼ぶ。感覚の経路を、慣れた溝の中で使い続ける傾向のことだ。報告を聞き、注意深く見ることで、その人の知覚構造を描きはじめられる。

印象に残っている場面がある。基礎トレーニングでは、同じ身体を全員で見て、見立てがそろうかを確かめた。ところがロルフ・ムーブメントの課程では、知覚が一致しない。同じ人の同じ動きを見ていて、受け取るものが人によって違う。

一致しないことが、間違いではない。知覚が構造を持っていて、その構造が人によって違う以上、そうなる。

簡単には変わらないようにできている

では癖を変えればいいのか。そう簡単ではない。

生き延びることは、動きが予測できることに依存している。危ない場面でいちいち考えていては間に合わない。だから知覚と協調は、簡単には書き換わらないようにできている。簡単に開く鍵は、鍵の役に立たない。

神経科学者のロドルフォ・リナス(Rodolfo Llinás)の本から、こういう指摘が引かれている。動物は、いま入ってきた感覚を、ほとんど瞬時に、過去の経験にもとづく現実へ変換する。その変換の結果が、筋肉の動員になる。

つまり——「あるがまま」にだけ臨むことは、ほとんど不可能だ。

ここは正直に書いておきたい。いまを感じましょう、と言うのは簡単だが、身体はそもそも、いまを過去に変換するようにできている。

それでも、変わる

変わらないようにできている。それでも変わる。その道がいくつか書かれている。

別の感覚で、燃料を与える

ウベア・ゴダール(Hubert Godard)が、この本の序文で書いている。それぞれの感覚の経路が、他の経路の活動にどれだけ左右されるかを、私たちはいま知っている。そして——

知覚の限界を越える唯一の道は、しばしば、別の感覚を使ってそこに燃料を与えることである。

動きへの気づきに、触覚や音や匂いや運動の感覚を結びつける。詰まっている場所は、そこを見つめても動かない。別の入口から入る。

裏返しも書かれている。想像力がうまく働かなくなっているとき、それはしばしば、1つの感覚様式にしがみついていることに結びついている。

皮膚という迂回路

具体的な例がある。

本文に、Godard の示唆として書かれている。固有受容の感覚が損なわれている人でも、皮膚の感覚に働きかけると、動きの質が変わる。皮膚をつまんで引き抜くように動かす、といった具体も添えられている。

皮膚の感覚は固有受容そのものではないが、それに似た働きをする。本はこれを proprioceptive-like と書く。正面から入れないときに、迂回できる道がある。

知覚は、行為である

ロルフィングの側にも、同じことを言った文章がある。Aline Newton 先生が1995年に書いた解説だ。知覚を変えると筋肉の発火のパターンが変わる、という実験を示したうえで、こう結んでいる。

Perception is a form of intentionality, a movement in a direction.

知覚は志向性の1つの形であり、ある方向への動きである。

知覚は、受け取ることではなく、向かうことだ。冒頭で見た語源が、ここで戻ってくる。per(通して)capere(取る)。掴み取る、という手つきである。だから、知覚を変えることが、そのまま身体の使われ方を変える。その実験については、Tonic Function は、何を見ているのかに書いた。

想像力は、知覚と同じ1つの働きである

序文でいちばん大きいのが、この一文だと思う。

多くの論者が強調してきたように、想像力の働きと知覚の働きは、1つの同じ現象を指している。

だから、教える側の仕事はこうなる。

The teacher’s function should be to rehabilitate the imagination in areas of fixation.

教える人の役割は、固着した領域において、想像力を回復させることである。

知覚と想像力が同じ働きなら、想像することは逃避でも気休めでもない。知覚を動かす、直接の手立てになる。セッションで方向のイメージやたとえを使うのは、そのためだ。

見ることは、すでに投影である

ここまではクライアントの側の話だった。同じことが、施術する側にも起きている。

Godard は序文で、知覚の行為は、探索しようとする意図からも、感じ取られる対象からも切り離せない、と書く。例が2つある。

手。手が感じ取るものは、触診している筋肉の活動と、自分の身体の内部の地図と、触れている対象について自分が持っている先入観に左右される。

眼。ものの見え方は、眼を動かす筋肉の活動に左右される。その筋肉は、内耳の仕組みによって重力の方向に従っている。さらに、情動がその対象に与えている意味にも左右される。

触れる前から、見る前から、すでに投影が始まっている。触れれば分かる、というのは正確ではない。触れたときに感じるものの一部は、自分が持ち込んだものだ。

Godard がダンスについて書いた文章には、見る側に起きることが出てくる。他人の動きを見ていると、見ている人の内側に、自分の身体の動きの感覚がただちに生まれる。見えているものと感じられているものは、切り離せない。

私たちを支えているのは、自分の重さの感覚だ。これがあるから、舞台と現実を取り違えずにすむ。列車の中で、自分の列車が動いたのか隣が動いたのか分からなくなることがある。その距離が揺らぎ、自分の重さの確かさを失ったとき、見ている人は部分的に相手の重さになる。

Godard はこれを、動きの共感、あるいは重力の伝染と呼ぶ。施術の現場でも、同じことは起きていると思う。

変化は、起こすものではない

この本に、繰り返し出てくる言い方がある。happy accident。幸運な偶然。

新しい協調は、新しい知覚を許すところから生じる。けれども、狙って起こせるものではない。できるのは、条件を整えて確率を上げることだけだ。本は、どの練習もそれだけでは何かを回復させはしない、と書く。試すことで、新しいことが起こる確率を上げる。

目指しているものもはっきり書かれている。新しい、より良い形を身につけることではない。形が変わりうると、見つけることだ。

整えるのではなく、整う力に委ねる

なぜ、条件を整えるだけで何かが起こるのか。この仕事が前提にしていることがある。

ロルフ・インスティテュートの実践基準に、こうある。人はそれぞれ、最適な組織化のための内在的なパターンを持ち、そのパターンは本質的に自己組織的である。

2025年のアドバンスト・トレーニングでも、同じことを別の言い方で受け取った。身体は自己調整できると信じる。コーチングの訓練で教わった前提も、ほとんど同じ形をしている。人は生まれつき、創造的で、力を備えていて、欠けたところがない。

施術者が身体を正しい形に組み立てるのではない。組み立てる力は、もともと相手の側にある。できるのは、その力が働きはじめる条件を整えることだけだ。

ここは、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)の仕事と重なると思う。生きているものは、自分で自分を作り続けている。知覚もまた、外から入るものを受け取る装置ではなく、その自分を作り続ける働きの一部として立ち上がる。

ただし、ヴァレラとロルフィングのあいだに人のつながりがあったという記録は、手元にない。Ida Rolf も Godard も、ヴァレラに言及していない。別々の場所から出発して、同じところに届いていた。そう書くのが正確だと思う。

もう1つ、Godard の言い回しとして引かれている言葉がある。抑制を、抑制する。

私たちは、世界に対処するために物語を作る。出来事を思い出し、絵にしたり、自分に語り直したりする。他者についての物語を、感覚の印象に置き換えていくこと。そこで、失敗に対する防御の力を、鎮めることを学べる。

「力を抜く」という言い方より、こちらのほうが正確だと思う。抜くのは力ではなく、身構えのほうだ。

序文の最後に、ペネロペの比喩が出てくる。夫の帰りを待ちながら、昼に織った布を夜ごとほどいた人だ。

私たちは、自分の知覚と協調を、毎日ほどかなければならない。可能性が開いている瞬間を引き延ばし、新しい身ぶりがもう1度やって来ることを許すために。

わかっていること、まだわからないこと

ここまで書いてきたのは、身体の仕事をしている人間から見た知覚の捉え方であって、知覚についての定説ではない。

定義そのものが、人によって違う。Kevin Frank、ヴァレラ、ノエ。近い場所にいるが、同じではない。まだ1つの言葉になっていない問いだ。

そして、資料にあることと、私自身の見立ての境も引いておきたい。

概念が先にあると見えること。動くことで見えるようになること。この2つを並べて「知覚は上からと下からの両方で作られている」と書いた。けれども、これは私の見立てであって、どこかに書かれていたことではない。2つを並べたときに、そう見えたというだけだ。

ここで紹介した知見は、手が触れている相手をどう捉えるかという見方を新しくするものであって、何かの効能を約束するものではない。

この先にあるもの

知覚を問い始めると、いずれ哲学の領域に入る。

この記事では、身体の仕事の側から書いた。なぜ力学のモデルでは足りないのか、というところまでは触れた。その先にある系譜そのもの──フッサールからハイデガー、メルロ=ポンティ、ヴァレラまで──は、別に場所を作って扱った(「現象学とロルフィング──ボディワーカーのための、身体の見方」)。

参考文献

  • Caryn McHose & Kevin Frank, How Life Moves: Explorations in Meaning and Body Awareness, North Atlantic Books, 2006. Hubert Godard による序文。第1章と第2章の日本語訳が、日本ロルフィング協会により2009年3月に作られ、著者のサイトで公開されている
  • Hubert Godard, “Le geste et sa perception”(1995年). La danse au XXe siècle, Bordas/Larousse, 1998 の後書き
  • Rodolfo Llinás, I of the Vortex, MIT Press, 2001
  • 池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』
  • Alva Noë, Out of Our Heads, Hill and Wang, 2009
  • Francisco J. Varela, Evan Thompson & Eleanor Rosch, The Embodied Mind, MIT Press, 1991

自分の知覚に癖があることは、自分では見えません。誰かに見てもらうところからしか、始まらないところがあります。

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この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka