精神性・身体性・知性〜ロルフィングの基礎トレーニングは、教育として何が面白かったのか

11年分の原稿を読み直している

ロルフィングのホームページを大幅に改訂する(2026年8月末に公開予定)にあたって、いま、11年前の原稿を読み直している。

2014年8月から2015年3月まで、ドイツのミュンヘンでロルフィングの基礎トレーニングを受けた。Phase I、Phase II、Phase III。その最中、ほぼ毎日のようにブログとFacebookに日記を書いていた。授業で聞いたこと、手が届かなかったこと、クライアントとのセッションで起きたこと。教科書と呼べるものが配布されない訓練だったので、自分のために自分で教科書を作っているつもりだった。

その原稿を、いま一本ずつ開いている。誤字を直し、表記を揃え、2026年の時点から見て何が分かったのかを注記として書き足し、その上で英語に訳していく。すでに百本を超えた。

作業のあいだ、繰り返し考えていることがある。あのトレーニングは、教育として何だったのか、ということだ。

教育の三つの核

教育の中核には、精神性、身体性、知性の三つがあると考えている。

どう在るか。どう動くか。何を知るか。この三つは、本来どれも欠けてはならないもののはずだ。

ところが小学校から大学院まで、日本の学校教育を振り返ると、知性の側に大きく傾いている。試験で測れるものが知性の領域に集中しているからだろう。測れないものは、評価の対象から外れ、やがてカリキュラムからも外れていく。

大学院で研究に携わっていた頃、信頼に足るのは定量できるものであり、定量できない感覚的なものは信頼できない、という前提が身体に染み込んでいた。その前提そのものを疑う機会は、ほとんど与えられなかった。

日本の教育の伝統には、三つが揃っていた

2026年の後半、中世日本仏教を年間のテーマとして読み進めている。最澄の著作を第一巻から順に読み、空海の文章に手を伸ばしながら、今後、四国へ足を運ぶ予定だ。読めば読むほど気づかされるのは、かつての日本の教育の仕組みには、三つの核が揃っていたということだ。

比叡山で最澄が定めた学び方は、止観業と遮那業の二つを軸としている。座って観ることと、身体で所作を行うこと。そこに経典の読解が加わる。十二年間、山を降りずに続ける。知識を得るための場所ではなく、人を育てるための時間の設計になっている。

幕末までの寺子屋も同じだ。素読は声に出して読む。手習いは筆を持って書く。いずれも身体を通した学びであり、その反復の先に読み書きの力が育っていく。

茶道、書道、香道も同じ構造を持っている。点前という身体の順序があり、亭主と客のあいだに流れる間があり、道具や書や香木にまつわる知識の層がある。裏千家の稽古に三年通ったことがあるが、稽古の場で起きていることは、手順を覚えることではなく、手順を通じて何かを受け取ることだと感じている。志野流の香を聞く場も同様で、香りは嗅ぐものではなく聞くものだとされる。知覚の側に立たなければ、そもそも入れない世界がそこにある。

ロルフィングの基礎トレーニングは、三つを網羅していた

11年前のトレーニングを振り返ると、この三つがすべてカリキュラムに含まれていた。半年間で最も面白かったのは、その点だった。

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精神性。 ロルファーが自分をどう保つか、という領域である。Phase IIIで講師のJörg Ahrend-Lönsから繰り返し言われたのは、手技の精度ではなかった。body readingの段階で情報が多くなりすぎて混乱し、自分を見失う。クライアントが急に痛みを訴えて、やることが増えて焦る。そこから抜け出すには、深呼吸をして自分を落ち着かせ、身体を地につける。当時の日記には「身体をニュートラルにすること」と書いてある。

Phase IIの講師だったGiovanni Felicioniからは、間を学んだ。中間面談で自分の強みとして挙げられたのが、クライアントに空間を与えること(Hold the space)だった。舞台俳優出身の講師が体現していたのは、技術ではなく、そこに在る質だった。

身体性。 10回シリーズという手順があり、表層、深層、統合という順序がある。だが身体性はそこに留まらない。Phase IIIでは各自が2人のクライアントを担当し、1回のセッション日に6つのセッションを経験する。講師のデモが2つ、自分の担当が2つ、見学が2つ。10回分を通せば60のセッションを見ることになる。自分の手が動くのは20回で、残りの40回は観察している。

この構造には出典がある。アイダ・ロルフが教え始めた当初、カリキュラムはAuditing(観察する段階)とPractitioner(施術する段階)の二つに分かれていた。Auditingの段階では一切施術をせず、ただ観察し続ける。見る目が育つまで情報を与え続けるこの方法は、Saturation Methodと呼ばれる。

知性。 Tonic Functionの仮説、ポリヴェーガル理論、解剖学、ソマティック・エクスペリエンス、現象学(メルロ=ポンティ)。理論の密度は高い。Hubert Godardの理論(仮説)では、姿勢を支える筋の働きに影響を与える要素として、身体の構造、動きの協調、世界の知覚、そして意味づけの四つが挙げられる。構造に働きかけることで、残りの三つに届く。

最も面白かったのは、絵画の歴史だった

そして、最も意外で、最も面白かったのが絵画史の授業である。

西洋絵画の歴史とは、描く者が世界をどのように知覚してきたのか、その変遷の記録として読むことができる。Giovanniはそこから身体の見方へと話を進めた。絵画における背景の扱いが、身体における関節の連なりの見方につながり、足裏の感覚の話になる。頭と顔をどう見るかという回もあった。

なぜこれが面白かったのか。当時ははっきりと言えなかったが、いまなら言える。あれは知覚を鍛えるための教育だったからだ。

Phase IIIの資料に、図形が並んだだけの一枚の絵が出てくる。ただの模様にしか見えない。ところが「この中にキリンがいる」と言われた瞬間、線が一本も足されていないのに、キリンが浮かび上がる。変わったのは絵ではなく、こちらが適切な概念を持ったことだ。身体を観察できるようになるというのは、これと同じ過程をたどる。

Giraffe

大学受験の頃、父にすすめられて読んだピーター・ドラッカーの『新しい現実』に、分析から知覚へ、と題された終章がある。物理的な現象は部分の総和として全体を理解できるが、生物的な現象に部分はなく、すべてが全体である。情報そのものは分析的だが、意味は知覚的な認識である。1990年頃に読んだときには意味がよく分からなかった。ミュンヘンの教室でキリンの絵を見せられて、25年越しに腑に落ちた。

アートの教育を、大学の教養課程で受ける機会はほとんどない。しかしそこにこそ、精神性と身体性と知性の三つが同時に働く場がある。

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11年後に分かったこと

2025年、東京でアドバンスト・トレーニングを受けた。Ray McCallと田畑浩良の両氏のもとで、認定アドバンスト・ロルファーとなった。

原稿を読み直していて驚いたのは、2014年から2015年の日記に、2025年に教わることの原型がすでに書かれていたことだ。ただし名前がついていない。「不思議なことに」「うまく説明できないが」という書き方で、現象だけが記録されている。

現象が先にあり、名前が後から来る。

11年分の原稿に注記を書き足す作業は、その順序を辿り直す作業でもある。当時の自分が名づけられなかったものに、いまなら名前を与えられる。そして名前を得た途端に見えなくなるものもあることを、同時に書き留めておきたいと思っている。

基礎トレーニングから認定までの道のりは、総集編として一本にまとめてある。関心のある方は、そちらもあわせて読んでいただければと思う。

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ヨーロッパのロルファーとしての認定までの歩みについて〜ヨーロッパ・ロルフィング協会・認定トレーニング

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka