はじめに
先日(2026年11月4日)、一日のヨガ哲学のワークショップに参加した。ヴェーダーンタ(Vedānta)、サーンキヤ(Sāṅkhya)、ヨーガ・スートラ(Yoga Sutras)、タントラ(Tantra)〜ハタヨガ(Hatha Yoga)を、思想ごとに講義と実践をセットにしてたどっていく、という1日だった。
そこで学んだ哲学が、かつてUTL(アンダーザライトヨガスクール)で学んだ哲学と、一味違っていた。
何がどう違ったのか。それを確かめるために、RYT200を受けていた頃のノートを引っ張り出した。2012年8月から2013年1月にかけてのものだ。
216ページ。大半はアシュタンガの練習記録とシークエンスのイラスト、それに解剖学の講義で、ヨガ哲学も含まれていた。読み返してみると、哲学の方は、思っていたよりずっと、まとまった1つの体系だった。
以下、そのノートに残っていたヨガ哲学を、順にたどっていく。走り書きのままでは読みにくいので、文章にほどいてまとめた。
2012年、UTLのヨガ哲学
UTLでヨガ哲学を学んだのは、成瀬貴良さんと、ムニンドラ・K・パンダ(Munindra K. Panda)先生からだった。
成瀬さんのクラスは2回受けている。ただ、この記事ではその中身には触れない。
成瀬さんの本を読んだことも、記憶に残っている。『いまに生きる インドの叡智 ── ヨーガの源流から現代の聖者まで』(善本社、1999年)である。

インダス文明以前からヴェーダ、ウパニシャッド、『バガヴァッド・ギーター』、『ヨーガ・スートラ』、ハタ・ヨーガ、そして近代の聖者たちまでを、古代・中世・近代の3部に分けてたどる本で、巻頭に長い年表がついている。ヨガ哲学を、1つの歴史の流れとして見渡すという形である。
パンダ先生は、インドのBerhampur大学でインド哲学を専攻され、サンスクリット語、インド哲学、ヴェーダ文献の研究に携わってこられた方である。
ノートに「ヨガ哲学 1日目」「ヨガ哲学 2日目」「ヨーガ哲学 3回目 2012/12/1」「ヨガ哲学 第4日 2012/12/7」と見出しが並んでいるのは、パンダ先生の講義のほうだ。以下でたどるのは、この4回(合計12時間)分である。
「Who am I?」── すべては、自分を知らないことから始まる
1日目は、いきなり問いから始まった。
まず、苦しみ(suffering)、悲しみ(sorrow)、恐れ(fear)が並ぶ。ただしこれらは、解くべき問題としてではなく、症状として置かれている。
では、その根にあるものは何か。「私は自分自身をわかっていない」。パンダ先生は、そこを「本当の問題」と名指しした。症状を鎮めるのではなく、症状が出てくる場所まで遡る。最初の15分で、話の向きが決まっている。
そして恐れの中身として、「死」と「病」が挙がる。いちばん大きな恐れは死である、と。
だから、問う。
- 私は誰か(Who am I?)
- どこから来たのか(Where I come from?)
- なぜここに来たのか(Why I came here?)
- どれだけ生きるのか
- どこへ行くのか
5つの問いが、過去、現在、未来に沿って並んでいる。そして、その下にこう書いてあった。アイデンティティがわかれば、恐れなくなる。
恐れへの処方箋が、感情を鎮めることではなく、自分が何であるかを知ることに置かれている。
では「私は誰か」の答えは何か。名前ではない、とノートにある。名前は、この世に生まれたときに付けられただけのもの。一時的なアイデンティティにすぎない。履歴書に書けるものは、答えにならないということだ。
そして、問いの立て方そのものについて、こうあった。良い問いを出せば、良い瞑想になる。これが「インド式瞑想」であり、続ければ生涯を通じて悟りに至りうる、と。
瞑想を、技法ではなく問いとして定義している。ここが、14年経って読み返して、いちばん驚いたところだった。
呼吸を数えることでも、心を無にすることでもない。問いを立てて、それを抱えたまま坐る。問いの質が、そのまま瞑想の質になる。
魂と、その乗り物
人間はspecialである。なぜなら知性があるから。そして悟り(enlightenment)とは、自分自身を知ることである。ノートはそう続いて、答えに入る。
答えは「私は魂(soul)である」。そこから、3段階で降りていく。
まず、魂は宇宙の一部である。次に、その魂の家はどこか。身体である。ただし、ただの家ではない。動く家であり、乗り物(vehicle)であって、地球上を移動する。

馬車を引いているのは、感覚である。
つまり、身体を動かしているのは感覚の側であって、魂のほうは乗っている。感覚が勝手に走れば、馬車もそちらへ行く。「私は誰か」という問いが実践につながるのは、ここだろう。乗っている側が、自分が乗り手であることを忘れている状態が、最初に置かれた「自分自身がわかっていない」なのだと思う。
死とは、身体の変化にすぎない
家は古くなる。だから、新しい家をつくる。車が古くなれば、新しい車に換える。それと同じだという。
ここでカルマ(karma)が出てくる。新しい家を自分で設けるのが、カルマである。次の人生を決めるのは、自分の行為のほうだ、と。
だから死は、身体が変わること(change of body)であって、私の死(my death)ではない。古い体を失っても、新しい体が得られることは保証されている。ノートのこの箇所には「yoga 哲学の核心」と書き込みがある。当時の私が、ここで線を引いたのだろう。
そのうえで、2つのものが並べて書かれていた。身体の寿命の短さと、魂の永遠性である。
寿命は一秒単位でしかない。病気、地震、火事、爆弾、津波。どの瞬間でも命を落としうる。明日生きている保証はない。けれど魂(soul)は永遠(eternal)だ、と。
2012年である。震災の翌年のノートに、この並びが書かれている。
2日目には、カルマと輪廻がもう少し展開されていた。カルマは過去の行為に応じて決まる。だから一人ひとり違う。そして生と死がくりかえされる。これがサムサーラ、輪廻である。
そのうえで、粗大な体には6つの変化があるとされていた。子宮の中にいる9〜10か月、誕生、成長、姿が変わって成熟に至ること、老化と病、そして死。この6つは、同じ状態にとどめておけない。
ノートのその横には、赤ペンで一行だけ書いてあった。起きることを受け入れて、自分の人生を生きる(live your own life = just accept what happens)。
止められないものを前にして、どうするか。赤で書いてあるのは、この一行だけだった。
身体という地図 ── 粗大な体、微細な体、原因の体
身体は、3つの層で捉えられていた。

粗大な体は、目で見える。触れられる。身長も体重も色も年齢もある。説明がいらない層である。
難しいのは、2つ目だ。微細な体は見えない。だからノートでは、説明ではなく問いの形で置かれていた。死んだ体と、生きている体。見た目はほとんど変わらない。では、悲しみやうれしさを体験しているのは、どちらなのか。
答えは書かれていない。代わりに「微細な体が、身体を去った」とだけある。体験する主体は、目に見える身体のほうではない。見えないものを、見えるものとの差分から取り出す、という示し方である。
感じる器官と、動かす器官と、エネルギーと、心と、知性。見えないと言いながら、中身は細かく数えられている。
なお、3つ目のカーラナ・シャリーラ(原因の体)については、ノートに説明が残っていない。名前だけが書かれている。
5つの元素と、小宇宙
粗大な体のほうは、5つの元素からできている。

そして、風のところから話が進む。呼吸を制御できれば、肉体を支配できる。だからプラーナーヤーマが、ヨガの入り口なのだ、と。
五大元素の話が、そのまま実践の話につながっている。
最後は、こう締めくくられていた。宇宙(macro cosmos)も、この5つでできている。身体(micro cosmos)も、同じ5つでできている。だから身体は、宇宙と同じ材料でできた小宇宙である。
そして、その小宇宙をコントロールしているのが、さきほどの微細な体の17要素だ、と。
ここまでで、地図が一通りそろう。魂があり、乗り物としての身体があり、身体は3層に分かれ、粗大な体は5元素でできていて、微細な体の17要素がそれを動かしている。
この微細な体を走る通り道についても、ノートに1行だけ残っていた。ナーディは「川」という意味で、72,000本あり、そこをプラーナが流れている。2012年9月30日の日付があり、このページは、この1行しか書かれていない。
マントラと浄化 ── 内側は、石けんでは洗えない
2日目は、マントラから始まっていた。
マントラの意味は、心の浄化(purification of our mind)である。思考器官を清めること。ここでニヤマの2番目、サウチャ(浄化)につながる。
サウチャには内と外がある。バーヒャ・サウチャが外側の浄化で、これは毎日やっている。アンタ・サウチャが内側の浄化。こちらは「だれも伝えてくれない」とノートにある。
外側は、石けんと水で洗える。内側は、洗えない。そもそも、汚れていることに誰も気づかない。
では、内側の汚れとは何か。欲望である。
「一瞬でも自由になったこと あるのか?」と問われている。さまざまな欲望が、心を忙しくさせている。その忙しさから自由になるコツを教わるのが、マントラなのだという。
やり方は2つ。唱えることと、聞くこと。いちばんいいのは、口から吐くこと。二番目が、聞くこと。
ガーヤトリー・マントラについては、何を祈るのかが書いてあった。物質的なものではない。「物乞い(beggar)ではない」、と。
祈るのは、もっと崇高なもの。「私たちの心を照らしてください」である。
その理由も書いてある。宇宙はあまりにも広大で、人間の知性はあまりにも小さい。だから、何かをくださいではなく、知性を広げてください、と祈る。
知識と知恵 ── 財布にしまうものと、魂にしまうもの
3回目、2012年12月1日。この日の主題は、知識と知恵の違いだった。
3段に分かれている。情報(information)は、長くとどまらない。知識(knowledge)は、自分が大事だと思って記憶するもの。知恵(wisdom)は、生涯持ち続けたいもので、死んだあと次の人生に持っていくもの。
しまう場所も違う。知識は脳にしまう。ノートには「財布(purse)」とある。過去の記録を保管する場所だ。知恵のほうは、魂にしまう。
そして、違いがもう1つ。知識は財布のように出し入れするが、知恵は与えれば与えるほど増える。お金は使えばなくなるのに。
その次のページに、鳥の絵が描いてあった。魂は鳥で、翼が2枚ある。ギアーナ(知恵)と、カルマ(行為)である。
知るだけでは飛べない。動くだけでも飛べない。両方そろって、はじめて高く飛べる。知識と知恵を分けた話の、すぐ次にこれが来るのが面白い。知恵は、しまっておくものではなく、行為と対にして使うものだ、ということになる。
魂の3つの性質 ── サット、チット、アーナンダ
同じ日、魂そのものの説明に入っていく。
まず、身体のほう。老化は私の意思と関係なく進む。だから、身体は私のものではない。身体は物質(matter)であり、衰えていく。
その物質の呼び名が、ここで2つ出てくる。ヨーガ・スートラではプラクリティ(Prakṛti)。ヴェーダではマーヤ(Māyā)。呼び方は違っても、私はその中に生きている。
次に、意識のほう。意識は肉眼では見えない。見えるのは魂の働きであって、魂そのものではない。神が見えないことと、自分自身が見えないことは、同じ構造であるとノートにはある。

では、見えないものを、どうやって確かめるのか。
考えることができるから。感じることができるから。「I know that I am」。魂の証明は、思考と感覚のほうに置かれている。
時間には過去・現在・未来という3つの測り方がある。魂はそのすべてにわたって在り続ける。だから永遠だ、と。
3つの性質を挙げたあと、幸せの話が続く。幸せを探すというのは、言い換えれば、苦しみから逃れようとすることだ。苦しみが邪魔をするから、そこから離れたい。
けれど、アーナンダが魂の性質なのだとすれば、幸せは外から取ってくるものではない。自分が、あらゆる幸せの源である。
サハスラーラ ── 知恵は、軽い
第4日、2012年12月7日。ノートは、サハスラーラ・チャクラの話から始まっていた。
最後のチャクラ、という位置づけである。仏像の頭に千の花(蓮)がついているのは、これだという。悟ると、たくさんの花が咲く。
そして、そこがもたらすのは「軽さ」だと書いてある。知恵は、軽い。悟る前は重い。無知が、重さとして語られている。
ノートの最後の行は、「真の王冠は知恵」。頭頂のチャクラの話と、王冠の比喩が重なっている。
3つのグナ ── 1日のどの時間に練習するか
そして、その日の主題はグナだった。
出発点は、さきほどと同じところにある。身体はプラクリティ、つまり物質でできている。私は意識である。
その物質のほうに、性質がある。それがグナで、3つあるから「トリグナ」と呼ばれる。サットヴァ、ラジャス、タマスである。
ここで、ノートに2つの訳が並んで書いてあった。グナは「性質(quality)」であり、同時に「ひも(rope)」である。何かを縛るもの、という意味だ。何を縛るのか。私たちの魂を、である。
性質であると同時に、束縛でもある。だから、そのまま放っておくものではなく、見分けて扱うものになる。
そして、3つのグナが1日の時間帯に重ねられていく。
サットヴァは純粋、知識、白。ラジャスは行動と活動、情熱で、真昼にあたる。タマスは不活動、真夜中、黒。
そのうえで、「どの性質が機能しているのかを見る」「自分自身の中で見てみる」と書いてある。グナは固定された分類ではなく、絶えず変化しつづけるものとして扱われている。
だから実践の時間が決まる。日の出と日の入りはサットヴァの時間。だから、朝と夕にヨーガを練習する。真昼はラジャス、真夜中はタマス。
真夜中はタマスの時間なので、動くヨーガではなく瞑想。お祈りやマントラを唱えることが、サットヴァの行為として挙げられている。
この日のノートには、燃料のたとえも書き留めてあった。タマスの燃料は「無知」。サットヴァの燃料は「知識」で、いつも幸せでいられる。
何を見て幸せになるかも違う、と続く。タマスは、人を見て幸せになる。酒や食べ物もそこに並んでいる。サットヴァは、空や月を見て幸せになる。日の出と日の入り。美を感じること。
そして締めの2行。人や物を見ていると心が圧縮され、空を見ていると心が大きくなる。
五大元素にも、それぞれのグナが割り当てられていた。風と空は、純粋なサットヴァ。火は、純粋なラジャス。水と土は、純粋なタマス。理由は1行で書いてある。流れるものがラジャスで、とどまるものがタマスである。
ここで、2つの地図が重なる。5つの元素でできている身体と、3つの性質。自分の中で、いまどの元素が、どの性質で働いているのか。見分けるための目盛りが、1日の時間帯と、身体の素材の両方から与えられている。
ヤマ・ニヤマを、1週間実践してみた
ノートの前のほうに、レポートが1本、清書してはさんであった。TT1の課題として書いたものだ。
ヤマの二番目、サティア(正直)を、1週間実践してみた記録である。哲学を聞いて終わりにせず、実際にやってみるとどうなるか。ここだけは、当時の文章をそのまま引く。
パタンジャリのヨガのYama/サティア(正直の実践)
1週間にわたって Yama のサティア(正直)を実践してみた。そして実際、どう感じたのか、考え、気づいたことを数日後、メモという形でまとめてみた。以下そのメモを紹介する。気づいた点として
1)自分の判断基準をもつこと(幸せを考える場合に特にそう)
2)自分の直感や考えを大事にすること
3)知らないことを「知らない」と認めること
4)疑問に思ったら口にすること。
5)自分の強みや弱みを知ることの5点。正直なところ、一つ一つ challenging なことであり、表現するのは簡単だが、いざ行動に移すとなるとなかなか出来ないことという印象があった。
この全ての共通点としては、自分の内面を大切にすること。実際に自分との時間、むきあう時間はとっているが、このメモから思うことは、もっと向きあう時間を濃密にすることを感じた。
今後ともその時間を大事にし、他人よりも自分の中に湧き出る声、考えを大事にしていきたい。
14年前の自分が書いたものを、いま読んでいる。
5点のうち、目が止まるのは3番目だ。「知らないことを『知らない』と認めること」が、正直の実践として挙がっている。
サティア(正直)というと、嘘をつかないことだと思いがちだが、ここで書いているのはそうではない。他人に対して嘘をつかないより先に、自分が知らないということを自分に認める、という向きになっている。
そして、5点の共通点として「自分の内面を大切にすること」と書いている。正直の実践が、外向きではなく内向きに整理されている。
これは、今の仕事でもそのまま効いていることだと思う。
指導者にとってのヤマ・ニヤマ
ヤマ・ニヤマは、もう一度、別の角度から出てきた。2012年12月7日、UTLの先生でもあり、友人でもある近藤真由美先生による「生徒との関係の築き方」という講義である。
同じヤマ・ニヤマが、今度は指導者の側の規範として整理されている。自分の修行としてではなく、人を教える立場で何を守るか、という形に翻訳されている。

なかでもアスティア(不盗)が面白い。教師だからといってエゴを乱用しない。機械的に教えない。他の先生を批判しない。盗まない、という戒めが、立場の乱用のほうに向けられている。そしてもう1行、「生徒がゼロであっても気にしない」。
14年経って、重みが変わって見える項目がいくつもある。
経典の見取り図
TT2の課題として、経典のまとめも書いていた。
ヨーガの起源を3つ挙げ、そのうえでヨーガを5つに分けて、それぞれに代表する経典を当てている。

どの道を行くかによって、読む本が変わる。そういう見取り図になっている。
同じページの裏に、サーンキヤとヴェーダーンタを並べた図が描いてあった。
左に二元論、右に一元論。サーンキヤの側ではプラクリティが下へ下へと展開していくのに対し、ヴェーダーンタの側には、ブラフマン(Brahman)しか書かれていない。1つしかないから一元論である。

今回のワークショップで配られたサーンキヤ哲学の図と、ほとんど同じ構造の絵を、14年前にも描いていた。
ヨーガ・スートラ ──「ヨーガとは心の止滅なり」
ヨーガ・スートラについては、渡部直子先生の講義が何回かあった。ノートには「NAO先生」と書き込んである。
この講義は、経典そのものではなく、受ける側の動機から入っていた。
「大事なことはシンプルなこと」「基本が大事」。そのうえで、なぜヨガを始めたのかを書き出させている。心を落ちつかせたい、肩こりを改善したい、体をやわらかくしたい、面白そうだった、たまたまジムにクラスがあった。
そして、始めた理由と続いている理由は違う、という整理になる。いま続いているのは「心のリセット」で、「やりたいからやる」。歯みがきと同じだと書いてある。
経典に入る前に、自分の実践を言葉にさせる。そういう入り方だった。
そのうえで、第1章の題である「サマーディ・パーダ」を、語に分けて教わっている。サマーディは「サム(つながる)」と「アディ(源・意識・魂・内側)」。パーダは章。つまり第1章は、「本心とつながる章」である。
そして、I-1、I-2、I-12。
I-1は「atha yoga anuśāsanam」。「今から」で始まる。ノートには、その「今から」が何を含むかが書いてある。内側から動くこと、力を持つこと、そして自分の内側がどれだけ準備できているか。さらにコミットメント、決意、同じ気持ちでいること。最初の一語が、学ぶ側の構えを問うている。
ヨーガは「yuj(つながる)」から来ている。アヌシャーサナムは、脈々と伝えられてきた、ゆるがない教え。
I-2が、有名な定義である。「Yogaḥ cittavṛtti nirodhaḥ」。ヨーガとは、心(チッタ)の動き・働き・作用(ヴリッティ)の止滅(ニローダ)。ノートには「深い心の部分」と書き添えてある。
では、どうやって止めるのか。それがI-12で、「abhyāsavairāgyābhyāṁ tannirodhaḥ」。実践(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)を共に行うことによって、とある。
実践の条件も4つ並んでいる。行為・努力。休みなく長期間つづけること。注意深く行うこと。熱意をもって行うこと。
そして、その1つ目の横に矢印が引いてあった。「実践はアーサナである必要はない」。ここにも線が引いてある。
最後に残るのは、問いの形である。「どの実践が自分の心をしずめるのか?」。答えは渡されない。
別のページには、こうまとめてあった。心とは波である。波立っているあいだは見えないが、静まると見えるようになる。水面のたとえで、「止滅」が言い換えられている。消すのではなく、静まるまで待つ。
静めるための順序も書いてある。意識を内側に向ける。集中のために目線と呼吸を整える。呼吸のために姿勢を整える。下から積み上げるのではなく、目的から逆算して姿勢に降りてくる。
そしてアーサナは、もともと「坐る」という意味だった。瞑想は坐ることを基本とし、アーサナはそのためにある。ポーズそのものが目的ではない、ということだ。
とはいえ、ノートはそこで止まらない。「アーサナ/ポーズを行うことは自分の身体と対話し、今日の自分を感じること」とある。そして最後に、坐ることよりも動くほうが瞑想しやすい、集中を余儀なくさせるから、とも。
瞑想は「心のかたづけ」「断捨離」だと書いてある。人はほとんど過去と未来を見ていて、現在を見ていない。だから瞑想でリセットすると、感情がおだやかになる。
締めは1行。「土台を築くこと ── 下から上へ」。
まとめ ── 14年後に読み返して
通して読んで、はっきりしたことがある。
UTLで教わったヨガ哲学は、「私は誰か」という1本の問いから、魂へ、身体へ、元素へと降りていく、1つの体系だった。
問題は、自分を知らないことから生まれる。だから問う。答えは、自分は魂であり、身体はその乗り物であるということ。乗り物は5つの元素でできていて、それは宇宙と同じ材料である。乗り物を動かしているのは微細な体で、そこには17の要素がある。乗り物は古くなり、やがて捨てられる。けれど魂は永遠で、サット、チット、アーナンダという3つの性質をもつ。
1本の線が、最初から最後まで通っている。
先日のワークショップは、そうではなかった。複数の世界観を横に並べて地図にし、どれが正しいかを決めるのではなく、それぞれの見方で身体の体験がどう変わるかを確かめる、という組み立てだった。
縦に降りていく学び方と、横に並べて見渡す学び方。
どちらが良いという話ではない。14年前に縦に降りた経験があったから、今回、横に並んだ地図を見て「ここは知っている」と思える場所がいくつもあった。それだけのことだと思う。
もう1つ、読み返して気づいたことがある。
このノートの哲学のページは、全216ページのうち、数えてみると40ページほどしかない。残りは練習記録と、シークエンスのイラストと、解剖学である。
当時の私は、哲学を少しだけ聞いて、あとはひたすら身体を動かしていた。けれど、その40ページに書かれていたことが、いまの仕事のかなりの部分を支えている。
「知らないことを『知らない』と認めること」も、そのひとつである。
