ブラジリアン柔術を2年続けて〜距離の取り方と、身体で覚えるということ

はじめに

2024年5月から、ブラジリアン柔術の練習を始めた。ARTA広尾(旧カーペディエム広尾)の道場で、週1回から始めて、今は週3回の習慣が定着している。現在は白帯にストライプが2本。50代になってから新しく始めたことだが、2年が過ぎて、身体の使い方について気づいたことがいくつかある。ヨガとロルフィングで追究してきたことと、重なるところも、まったく違うところもあった。

始めたきっかけ

直接のきっかけは、Joe Roganだった。世界で最も聴かれているポッドキャスト番組を持つ彼が、柔術をやったほうがいいと繰り返し勧めている。番組を聴いていて、その話が耳に残った。

もう一つ、はるか以前の記憶がある。UFCでのホイス・グレイシー、そしてPRIDEでのヒクソン・グレイシーの試合を見たことだ。当時は柔術という競技についてほとんど何も知らなかったが、力で相手を圧倒しているのではない何かがそこにあることは、見ていてわかった。体格で上回る相手が、なぜか動けなくなっていく。20年以上経ってから、その正体を自分の身体で確かめることになるとは思っていなかった。

練習の構成

道場のクラスは1時間で、いくつかの種類がある。

ドリルとテクニックのクラスは、テクニックの練習のみで1時間。基礎クラスはスパーリングが短く、オールベルトクラスは半分がスパーリングにあてられる。

私がメインで出ているのは、午前7時から始まるドリルとテクニックのクラスだ。朝の時間帯に身体を動かすことで一日が始まる、という実際的な理由もあるが、それ以上に、基礎の動きがヨガのポーズとはまったく違う質を持っていることが大きい。この点については次の節で書く。

朝一番のクラスでお世話になっている先生は、ディフェンスの仕方から入る。攻めるための技ではなく、崩されない形、逃げる形から教わる。これが基礎の動きとして勉強になる。守ることを先に覚えると、攻めるときに何が起きているのかが見えてくる。

受け身の練習も、同じ理由で重要だと感じている。柔術では投げられ、倒され、押し潰される場面が絶えずある。その全てに対して、身体が安全に着地する形を覚えていなければ、練習そのものが続かない。受け身は技術の中でもっとも地味な部類に入るが、これができているかどうかで、練習量の上限が決まってくる。

アシュタンガ・ヴィンヤーサ・ヨガに足りなかった面

以前、ヨガとロルフィングの関係について書いたときに触れたことがある。アシュタンガ・ヴィンヤーサ・ヨガのプライマリーシリーズは、前屈・後屈という矢状面(前後の動き)を中心に構成されている。水平面(回旋)や前額面(左右の動き)の要素は相対的に少ない。長年この偏ったパターンを繰り返すと、筋膜にその偏りが刻まれていく(「ヨガ × ロルフィング Gateway ── なぜヨガを続けても「届かない層」があるのか|アシュタンガ20年・ロルフィングとの出会い」参照)。

8年ほど続けた2014年頃にそのことに気づいたのが、ロルフィングを探し始めたきっかけだった。

柔術の基礎の動きは、まさにその足りなかった面にある。エビは骨盤の回旋と側方への移動であり、ブリッジは後屈に見えて実際には片側へのねじれを伴う。テクニカルスタンドアップは、体重を斜めに移しながら支持点を入れ替えていく動きだ。床の上で身体を回し、横へずらし、ねじる。矢状面ではまったく足りない領域が、練習の中心にある。

しかも、ヨガのアーサナは基本的に自分ひとりで完結する。左右対称に組まれた形を、自分の身体の中で作っていく。柔術の動きは、相手がいることを前提にしている。20年以上ヨガを続けてきた身体にとって、これはまったく新しい負荷だった。身体のバランスという意味で、非常に良い。

覚えては忘れる

テクニックは、毎回練習しては忘れる。その繰り返しだった。

先週やった技を、今週の頭でもう思い出せない。順序が飛ぶ。手の位置が違う。それでも不思議なことに、徐々に動きがわかってくる。頭で覚えているわけではないのに、身体がその形へ向かい始める。

この過程は、ロルフィングの手技を覚えた時期とよく似ていた。基礎トレーニングで習った手順を、最初は何度も確認しながら行っていたものが、ある時期から確認せずに手が動くようになる。その移行がいつ起きたのかは、後から振り返らないとわからない。柔術でも同じことが起きている。

そして、頭で考えると何もできなくなる。これは練習を始めてすぐに気づいたことだった。スパーリング中に「次はあの技を」と考えた瞬間、身体が止まる。相手はその隙に動いている。身体で覚えたこと、無意識にできることのほうが、はるかに出やすい。

身体に落とし込むには時間がかかる。2年やってみて、この一点はどうしようもないとわかった。近道はない。

頭のスポーツでもある

一方で、柔術は頭のスポーツでもある。

考えると動けなくなるのに、頭を使わなければ勝てない。矛盾しているようだが、使う場所が違う。スパーリングの最中に考えるのではなく、その前後で考える。相手がこの形に来たとき、自分はどの選択肢を持っているか。その選択肢の数が、そのまま実力になる。

柔術がしばしばチェスに喩えられるのは、この点だろう。技には返し技があり、返し技にはさらに返し技がある。同じポジションからでも、相手の反応によって進む先が枝分かれしていく。どれだけレパートリーがあるかが試される競技だ。持っている手が一つしかなければ、それを潰された時点で終わる。

だから、練習しては忘れるテクニックも、無駄ではない。忘れたと思っていた形が、ある局面でふと出てくることがある。頭で引き出しているのではなく、その状況が引き出している。レパートリーを増やすとは、頭の中の一覧表を長くすることではなく、身体が反応できる状況の種類を増やすことなのだと思う。

距離の取り方

2年でもっとも大きな気づきは、相手との距離の取り方だった。

柔術は組み技なので、相手と密着する。しかし密着していれば距離がないかというと、そうではない。近すぎても遠すぎても技はかからない。適切な距離があり、それは相手の体格、姿勢、その瞬間の重心によって毎回違う。この距離を測ることが、技術の中心にある。

そして、距離を測るには、自分の側に基準が要る。相手だけを見ていては測れない。自分の足がどこにあるのか、背中側に何があるのか——それを感じながら組む必要がある。頭で相手の動きを追いかけているうちは、距離は測れない。

ロルフィングのアドバンスト・トレーニングで、Neutralを育てる方法の一つとしてFinding Back Space(背後の空間を感じる)を教わった。「いま・ここ」に意識が偏りすぎると身体が縮こまり、前のめりになる。意図して背中側の空間を感じ取ることで、重心が中央に戻る。

道場でこの言葉を思い出すことは、練習中にはない。しかし、うまく動けた日と動けなかった日を後から比べると、違いはそこにあった。背中側が感じられている日は、相手の動きに対して余裕がある。前だけになっている日は、押されて終わる。

リスペクトと領域

もう一つ、距離について考えるようになったことがある。

相手をリスペクトしながら技をかける、というのが、どういうことなのか。柔術は相手を制する競技だが、相手は道具ではない。組み合う相手の身体には、その人の領域がある。そこへ入っていくときの入り方に、質の違いがある。

以前、パーソナル・スペースについて書いたときに、Territorial BodyとBody of Actionという2つの層について触れた。身体の周囲には、自分の領域として保持される層と、外へ働きかけるために伸びていく層がある。柔術で距離を測るとは、この2つを同時に扱うことにほかならない。自分の領域を保ったまま、相手の領域へ入っていく(「空間の感じ方は人によって違う〜Tonic Functionとパーソナル・スペース」)。

これは、ロルフィングのセッションで起きていることと同じだった。触れるとは、相手の領域に入ることである。自分の領域を失ったまま入れば、それは侵入にしかならない。手技として何をするかより前に、どういう状態で触れるかが結果を決めている。

施術する側と、組み合う側で、必要になるものが変わらない。このことに気づいたのが、2年間でもっとも大きな収穫だったと思う。

力を抜くこと、怪我をしないこと

達人ほど、力を抜くのが上手い。

上位の帯の方とスパーリングをすると、まず力を感じない。押されている感覚がないのに、いつのまにか動けなくなっている。逆に、始めたばかりの人ほど力が入る。私自身がそうだった。力で解決しようとすると、相手の力とぶつかり、消耗し、そして怪我をする。

ホイスとヒクソンの試合を見て感じたのは、おそらくこのことだったのだと思う。力で圧倒しているように見えないのに、相手が動けなくなっていく。当時は説明できなかったが、今は少しだけわかる。

力を抜くのが上手い人は、怪我をしにくい。この相関は、道場で見ていると明らかだった。力が入っている身体は、想定外の方向に動かされたときに対応できない。抜けている身体は、その方向へ一緒に動くことができる。

怪我をしないために大事だと感じているのは、3つある。

  • 1つ目は、受け身が身についていること。
  • 2つ目は、全身を使うこと。腕だけ、脚だけで何かをしようとすると、その部分に負荷が集中する。
  • 3つ目は、ストレッチを行うこと。当たり前のようだが、練習量が増えるほど、その重要性が実感として増していく。

50代で新しいことを始めると、身体が回復する速度が以前とは違うことを自覚せざるを得ない。それは制約だが、同時に、力に頼らない動き方を探す動機にもなっている。

初心者でいること

もうすぐ3年目に入る。白帯にストライプが2本という段階で、上位の方と組めば、依然として何もできない時間が続く。この状態でいられることが、実は良いのだと思う。

初心者の心には多くの可能性があるが、専門家の心には可能性がほとんどない。ロルフィングのトレーニング中に教わった鈴木俊隆の言葉を、道場で何度も思い出している。ロルフィングを10年以上提供してきた身体で、まったく別の分野の白帯として床に転がる。失敗をたくさんできる場所を持っていることは、謙虚に物事へ取り組む機会として貴重だ。

そのうち試合にも出て、様々な方々の胸を借りながら、少しずつ上達していければと考えている。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka