人工知能から問い直す、身体性と上達──ドレイファス『純粋人工知能批判』を読む(第1回|全3回)

自転車の乗り方は、説明できない
自転車に乗れる人は多い。けれども、その乗り方を言葉にして、誰かに教えられるだろうか。
例えば、自転車が傾いたとき、私たちは自然にバランスを取っている。しかし、転びそうになっているときと、曲がるために身体を傾けているときでは、何が違うのだろうか。そして、傾いた瞬間に何をするのか、実際にそうなる前に説明できるだろうか。
おそらく、簡単には説明できない。それでも、自転車には乗れる。
ヒューバート・ドレイファス(Hubert Dreyfus)とスチュアート・ドレイファス(Stuart Dreyfus)の『純粋人工知能批判』(原題 Mind over Machine、1986年。椋田直子訳、アスキー、1987年)は、この自転車の例から第1章を始めている。

兄のヒューバートは哲学者、弟のスチュアートは数学と計算機の専門家である。2人は、人間の知性を計算機で再現しようとする人工知能研究に疑問を投げかけた。
そのために、まず取り上げたのが、人間が何かを身につけ、上達していく過程だった。
パイロット、チェスの指し手、自動車の運転手などを例に、人間の技能習得を5つの段階に分けて説明している。人工知能について書かれた本なのに、なぜ人間の上達について詳しく論じるのだろうか。
それは、人間がどのように熟達するのかを理解しなければ、人工知能が何を再現しようとしているのかも分からないからである。
ロルフィングという、身体に触れる仕事をしている私にとって、この第1章は特に興味深かった。
考えた瞬間に、下手になる
マニュアル車を運転して、街なかを何も考えずに走っている。ギアを変えるタイミングも、自然に分かっている。
ところが、ふと「今は何速に入っているのだろう」「このギアでいいのだろうか」と考え始める。すると、それまで自然にできていた変速が、かえってぎこちなくなる。タイミングを外したり、違うギアに入れたりする。
なぜ、こんなことが起きるのだろうか。
ドレイファス兄弟は、ここで2つの知識を区別している。
1つは、knowing that(何が正しいかを知っていること)。もう1つは、knowing how(実際にできること)である。
例えば、「時速何キロになったらギアを変える」と説明できるのは、前者である。一方、エンジンの音や車の動きから自然にタイミングを感じ取り、変速できるのは後者である。熟練した運転手は、いちいち規則を思い出して運転しているわけではない。むしろ、規則を意識した瞬間に、それまで自然にできていた動作が妨げられることがある。
もう1つ、印象的な例がある。
ドリュー・ポストン(Drew Poston)という空軍大尉は、かつて4発のジェット輸送機を巧みに操縦していた。しかし、その後は教官となり、さらに訓練生の技量を評価する立場へ移ったため、自分で操縦する機会が少なくなっていた。
ある日、基地へ戻る途中でエンジンが1つ停止した。
経験を積み、日常的に飛んでいるパイロットであれば、片側に引かれる機体の動きを自然に補正できる。しかし、操縦から離れていたポストン大尉は、どうすればよいかを考えてから修正した。その結果、修正しすぎてしまい、今度は反対方向へ修正する。機体は左右に揺れながら着陸した。
かつては自然にできていたことが、意識的に規則を使おうとしたために、初心者のような動きへ戻ってしまったのである。
ここで重要なのは、技能は一度身につければ永久に保たれるものではない、ということである。経験を積むことで自然にできるようになったことも、練習から離れると失われる場合がある。
そして、自然にできなくなると、人は再び規則に頼ろうとする。では、そもそも人は、どのようにして規則に頼らずに行動できるようになるのだろうか。
上達には5つの段階がある
ドレイファス兄弟は、パイロット、チェス、自動車の運転、成人の第二言語学習などを検討し、技能習得には共通する5つの段階があると考えた。
| 段階 | 名称 | 特徴 |
|---|---|---|
| 第1段階 | 初心者(novice) | 教わった規則に従う |
| 第2段階 | 上級初心者(advanced beginner) | 経験を通して、状況の違いが分かり始める |
| 第3段階 | 一人前(competent) | 何を重視するかを自分で選び、判断する |
| 第4段階 | 熟練者(proficient) | 状況を直観的に把握するが、行動はまだ考えて決める |
| 第5段階 | 達人(expert) | 状況の把握と行動が自然につながる |
ここで注意したいのは、この5段階が単に知識や技術の量を示しているわけではないということである。
もちろん、上達すればできることも増える。しかし、それ以上に重要なのは、目の前の状況がどのように見えるかが変わっていくことである。
初心者には、何を見ればよいか分からない。経験を積むと、これまで気づかなかった違いが分かるようになる。さらに熟達すると、状況全体を見ただけで、何が重要なのかが自然に分かるようになる。
それぞれの段階を詳しく見ていこう。
第1段階:初心者(novice)──まずは規則を覚える
何かを初めて学ぶとき、私たちは規則を教わる。
例えば、マニュアル車の運転であれば、「時速何キロになったらギアを変える」「前の車とは一定の距離を保つ」といった規則である。これらは、道路が混んでいるか、この先に信号があるかといった具体的な状況とは関係なく使える。
ドレイファス兄弟は、このような特徴を「文脈のない要素(context-free elements)」、それに適用する規則を「文脈のない規則(context-free rules)」と呼んでいる。
初心者は、まだ状況全体を理解できない。だからこそ、誰でも使える明確な規則が必要になる。
自転車の補助輪を考えると分かりやすい。補助輪があれば、まだバランスの取り方が分からなくても、自転車を動かし、経験を積むことができる。しかし、いつまでも補助輪に頼っていては、自分でバランスを取ることを学べない。
規則も同じである。最初は必要だが、上達するためには、いずれ規則だけに頼る段階から進まなければならない。
ここで、人工知能との関係で重要な言葉が登場する。情報処理(information processing)である。ドレイファス兄弟は、明確に定義された要素を、精密な規則によって操作することを情報処理と呼んでいる。
例えば、アルファベットの「E」を見分けるとき、縦線と横線の数や配置を調べ、規則に照らして判断するなら、それは情報処理である。
しかし、何度も「E」を見た経験から、一目で「E」だと分かる場合はどうだろうか。そのとき私たちは、必ずしも線を1本ずつ調べているわけではない。以前に見たものとの似かたから、全体として認識している。
この違いが、後の人工知能批判につながっていく。
第2段階:上級初心者(advanced beginner)──経験によって違いが分かる
実際の経験を積むと、初心者のころには分からなかったことが、少しずつ分かるようになる。
例えば、犬を飼っている人は、たくさんの犬が鳴いていても、自分の犬の鳴き声を聞き分けられることがある。しかし、「その鳴き声のどの特徴によって、自分の犬だと分かるのですか」と尋ねられても、簡単には答えられない。音の高さ、長さ、響き方などを細かく分析しているわけではない。何度も聞いた経験によって、自然に区別できるようになったのである。
コーヒーの香りも同じである。香りを構成する化学物質を一つずつ分析しなくても、私たちはコーヒーの香りだと分かる。
運転であれば、速度計だけでなく、エンジンの音からギアを変えるタイミングが分かるようになる。
看護師であれば、患者の呼吸音を聞き、肺水腫と肺炎の違いを聞き分けられるようになる。
ドレイファス兄弟は、経験を通して認識できるようになる特徴を「状況に応じた要素(situational elements)」と呼んでいる。初心者の段階では、教わった特徴しか分からなかった。しかし、経験を積むことで、言葉では明確に定義できない違いが見え始める。
この段階では、まだ規則を使っている。しかし、規則に当てはめるために必要な情報そのものが、経験によって豊かになっているのである。
第3段階:一人前(competent)──何が重要かを自分で選ぶ
さらに経験を積むと、今度は別の問題が起きる。見えるものが増えすぎるのである。
初心者のころは、何を見ればよいか分からなかった。ところが経験を積むと、注意を向けるべきことが多すぎて、何から手をつければよいのか分からなくなる。
本の中では、看護師の例が紹介されている。
新人看護師に、赤ん坊のバイタルサインを測る、点滴の状態を確認する、人工呼吸器やモニターを点検する、といった手順を教える。すると、新人はその順番を忠実に守ろうとする。しかし、目の前に2人の赤ん坊がいて、一方が激しく泣いていたらどうだろうか。
すべての手順を同じように実行するのではなく、どちらの赤ん坊に何を優先すべきかを判断しなければならない。ところが、新人にはそれが難しい。規則を覚えていることと、状況に応じて優先順位をつけることは、別だからである。
一人前の段階では、状況全体を整理するために、まず1つの方針や計画を選ぶようになる。そして、その方針から見て重要なものに注意を絞る。
例えば、運転手が急いで目的地へ向かうなら、景色の美しさよりも、交通量や道路の混雑を重視するだろう。ここで、それまでとは大きく違うことが起きる。
自分で判断し、その結果に責任を持つようになるのである。
初心者は、教わった規則に従っている。結果が悪くても、規則が適切でなかったのかもしれない、と考えられる。しかし、一人前の段階では、自分で方針を選んでいる。だから、うまくいったときには満足を感じ、失敗したときには後悔する。
感情が関わることで、成功も失敗も強く記憶に残るようになる。ドレイファス兄弟にとって、これは熟達へ向かう重要な転換点だった。上達とは、単に冷静で合理的な判断ができるようになることではない。自分の判断に関わり、その結果を引き受けることが、次の学びを生み出すのである。
第4段階:熟練者(proficient)──状況全体が見えるようになる
次の段階では、状況を理解するために、いちいち方針を選ぶ必要がなくなってくる。経験を積むことで、目の前の状況を見た瞬間に、何が重要なのかが自然に分かるようになる。
例えば、ボクサーは、相手の腕の角度、足の位置、自分との距離を一つずつ計算して、攻撃するタイミングを決めているわけではない。相手の動きと自分の身体の感覚を含めた、状況全体を捉えている。
そして、過去に経験した似た場面とのつながりから、攻撃する好機が分かるのである。ドレイファス兄弟は、これを「全体的な類似性の認識(holistic similarity recognition)」と呼んでいる。
重要なのは、状況を細かい部分に分解してから理解するのではないということである。
例えば、私たちは親しい友人の顔を見たとき、目の形、鼻の高さ、口の幅を一つずつ測定して、その人だと判断しているわけではない。全体を見て、瞬間的に誰なのかが分かる。
熟練者の状況把握も、これに似ている。
ただし、この段階では、状況が分かることと、何をするかを決めることが、まだ完全には一体化していない。
例えば、雨の日にカーブへ近づいたとき、熟練した運転手は、今の速度では速すぎると直観的に分かる。しかし、その後にブレーキを踏むのか、アクセルから足を離すのか、あるいは別の操作をするのかについては、まだ意識的に考える。
つまり、何が起きているかは直観的に分かるが、何をするかは考えて決める段階なのである。
第5段階:達人(expert)──状況に応じて自然に動く
最後の段階では、状況を理解することと、適切に行動することが、自然につながるようになる。
熟達した運転手は、車を操作していることを、いちいち意識していない。むしろ、車と一体になって、道路を走っているように感じている。
歩くときに、私たちが自分の足の筋肉をどう動かすか考えないのと同じである。
熟達したパイロットも、最初は「飛行機を操縦している」と感じていたのが、経験を積むにつれて、ただ「飛んでいる」と感じるようになる。
ここでは、状況を観察し、選択肢を比較し、行動を決めるという手順が、普段の行動の中では意識されなくなっている。
本に出てくる放射線科医の例も興味深い。
経験の浅い医師は、レントゲン写真を見ながら、いくつかの特徴を確認し、それらを組み合わせて診断する。しかし、長年の経験を積んだ医師は、写真を見た瞬間に、ある病態が浮かんでくることがある。何千枚もの写真を見てきた経験によって、画像の模様そのものが、意味のあるものとして見えるようになっているのである。
ドレイファス兄弟は、もし人間の胸がガラスでできていたら、経験の浅い医師でも肺の状態がすぐに分かるだろう、と述べている。
熟達した医師にとって、レントゲン写真が、そのガラス越しに見るようなものになっているとしたら、どうだろうか。ここで起きているのは、単に判断が速くなったことではない。
以前は解釈しなければ分からなかったものが、直接見えるようになったのである。
もちろん、達人がまったく考えなくなるわけではない。予想外の問題が起きたときには、立ち止まって分析することもある。しかし、慣れた状況の中では、規則を一つずつ適用する必要がなくなっている。
合理的でも、非合理的でもない知性
ここまで5つの段階を見てきた。
最初は規則を覚え、その規則に従って行動する。しかし、経験を積むにつれて、目の前の状況の見え方そのものが変わっていく。そして最後には、何をすべきかを考える前に、自然に身体が動くようになる。
では、このような知性を、私たちはどのように理解すればよいのだろうか。
私たちは普段、人間の判断を「合理的」か「非合理的」かのどちらかで考えがちである。合理的な判断とは、情報を集め、分析し、規則に従って結論を出すことである。一方、根拠もなく思いつきで行動することは、非合理的だと考えられる。
しかし、熟達した運転手やパイロットの行動は、そのどちらでもない。いちいち計算しているわけではないが、でたらめに行動しているわけでもない。長年の経験によって、その場にふさわしい行動が自然に生まれているのである。
ドレイファス兄弟は、このような知性を arational と呼んでいる。これは、理性に反するという意味ではない。合理的な計算や推論によらない、という意味である。
つまり、人間の知性には、分析して考える働きだけでなく、経験を通して状況を直接捉える働きがある。この区別が、人工知能について考えるうえで重要になってくる。
なぜなら、当時の人工知能研究は、人間の知性を、情報を規則によって処理する仕組みとして理解しようとしていたからである。
上達すると、規則はどうなるのか
5つの段階を通して見ると、もう1つ重要な変化がある。
それは、規則との関係である。初心者は、規則がなければ何をすればよいか分からない。上級初心者になると、経験によって分かることが増えるが、まだ規則を使って行動している。
一人前になると、何を重視するかを自分で選ぶようになる。熟練者は、状況全体を直観的に捉えられるようになる。そして達人は、慣れた状況であれば、規則を意識しなくても適切に行動できる。
この変化を一言で表すなら、規則に従って行動する段階から、規則を意識しなくても行動できる段階への移行である。もちろん、規則がまったく不要になるわけではない。
例えば、熟達した運転手も、交通規則を無視してよいわけではない。また、予想外の状況では、意識的に判断する必要がある。
ここで問題になっているのは、行動の一つひとつを、頭の中にある規則によって決めているのかどうか、ということである。
ドレイファス兄弟は、熟達者の行動を理解するためには、規則だけでは不十分だと考えた。
その違いを、2つの対比によって説明している。1つは、状況から距離を置いて判断することと、状況に深く関わりながら行動すること。もう1つは、抽象的な規則を使うことと、具体的な状況を直接捉えることである。
上達するにつれて、人は抽象的な規則に頼る段階から、具体的な状況に深く関わる段階へ移っていく。興味深いことに、2人は、これが子どもの認知発達について一般に語られる方向とは逆だと指摘している。
子どもは、最初は具体的な経験を通して世界を理解し、成長するにつれて抽象的な考え方を身につけていく。ところが、大人が新しい技能を学ぶ場合には、まず抽象的な規則から入り、経験を積むにつれて具体的な状況を捉えられるようになる。
つまり、抽象的に考えられることが、必ずしも熟達の最終段階ではないのである。では、なぜ私たちは、知性とは規則に従って考えることだと思いやすいのだろうか。
ドレイファス兄弟は、その背景を古代ギリシャの哲学にまでさかのぼって考えている。
ソクラテスとプラトン──専門家は規則を知っているのか
古代ギリシャの哲学者ソクラテス(Socrates)は、人々に「あなたは何を知っているのか」と問い続けた。
プラトン(Plato)の対話篇『エウテュプロン』には、その典型的な場面がある。エウテュプロン(Euthyphro)は、何が敬虔な行いで、何がそうでないかを見分けられると考えていた。
そこでソクラテスは、何を基準に敬虔な行いを見分けるのか、と尋ねる。しかし、エウテュプロンが答えるのは、具体的な行為の例だった。ソクラテスが求めているのは、個々の例ではない。どのような場合にも当てはまる、一般的な基準である。その基準が分かれば、別の場面でも、何が敬虔なのかを判断できるはずだからである。
ところが、エウテュプロンは、そのような基準をうまく説明できない。ドレイファス兄弟は、ここに重要な問題を見ている。
専門家は、ある状況を見て適切に判断できる。しかし、どうやって判断しているのかを尋ねられると、規則ではなく具体例を挙げることがある。ソクラテスは、職人、詩人、政治家たちに対しても同じように問いかけた。そして、彼らが自分の知識を明確に説明できないことを問題にした。
ドレイファス兄弟によれば、プラトンは、この問題に1つの説明を与えた。
専門家は、本来は規則を知っている。しかし、それを忘れてしまっている。だから哲学者の仕事は、忘れられた知識を思い出させることなのだ、と。これは、ドレイファス兄弟によるプラトンの解釈である。
この考え方では、専門家が自分の判断の規則を説明できなくても、その規則はどこかに存在していることになる。本人が意識していないだけで、頭の中では規則が働いている、というわけである。
そして、ドレイファス兄弟は、1980年代の人工知能研究にも、同じ発想があると考えた。当時、専門家の知識を計算機に取り込もうとする研究が進められていた。専門家に、どのように判断しているのかを尋ねる。そこで得られた経験則を整理し、プログラムにする。そうすれば、計算機も専門家と同じように判断できるのではないか。
いわゆるエキスパートシステムの発想である。しかし、ここには大きな前提がある。専門家の判断は、規則として表現できるはずだ、という前提である。ドレイファス兄弟が疑問を投げかけたのは、まさにこの点だった。
熟達した人が、ある状況を見た瞬間に何をすべきか分かるのは、本当に頭の中で規則を使っているからなのだろうか。
それとも、長年の経験によって、状況そのものが違って見えるようになったからなのだろうか。もし後者だとすれば、専門家から規則を取り出して計算機に入力するだけでは、人間の熟達を十分に再現できないことになる。
この問題こそ、ドレイファス兄弟が人工知能研究に対して投げかけた根本的な問いだった。
次回──11年間のロルフィングの学びを振り返る
ここまで、ドレイファス兄弟の5段階モデルを紹介してきた。
最初は規則を覚える。経験を積むと、規則だけでは分からなかった違いが見えるようになる。さらに経験を積むと、状況全体を捉え、何をすべきかが自然に分かるようになる。
上達とは、単に知識や技術が増えることではない。自分と状況との関わり方が変わり、世界の見え方そのものが変わることでもある。この考え方は、私自身がロルフィングを学んできた経験とも重なる。
2014年に基礎トレーニングを始め、スーパービジョン、ロルフ・ムーブメントを経て、2025年にアドバンスト・トレーニングを修了した。
その11年間を振り返ると、最初は解剖学や手技を覚えることに精一杯だった。しかし、経験を積むにつれて、何を観察するのか、どこに触れるのか、いつ終えるのかという判断が変わっていった。
同じ身体を見ていても、以前とは違うものが見えるようになったのである。次回は、この11年間の学びを、ドレイファス兄弟の5段階に照らして振り返ってみたい。
さらに、ロルフィングを受ける側にも、同じような変化が起きているのではないか、という点について考えてみる。
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- 第2回:手順を、教わらなかった──11年の課程を、身体性から読み直す
- 第3回:分析ではなく、知覚を問う──哲学者が、人工知能の評価を引き受けた理由
