【R#397】「赦し」は“いい人になる”ためではない──自分本位・境界線・身体

はじめに

渋谷を拠点にロルフィング®のセッションを行っている大塚英文です。

日々、さまざまな身体に触れながら、「考えること」「感じること」「身体感覚(肚・丹田)」が、自然にひとつの判断としてまとまっていく状態を、セッションを通して支えています。

今回は、セッションの中でも特に強く現れやすいテーマ──過去の出来事に対する「赦し(forgiveness)」を取り上げたい。

赦すという視点が相手本位になっていないか?

クライアントの方が、過去の出来事について語るとき、よくこんな言葉を口にする。

「もう赦したほうがいいですよね。」
「いつまでも怒っているのはよくないですよね。」
「相手のためにも、手放すべきですよね。」

ここに、ひとつの大きな前提が隠れている。

それは、赦しが自分のためではなく、相手のためになっているということ。

私たちは幼い頃から、

  • いい人は赦す
  • 成熟した人は赦す
  • 許せないのは未熟

というメッセージを無意識に受け取っている。

その結果、赦しは「自分を整える行為」ではなく、「相手に与える恩赦」や「道徳的な義務」になってしまう。

赦そうとするとき、すでに自分の中心ではなく、相手の評価や社会的な“正しさ”を基準にしてしまっていることが少なくない。

ロルフィングの視点から見ると、これはとても象徴的と言える。

身体が他者の期待に合わせて歪んでいくのと同じように、赦しもまた、自分の感覚よりも“外側”を基準にすると、内的なCenter(中心)から離れていく。

赦しが苦しいとき、それは未熟だからではありません。まだ自分のハートや肚に戻れていないだけかもしれないのだ。

赦しとは、構造を調和させるセルフケア

ロルフィングでは、身体を「部分の集合」ではなく、ひとつのシステムとして捉える。そしてこのシステムは、重力(Gravity)と関係性の中で絶えず再編成され、バランスを取り直しながら生きている。

誰かを恨んでいるとき、あるいは強い怒り・悲しみ・悔しさを握りしめているとき。私たちの組織(特に筋膜)は、はっきりと収縮し、呼吸は浅くなり、視野は狭くなり、エネルギーのフローは滞りやすくなります。つまり、過去の出来事が“今の身体”の中で、構造として継続してしまう

エグセクティブ・コーチのJoe Hudsonは、クライアントさんの中で、誰かを「赦せない」時、

”Do you have a boundary that makes sure it never happens again?”
(赦しとは、本質的にセルフケアという行為だ。)

以下の質問をすると、Xで紹介している。

ここでの赦しは、相手のための“恩赦”ではない。社会的に「いい人」に見せるための振る舞いでもない。赦しとは、自分と他人との境界線を作り、自分の心身が、再び自分の家に帰るための行為と言える。

赦さないままでいることは、他人との境界線を曖昧な形にし、更に、過去の重荷を背負い続けること。その重荷は、Gravity(重力)との調和を妨げ、直立(Alignment)と自由な呼吸を奪い、人生の選択肢を狭めていく。

赦しとは、相手のためではなく、自分のStructure(構造)を解放する決断なのだと言える。

恨みと境界線:支持基盤(Support)の問題

では、なぜ私たちは、いつまでも恨み(resentment)を握りしめてしまうのだろうか?

「もう終わったこと」
「忘れたほうがいい」
「赦せば楽になる」

頭では理解しているのに、身体が手放さない。その背景についても、Hudsonはうまく言語化している。

“Resentment is what we use when we don’t believe we’re allowed to have limits.”
(恨みとは、自分に「限界」を設けることが許されていないと思い込んでいるときに、私たちが使う代わりの防衛手段と言える)

ここが、とてもロルフィング的と言える。

恨みや怒りは、“悪い感情”というより、支え(Support)が足りないときに身体が発動する、防衛の代替手段

本来は境界線(Boundary)によって守られるはずの領域が守られていない。だから、怒りによってスペースを確保しようとする。しかし怒りで確保するスペースは、代償が大きい。

