この記事は、2022年11月に書いたものに、2026年9月に加筆したものです。当時は、フランス人ロルファーのウベア・ゴダール(Hubert Godard)へのインタビューから、一部だけを紹介していました。今回は全文を読み直しています。空間とトポスの区別、側弯、満員電車の話は当時のものを引き継ぎ、そこに、歴史としての空間、期待と黒い穴、絵画と舞台、文化による違い、二つの定位を書き足しました。
はじめに
ドイツで基礎トレーニングを受けていたとき、印象に残っているワークがある。一人を立たせて、左から、右から、正面から、ゆっくり近づいていく。その人が世界をどう知覚しているかを見る、というものだった。
私が立って、同僚が歩いた。左から近づかれると警戒感があり、右と正面では何も起きなかった。同じ課程にいた、ニュージーランドに住んだことのある、デンマーク在住のアメリカ人は違った。正面から近づかれると警戒した。同じ部屋の、同じ距離である。それでも、起きていることが違った。
このとき私は、これを「人によって感じ方が違う」という話として受け取っていた。そうではなかった。
ウベア・ゴダールは、Rolf Movement の理論を作った人である。2005年のインタビューで、空間についてまとまった話をしている。そこに、あのワークで起きていたことが書かれていた。この記事は、そのインタビューを読み直したものである。出典は、Caryn McHose による「Phenomenological Space: Interview with Hubert Godard」(Contact Quarterly, Summer/Fall 2006, pp. 32-38)。2005年6月、カナダのブリティッシュコロンビアで収録された。編集には Kevin Frank が協力している。
空間と、トポス
ウベアは、二つの語を分けて使う。トポス(topos)は、実在の、地理的で、測れる空間である。100平米は、誰が測っても100平米になる。空間(space)は違う。世界との関係の、想像的な構築であり、その人の物語に結びついている。
私は以前、この定義を Imaginary building of our relationship to the world と書いた。ここで効いているのは「想像的な(imaginary)」という語である。一人ひとりが、違うものを見ている。そして、人が誰かと出会い、関わるとき、そこにあるのは二つの混合だ。
この二つは、性質が違う。トポスには一貫性があり、空間は均質になれない。空間のほうは個別で、主観的で、歴史と意味の連想に左右される。
冒頭のワークに戻る。トポスは同じだった。同じ部屋、同じ距離、同じ速さで近づく同僚。違っていたのは、空間のほうである。
空間は、歴史でできている
では、その空間は何でできているのか。ウベアは、歴史だと言う。私たちの歴史の中に、傷ついた場所があり、素晴らしかった場所がある。最初の三か月、初恋、母、両親。それが主観的な空間の大部分を作る。
親に怒鳴られたとき、親は左にいたのか、右にいたのか。事故に遭ったとき、衝撃は左から来たのか、右から来たのか。その後、人はその方向を避けるように世界を解釈し直す。トポスが広くても、その方向の空間は狭いままになる。
キネスフィアは、遠近の勾配である
身体の周りの空間を、ダンスの世界ではキネスフィア(kinesphere)と呼ぶ。ウベアは、これを「遠近の勾配(gradient of perspective)」と言い直している。自分の身体の周りの空間に、どこまで気づけるかの幅である。
ある方向は塞がれている。ある方向は遥かに遠い。ある方向は近視的になっている。球ではなく、方向によってむらのある勾配だ。私の左は、塞がれていた。
期待が空間を作り、黒い穴が空間を塞ぐ
空間を作っているものが、もう一つある。期待である。私たちは、空間をただ見ていることがない。見る前から、すでにそこへ投影している。
ウベアは、公演の例を挙げる。劇場に入り、まだ誰もいない舞台を見ているとき、すでにそこで人が踊っている。踊り手が出てくる前に、期待のダンスが始まっている。期待が、空間を活気づけ(dynamizing)、形を与えている(vectoralizing)。
この「形を与える」という働きに、裏側がある。欲望のベクトルが自分から出ていき、文脈や状況に部分的に変えられて、戻ってくる。歴史の中にその方向が開いていれば、進める。開いていなければ、壁にぶつかる。ウベアは、その開いていない場所を黒い穴と呼ぶ。欠けた空間、知覚されなかった空間である。私たちが生きているのは、期待と欲望と歴史の対決であることが多い。
This desire, this vector, is going out of me and comes back partially transformed by the context or situation. The vector of my vision is superimposed with another vector—the vector of my history, where the space is full of my own phantoms or black holes.
If I’m projecting in a space where there is an open place allowed by my history, I can go on; but if in my history there was a black hole—a missing or unperceived space—I will meet a wall. And very often what we are living is a confrontation between expectation, desire, and history.
この欲望、このベクトルは、私から出ていき、文脈や状況によって部分的に変えられて戻ってくる。私の視覚のベクトルには、もう一つのベクトルが重ね合わされている。私の歴史のベクトルであり、そこでは空間が、私自身の亡霊や黒い穴で満ちている。
自分の歴史が許した開かれた場所のある空間へ投影しているなら、私は進んでいける。けれども、自分の歴史に黒い穴──欠けた空間、あるいは知覚されなかった空間──があったなら、壁にぶつかる。そして私たちが生きているのは、期待と欲望と歴史の対決であることが、とても多い。
絵と舞台が、空間を作る
ウベアは、絵の話をする。ブリューゲルの『冬の風景』に、なぜ多くの人が心を動かされるのか。見る者が置かれている位置のためだ、と彼は言う。街を少し離れたところから見下ろしていて、しかも、まだ街の中にいる。離れてもいるし、属してもいる。村の暮らしを見る、一つの視点である。絵を描くことは、空間を築くことだ。
もう一人、マティスが出てくる。モロッコへの旅のあと、彼の人生は完全に変わった。絵の中で、地のほうが図より重要になった。空間の見方が変わった、ということである。この話は重力という見方──身体と重力の関係を捉える Tonic Functionでも扱っているが、あちらではウベアがどこで非皮質的な視線を得たのかという文脈に入っている。同じ事実が、別の問いに答えている。
この状況で、何が動きとして可能か
舞台では、装置と照明が perspective を変える。踊り手も、別種の空間に包まれる観客も、それを強く感じる。装置が関わっているのは、意味よりも、perspective と期待の配置をまるごと変えることである。
個人の歴史と、社会的・地理的な文脈。この二つを合わせると、いまの状況で何が動きとして可能かが決まる。ウベアは、ここで名前を一つ挙げる。知覚心理学者のジェームズ・ギブソン(James Gibson)が、これを affordance と呼んだ。空間は、完全に形づけられている。空っぽの入れ物があって、そこで何をしてもよいのではない。
ニジンスキーの、できないこと
例として、ニジンスキーが挙がる。多くのバレエに、攻撃的な動きの潜在性がないとウベアは言う。『ペトルーシュカ』のニジンスキーは、完全に訓練の内側にいる。周囲の空間を恐れ、自分の領土を守ることを恐れている。彼の行為の空間には、攻撃に対して防御する能力がない。観客は物語が分からなくても、その不可能性を掴む。
そして、こういう話が続く。第一次大戦が始まる直前、裕福な人々のサロンに招かれた日に、ニジンスキーは「今から戦争を即興する」と言って踊りはじめ、気を失った。二度と戻らなかった。
ニジンスキーが人の心を打つのは、跳躍ではない。その甘さ、無垢さ、傷つきやすさである。強く跳ぶ能力の下に、それがあった。ここでウベアは、一つ言い足す。「欠けている」とは、そこにない動きのことだけではない。舞台で「叫び」であるものは、抑圧された身ぶりである。
What was so evocative about Nijinsky was not his leap but his sweetness—his innocence and vulnerability—which was under his strong capacity to move and jump. And, of course, it is very attractive to meet somebody who is strong and non-aggressive. We understand the fact that there is a missing gesture. When I say “absent or missing,” I don’t just mean a movement that is not there. You know, I can make the movement, but you also see there is a gesture that I cannot do on another level. What is “yelling” on stage is a repressed gesture.
ニジンスキーについてそれほど心を動かすものだったのは、彼の跳躍ではなく、その甘さ──無垢さと傷つきやすさ──だった。それは、力強く動き、跳ぶ能力の下にあった。そしてもちろん、強くありながら攻撃的でない人に出会うことは、とても魅力的である。私たちは、そこに欠けた身ぶりがあるという事実を理解する。「不在の、あるいは欠けた」と言うとき、私が意味しているのは、そこにない動きのことだけではない。その動きを、私はできる。けれども、別の水準で私にはできない身ぶりがあることも、見て取れる。舞台で「叫び」であるものは、抑圧された身ぶりである。
ライオンの空間と、ガゼルの空間
自然の中で、ライオンの空間とガゼルの空間は同じではない。人も同じだ、とウベアは言う。ガゼルの空間を持つ人がいて、ライオンの空間を持つ人がいる。
コンタクト・ダンスについても触れている。重要なのは、交渉し直す道だからだ。まず他者との距離、次に空間の vectorization、そして知覚の多くの層。深いところで空間の問いに触れる、きわめて直接的なやり方である。各人の歴史に触れ、社会のタブーに触れる。
側弯は、空間にある
ここからは、受ける側にも関わる話になる。側弯は、身体の中にあるのではない。空間の中にある。ウベアは、そう言い切っている。空間の側弯が、身体の側弯をもたらす。だから、知覚を組織し直す必要がある。
施術で側弯を良くすることはできる。けれども、戻ってくる。空間を作っているのは知覚のほうだから、そこに働きかけなければ、変化は起きない。私たちは身体に働きかけ続けて、空間に働きかけることを忘れがちだ。ウベアは自分について、身体を操作する代わりに空間だけに働きかけて、うまくいった経験があるとも述べている。
キネスフィアが見える
人の知覚のあり方に働きかけ、それに敏感でいると、その人のキネスフィアが見えるようになる。右へ漏れる、右へ傾く、右を見る。そして左には、投影する能力がない。そういうことがある。ウベアは、その欠けをもたらすものを人生の事故と呼ぶ。冒頭のワークで、私の左が塞がれていた。あれは、そういうものとして見られていた。
時期についての指摘もある。人は側弯を持って生まれるのではない。人生の後から、8歳以降に起きる。何かが起きた瞬間に始まる。
両方向に働く
ここで、向きが逆になる話が入る。空間は身体の中にあり、身体は空間の中にある。だから、空間に働きかければ身体に働きかけることになり、身体の具体的なところを変えれば、その人の空間の知覚の仕方が変わる。ロルフィングが手で触れているのは、この両方向のうちの一方である。
空間は、文化で違う
個人の歴史の次は、文化である。どの文化にも、空間の使い方に固有のやり方がある。ウベアが挙げるのは、日本と米国中西部の対比だ。日本では、人が互いに詰め合って暮らしているのに、一人ひとりが大きなキネスフィアを持てる。トポスは狭いのに、空間は大きい。中西部の都市は逆で、巨大なトポスに、限られたキネスフィア。
満員電車を思い出す。トポスは、ほとんど残っていない。それでも、自分の空間が侵されている感覚がない人がいる。
一メートルは、一センチにも一キロにもなる
文化の文脈における空間の知覚と使用を研究する分野を、プロクセミクス(proxemics)という。記号論の一分野で、エドワード・T・ホール(Edward T. Hall)が大きく貢献した。
ウベアが挙げる実験がある。百人を、互いに一メートル以内に置いて、距離を尋ねる。一センチだと言う人がいて、一キロだと言う人がいる。この主観性は、個人史と期待、そして社会的な文脈によって組織されている。
地理も関わる。大きな山の前に人を置くと、身体が反応する。本人が気づかないまま、背丈が変わる。山に囲まれて生きてきた人が平地へ来ると、奇妙に感じる。都市で暮らせば、歩き方が変わる。
「正統な遠近法」という言い方
ここから、話が一段大きくなる。アルベルティが遠近法の規則を定め、ラテン語で perspectiva legitima と呼んだ。「正統な遠近法」である。あたかも、正統な遠近法が一つあるかのように。ウベアは、この語が社会の投影された階層の隠喩として働いている、と見る。
各文化が、それぞれの遠近法を持っている。西洋文化は、正統なものが一つあると宣言する。そして、日本では、消失点がしばしば背後にある。
地理的な植民地化は、よく知られている。文化的な植民地化のほうが、きわめて強い。そのことが忘れられている、とウベアは言う。演じることと踊ることの歴史、そして絵画の歴史は、どこにどのように地平線を築くかに左右されている。
空間は、存在しない
ここまでの見取り図を、ウベアは一度まとめている。空間は──トポスではなく空間は──行為の想像的な空間であり、存在しない。時間と歴史の外に、空間との接触はない。文脈と私の歴史が、身体全体の所作として何が起こりうるかを与えている。
だから、空っぽの空間というものはない。空間は満たされていないのではなく、行為の空間なのだ。ある空間が怖いのは、そこで何が起こりうるかを恐れているからであり、ある空間に惹かれるのは、そこへ入っていけるからである。
場所がない、という場所
個人史の空間、期待の空間、社会の空間、地理の空間。その後に、ウベアは非空間へ行く。utopia である。ギリシャ語で「topos がない」「場所がない」。「内と外」「私と空間」が同じになる、行為の空間である。一つしかない。ボディワークとダンスにおける目標は、行為の全潜在力を開くことだ、と彼は言う。
After we talk of the space of personal history, the space of expectation, the sociological space, and the geographical space, we come to a non-space, which is the meaning of utopia (Greek: literally “no topos” or “no place”). This is the space of action in which “inside/outside,” “me and the space,” are the same. There is just one. It is movement, a space with all the movement happening in space. And this is a goal in bodywork and dance—to open the full potential for action.
個人史の空間、期待の空間、社会的な空間、地理的な空間について語ったあと、私たちは非空間に至る。それが utopia の意味である(ギリシャ語で、文字どおり「topos がない」「場所がない」)。これは、「内と外」「私と空間」が同じになる、行為の空間である。一つしかない。それは運動であり、あらゆる運動が空間の中で起きている、そういう空間である。そしてこれが、ボディワークとダンスにおける一つの目標である。行為の全潜在力を開くこと。
見ることと、空間に開いていること
ウベアは、モロッコには視線を周辺的にさせる何かがある、と言う。彼自身が、モロッコの生まれである。名づけることについての見方ではなくなり、空間と直に溶け合う。この見方ができると、身体を読むのが楽になる。人を、自分の主観的な空間に取り込めるからだ。この非皮質的な視線については、重力という見方──身体と重力の関係を捉える Tonic Functionで扱っている。モロッコ、絵画史、そして私自身の2015年の旅が、あちらではひとつながりになっている。
ウベアは、自分の考えがどこから出てきたかも話している。ダンスを教えることから形づくられた、と。話し方、語り方によって、人の踊り方が変わる。それを理解しようとして、「空間は支えである」というところに至った。
地面から組み立てるか、胸から吊られるか
ダンスの流派の違いが、例として出てくる。マーサ・グレアム(Martha Graham)は、完全に地面から組み立てる。ドリス・ハンフリー(Doris Humphrey)とホセ・リモン(José Limón)は、胸から吊られている。ハンフリーの主観的な空間の構築は、地平線である。グレアムはきわめて領土的で、自分が何を欲しいかを知っている。空間の型が、動きの型になっている。
そして、ウベアはこうまとめる。動きやすさには、地面への定位と、空間への定位の両方が要る。そして、自分がどう空間を築いてきたかという「人生の偶然」が、身体の収縮と矛盾に直接の責任を負っている。この探究が、Tonic Function につながった。
具体的な例を一つだけ挙げておきたい。ハムストリングスは、毎日伸ばしても応えないことがある。ところが、知覚を変えて、地面と空へ定位し直すと、すぐ変わる。知覚に働きかけると筋が応える、という例である。ここから先は重力という見方の側の話になる。
期待を減らす
最後に、ウベアは学び方について述べている。地面はどこにでもありうる、と学ぶ。期待を減らすことによって学ぶ。そうすれば、立ち上がってくる空間に自由を与えられる。期待が多すぎれば、空間はもう満杯だ。
冒頭の、期待のダンスの話と対になっている。期待が空間を作り、そして、期待が空間を塞ぐ。
ウベアは、ブルゴーニュの農場の話もする。持ち運べる、具体的な空間である。各人が、自分の空間を見つける必要がある。庭でもいいし、家でもいい。
おわりに
冒頭のワークに、もう一度戻る。左から近づかれると警戒し、右と正面では何も起きなかった。私は、これを感じ方の違いだと思っていた。そうではなかった。私の空間に、左が入っていなかった。
空間はどこにあるのか。身体の外にあり、同時に身体の中にある。そして、どちらの側からも働きかけられる。ウベアが、このインタビューの表題として掲げているのは、一文である。“I’m in the space and the space is in me.” 私が空間の中にいて、空間が私の中にある。
自分の空間がどう塞がれているかは、自分では見えない。誰かに見てもらうところからしか、始まらないところがある。
2026年9月の注記
この記事を最初に書いた2022年には、空間の話はここで終わっていた。その後、同じ主題が三つの場所へ広がった。
一つは身体の側である。ウベアが「この探究が Tonic Function につながった」と言っているところから先は、重力への応答という仕組みの話になる。それを扱うページを、2026年に作った。もう一つは知覚の側である。空間を作っているのが知覚だとすれば、その知覚とは何か。この問いも、別に立てた。三つ目は施術者の側である。目の前の身体をどこから見ているのか。空間に開いている、という見方が、そこにつながっていった。
2022年に書いた「一人一人、違う」は、そこで止まっていた。いまは、違うことの中身を、歴史と期待と文化に分けて言えるようになっている。
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