はじめに

これまで二度にわたって、筋膜について書いてきた。一度目は、筋膜が生きて、つながっていること。二度目は、その同じ組織が、感じていること。外から見れば連続体であり、内から感じれば、自分自身を映す感覚の投影にもなる。
今回は、もうひとつの顔をまとめたい。筋膜は、動く組織であり、そして動きによって、生かされている──という視点で。スポーツのことを考えるときも、年齢とともに身体が変わっていくのを感じるときも、避けて通れないことでもある。
カンガルーの跳躍 ──筋膜にためられる力
カンガルーが、あの細い脚で大きく跳べるのは、なぜだろう。
秘密は、筋肉の力だけにあるのではない。アキレス腱や筋膜が、バンジーのゴムや輪ゴムのように、いったん力を蓄え、それを跳ね返す──弾性反発(リコイル)の働きにある。着地のたびに組織が伸びてエネルギーをため、次のひと跳びでそれを解き放つ。筋肉だけで跳んでいるのではなく、しなやかなバネが助けているのだ。
人間も、歩いたり走ったりするとき、同じ仕組みを使っている。一歩ごとに、腱や筋膜が伸び縮みして、力をためては返す。筋膜は、ただ身体を支えているだけではない。エネルギーをためて返す、しなやかなバネでもある。
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弾性ストッキングから、硬いロープへ
ただし、この弾力は、放っておいて保たれるものではない。
ロルファーであり、筋膜の研究の第一人者のRobert Schleipによれば、動かずにいると、筋膜は弾力のあるストッキングのような状態から、脆くて硬いロープのような状態へと変わっていく。使われない腰の筋膜は薄くなり、わずかな負担でも傷みやすくなる。慢性の腰痛では、筋膜の層どうしが癒着して、本来あるべき滑りが失われていることが少なくない。動かさないものは、しなやかさを手放していく──「使わなければ、失われる(use it or lose it)」なのだ。
そして、時間の話がある。筋肉は数週間の運動で鍛えられるが、筋膜のしなやかさを取り戻すには、もっと長い時間がかかる。Schleipは、三ヶ月ほどの継続が要ると言う。コラーゲンの編み直しは、ゆっくりとした営みだからだ。すぐには変わらない。けれど、続ければ、ちゃんと応えてくれる組織でもある。
スポンジを絞る ──水と、流れ
前回までに触れたように、筋膜の大部分は、抱え込まれた水でできている。
動かす、伸ばす、押す──そのたびに、スポンジを絞るように、古い水が押し出される。そして力をゆるめると、血漿から新しい水が染み込んでくる。多方向に、リズムをもって動かすことで、この入れ替えが起きる。逆に、動かずにいると、水は滞り、代謝の老廃物や炎症にかかわる物質がたまって、組織は脆くなっていく。
第1回で触れた間質──全身を流れる、液体の網──を思い返すと、見えてくるものがある。動くこととは、その流れに手を貸すことでもあるのだ。筋膜を生かしているのは、静かな構造ではなく、絶えず入れ替わる水の循環なのかもしれない。
ひとつながりの線 ──動きは全身を渡る
筋膜が全身に連続していることは、第1回で書いたとおりだ。やわらかな筋膜から腱、骨膜、そして骨まで、支える組織はひとつながりの網としてつながっている。
このつながりを、動きの地図として描いてみせたのが、Tom Meyersの「アナトミートレイン(Anatomy Trains)」という考え方だ。筋肉と筋膜は、一続きの「線(ライン)」として全身を走っている。だから、ある一点に加わった力や緊張は、その場にとどまらず、線をたどって遠くまで伝わっていく。足の裏(足底腱膜)への働きかけが、はるか離れた背中や頭の緊張に届くことがある、とも言われる。
動きは、局所のものではない。ひとつながりの網のなかを、波のように渡っていく。ここでも、Body as an Operating System──身体を、部分の寄せ集めではなく、全体として動く一つの系として捉える視点が、静かに戻ってくる。
断定できないこと、を正直に
ここでも、線を引いておきたい。
ここで紹介した弾性や水分の話の多くは、Schleipらが提唱する「筋膜のトレーニング(fascial fitness)」という考え方にもとづいている。それは魅力的な枠組みだが、なお検証の途上にある領域だ。三ヶ月という数字も、ひとつの目安にすぎない。
そして、これは「ロルフィングが若返らせる」とか「特定の病を防ぐ」といった話ではない。語れるのは、筋膜という組織が、動きによってしなやかさや潤いを保つらしい、という性質についての見方が育ってきた、ということだけだ。効能の約束ではなく、組織と動きの関係として受け取っていただけたら、と思う。わかっていることと、まだわからないことの境は、ていねいに引いておきたい。
おわりに
生きて、感じて、そして動いている。三度にわたって眺めてきた筋膜の、三つの顔である。
どれもが、ひとつの見方に収束していく。身体は、別々の部品を寄せ集めたものではなく、連続して連絡し合い、感じ、動く、ひとつの生きた系なのだ、という見方に。ロルフィングが手を添えているのは、その連続体のしなやかさのほうだ。
そして、いちばん身近な働きかけは、特別な手技ではないのかもしれない。日々、多方向に、弾むように動くこと。子どものように、ぶら下がり、ひねり、跳ねること。そのひとつひとつが、この組織を生かしている。
少しでもこの記事が、ご自身の身体を、動く連続体としてあらためて感じ直すきっかけになればうれしいです。