  • 常に緊張が抜けない
  • 呼吸が浅い
  • 交感神経が過剰に働く
  • 「正しさ/間違い」の思考に閉じ込められる
  • そして何より、心が閉じやすい

明確な境界線を引くことは、自分自身のInner Space(内的なスペース)を安全に保つための、「構造的な支え」になる。恨みは、境界線が立ち上がった瞬間に、役割を終えられる。だから、赦しを急ぐより先に、まず境界線が必要だと言える。


赦しを「必然の副産物」にする3ステップ

赦しは、意志で“やる”ものというより、身体の再統合と同じく、プロセスを経て“起こる”もの。Joe Hudsonのポットキャストでは、赦しを三つのステップで語っていた。以下、ご興味のある方はチェックいただきたい。

私はこれを、ロルフィング的にこう整理することができると考える。

感情の処理(Heart/心)

まずは感情を感じ切ること。怒り、悲しみ、悔しさ、恐れ、恥、無力感。「感じたくない感情」に触れ、身体に残った緊張をリリースしていく。

感情は頭で処理するだけでは終わらない。胸郭、横隔膜、喉、腹、骨盤…身体のどこかに保存されている。そこに触れ直すことが、赦しの第一歩になる。

好奇心(Mind/頭)

次に起こるのは“好奇心”。相手を正当化するのではなく、物語を一度緩める。

「なぜ、この人はこうしたのだろう?」
「どんな傷や背景があったのだろう?」
「何を守ろうとしていたのだろう?」

赦せないとき、私たちは相手を“固定”(ラベル付け、決めつけ)する。悪者/被害者、正しい/間違い。その固定が、心身を閉じさせる。

好奇心は、閉じたMindを開く働きがある。すると、世界の見え方が少し変わり、ハートの硬さも変化していく。

明確な境界線(Gut/肚)

そして最後に、明確な境界線。ここが「構造」の話だ。

  • もう二人きりでは会わない
  • これ以上は受け入れない
  • この条件なら関わる/この条件なら関わらない

境界線が定まると、防衛としての恨みは自然に薄れていく。なぜなら「二度と起こさない」が、怒りではなく構造で支えられるからだ。

この三つが揃ったとき、赦しは“副産物”として起こる。それは「相手を許す」というより、自分のシステムが再び開くという体験と言える。


赦しが成立したかを確認するための、3つのポイント

では、赦しのプロセスが終わり、統合(Integration)が起きたかどうか。どの様に確認するのか?私はセッションの終盤、身体がAlignment(垂直軸)へ戻る瞬間に、次のサインを観察する。

Soma(Gut/肚)

肚の奥に “Clench(握りしめ)” が残っていないか。呼吸が深く入り、足元の支持が戻っているか。境界線が「考え」ではなく、身体感覚として立っているか。

Heart(Emotion/心)

心臓周辺の組織が広がっているか。世界に対して、少しでも開いた感覚があるか。「閉じることで守る」から、「開いたまま守る」へ移行しているか。

Mind(Story/頭)

自分と他者を分断する物語(Story of Separation)が溶け始めているか。“あいつは最悪だ”という固定が緩み、相互関わり(Interconnectedness)を感じられる余白があるか。

この三つが揃うとき、赦しは「正しいこと」ではなく、身体の事実として現れます。

まとめ

赦しをプロセスとして通過したとき、私たちは以前とは違う身体で立つことができる様になる。違う呼吸、違う重心、違う視野。そして違うIdentity(アイデンティティ)。

ここで、とても大切な一言があります。

“Just because I have gone through forgiveness doesn’t mean I have to go spend my vacation time with these people.”
(赦したからといって、その人とバカンスに行く必要はありません。)

赦しと、距離を取ることは両立する。境界線によって安全を確保したまま、心身は自由でいられる。それは、重力の中で軽やかに、そして自分自身のTrue Center(真の中心)から生きるための、静かでパワフルな変容といえよう。

赦しとは、「いい人になること」ではない。赦しとは、「自分のシステムを、もう一度ひらくこと」だ。

少しでもこの投稿が役立つことを願っています。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka