Phase III(6)〜Seeingと知覚すること(1)〜概念を持つと、見えるようになる

本コラムで度々取り上げてきたが、ロルフィングの施術を行う際に大切になるのがbody reading(身体観察)。

つまり、Seeing(観察すること)である。Phase IIIのトレーニングにおいて、Jörg先生は、body readingする際に、Seeingすることも大事だが、Sensing(クライアントの身体にどのような変化があるのか?施術中に知覚すること)とのバランスを取ることを忘れないほうがいいともいっている(Sensingと施術を行うこととのバランスについては、「Sensing・Doingとコーチング〜CTIの教育システムから考えてみた」で取り上げた)。

今回はSeeingと「知覚すること」との関係について述べていきたい。

Holding The Sky

Ida Rolfがロルフィングを教え始めた当初、カリキュラムを2つの段階にわけていたらしい。すなわち、それはAuditing(観察する段階)とPractitioner(施術する段階)(以下、文末の文献1を参考にしながらまとめている)。

Auditingは、どのように観察するのか?を教える段階で、身体を観察するところに力点がおかれている。施術することを一切しないところが面白い。そして、実際に施術者を繰り返し観察し続ける。そして、「ロルフィングについて何を観察するのが大事なのか?」を身につけるまでそれが続くのだ。

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このような手法をSaturation Method(Saturation=情報が飽和する)と呼ぶらしいが、目が身体に対する見る目を養うまで情報を与え続けることで見る目を身につける。この方法は、現在のロルフィングのカリキュラムにも活きていて、他の施術者を観察することに多くの時間を割いているというロルフィングのトレーニングの特徴となっている(トレーニングについての詳細は、「ミュンヘンでのTrainingについて(1)」にまとめた)。

Finding new ways of boosting their success

興味深いのは、ある日突然body readingにおいて、ロルフィングが必要とする目が身につくということ。実際に、私もトレーニング期間中にいつの間にか無意識のうちにbody readingを修得していた。さて、必要な目はどのように身につくのか?1つ例を挙げてみたい。

Giraffe

上記の写真を見ると、単に様々な図形が並んだ絵にしか見えない。しかし、この中でキリンを見つけることができるか?といったらどうか。図形に線が加えられていないにもかかわらず、キリンがぱっと浮かび上がってくることに気づく。何が変わったのかというと自分の中に適切な概念・意味(キリン)を持っていたために、キリンと観察することができたのだ。ロルフィングにおいて、身体観察を知覚的にできるようになるというのは、このプロセスに似ている。

今まで紹介した「身体にどのような重さがどこにかかっているのか?」、中心軸の意識、骨盤の前傾や後傾等は、概念として考えると理解できると思う(これらの概念については「身体には6つのスペースがある〜重力とg・g‘」参照)。そして、その概念というのはEmbodimentを通じて自分の身体の中で知覚することも可能だ(Embodimentについては「Embodimentとは何か?」に書いた)。

余談になるが、このように考えると実際に優れた施術者から施術を受けることの経験も知覚的な見方を身につけるのに役立つこともわかる。

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さて、見方というのは、目で分析的に捉えるというよりも、知覚的に捉えると言っていい。以前、本コラムで、西洋の絵画史は、絵を描く者がどのようにして世界を知覚してきたのか?の変遷の歴史であることを述べた(「絵画史と身体(1)〜西洋絵画史からみる身体の見方」参照)。

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私が、ロルフィングのトレーニングで新鮮味を感じるのは、分析的な目を大事にしつつ、どのようにして知覚的な目をどう養うのか?について学べることだ。考えてみれば、大学院で研究の世界に身を置いた経験からすると、信頼できるのは定量できるものであり、信頼できないのは、定量できない感覚的なもの(例えば、知覚的な目は定量できない)という、分析的に考えることが当たり前であったと思う。

その目からみると身体は機械的に各パーツからなりそのパーツを観察すれば全体を把握できるという機械的な見方で十分のように見える。ロルフィングの場合には、さらにその見方に加えて、部分の和が全体になるのではなく、全てを全体と捉えるという感覚的・知覚的な目とのバランスが大切になる。

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Phase IIIでJörg先生が、「脳によって捉えるとbody readingは、見失ってしまう」ということを何度かクラスで話してくれた。これは、分析的なマインドの方が知覚的なマインドよりも優勢になると、上記のキリンが浮かび上がるのを邪魔することにつながることを考えれば容易に理解できる。

知覚的な見方と分析的な見方。知覚的な見方というのは、ハイデガー、メルロ=ポンティやフッサールが唱えた現象学に近い。タイミングがあえば、本コラムで現象学との関係について取り上げたいと思っている。

*参考文献

Maitland J. ‘Seeing’ Structural Integration Dec 2014, p24(Phase IIIのトレーニング中に配布された資料の一つ)

2026年8月の注記

この記事の末尾に、参考文献が一行だけ置かれている。

Maitland J. ‘Seeing’ Structural Integration Dec 2014, p24(Phase IIIのトレーニング中に配布された資料の一つ)

当時は、配布資料のひとつという扱いだった。11年後に読み返すと、この一行が重い。

2025年4月から7月にかけて受けたアドバンスト・トレーニングで学んだ考え方は、5原則、Taxonomy、Somatic Sensorium、3つの問いかけ、Orthotropism。そのほとんどをJeff Maitlandが中心になって確立している。Rayの勧めで、期間中はMaitlandの著書 Embodied Being – The Philosophical Roots of Manual Therapy を読みながらトレーニングに臨んだ。

その著者から、2015年2月の時点ですでに読んでいた。しかも主題は「Seeing」である。10年後に体系として受け取ることになる人の、その体系の中心にある主題を、当時は参考文献として処理していた。

なぜMaitlandがこの主題を書いたのか。理由は、Sharon Wheelerのワークショップの回の注記に書いた。Idaには、身体の見方を教える方法がなかった。Sharonの言葉では、水に放り込んで泳ぐか溺れるかに任せる、というやり方だった。その空白が1989年の分裂を経て、Maitlandの哲学の導入へ、5原則とTaxonomyへとつながっていく。約50年の話である。

この記事で紹介したAuditingとSaturation Methodは、その空白が生まれる前の、Idaの側の答えである。施術を一切せず、ひたすら観察し続ける。見る目が育つまで情報を与え続ける。方法として体系化されてはいないが、時間の設計としては存在していた。

そしてこの記事の三日前、Phase III(2)の回で、同じことを経験の側から書いている。1日6セッション、10回で60回を見る。自分の手が動くのは20回で、残り40回は観察している、と。三日後にこの記事で、その構造がIdaのAuditingに由来することをMaitlandの論文から知る。経験が先にあり、出典が後から来ている。

さて、この記事の締めに、こう書いた。

知覚的な見方というのは、ハイデガー、メルロ=ポンティやフッサールが唱えた現象学に近い。タイミングがあえば、本コラムで現象学との関係について取り上げたいと思っている。

タイミングは10年後に来た。しかも、論じる形ではなく、実践の手順として渡される形で。

Maitlandは観察力を鍛えるために三段階を提唱している。第一に、志向性を移すこと。自分中心の意図を手放し、対象に開かれた状態に変える。第二に、能動的に見ること。視覚だけでなく触覚、聴覚、内受容感覚を総動員して身体全体で感じ取る。これがSomatic Sensoriumであり、feeling-natureと呼ばれる。第三に、あるがままが自ら現れるのを待つこと。

三つとも現象学の用語である。志向性はフッサールの中心概念であり、あるがままが自ら現れるのを見させるという定式は、ハイデガーが現象学そのものを定義した言い方に重なる。

Rayはさらに、INTENTION(意図)とINTENTIONALITY(志向性)を対にして説明した。意図は因果的な思考に基づき、施術者の理解を優位に置く。志向性は、意識が常に何かを指し示しているという前提のもとで、クライアントとの関係そのものを変化の場として捉える。この違いが、治療を直線的なものから創発的なものへ移す。変化を起こすのではなく、変化が起こることを信頼する態度になる。

2015年のこの記事は、知覚的な見方と分析的な見方のバランス、という言い方をしている。10年後に受け取ったのは、バランスの話ではなかった。分析の側に立ったまま知覚を足すのではなく、志向性そのものを移す、という手順だった。

そしてもうひとつ、言葉がほとんど一致している箇所がある。

Jörg先生はこの記事の中で、脳によって捉えるとbody readingは見失ってしまう、と繰り返し語っていた。Rayは2025年に、Seeing with your own eyes という言い方は誤解を生む、身体全体で受け取ることが観察だ、と語った。10年隔てた二人の講師が、同じことを別の言い方で述べている。

最後に、この記事のキリンの絵について。

図形が並んだだけの絵に、キリンという概念を持った瞬間、線が一本も足されていないのにキリンが浮かび上がる。変わったのは絵ではなく、見る側である。

この例を、11年後に書いた記事の中でもう一度使った。ロルフィングの基礎トレーニングが教育として何だったのかを扱った文章の中で、絵画史の授業がなぜ面白かったのかを説明する場面である。当時は身体観察の比喩として出したものが、いまは知覚を鍛える教育とは何かを説明する道具になっている。例そのものは変わらない。使う場所が変わった。

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka