脚が国をつないだ──飛脚と修験道、日本人の二つの歩き方

はじめに

前回、上野で「空海と真言の名宝」展を見た話を書いた。木彫の像は動かない。だが、あの像が表現しようとしているのは、座り、立ち、印を結び、歩いた身体である。

八月には剣山を越えて善通寺へ向かう。その前に、この列島で「歩く」がどう扱われてきたかを見ておきたい。

日本には、脚をめぐる二つの極端な文化がある。ひとつは飛脚。街道を継いで走り、情報を運んだ。もうひとつは修験道。山に入り、歩くこと自体を行とした。

前者は速さを問い、後者は速さを捨てる。同じ二本の脚で、正反対のことをしている。歩行の力学そのものは、姿勢・動き科学シリーズの第4回で扱った。今回は日本文化と脚との接点についてまとめたい。

なぜ「歩く」は人間の基本なのか──二足歩行・重心移動・重力の科学

街道を動いた者たち

「継ぐ」という名前

まず、なぜ「継飛脚」と呼ぶのかから入りたい。

「飛脚」は飛ぶように走る脚夫を指す語で、中世から使われている。そこに「継」が付くのは、宿場から宿場へ人足を継ぎ替えて送る方式だからである。

つまり名前そのものが、走り方ではなく継ぎ方を指している。継飛脚はリレーだった。一人の人間が江戸から京都まで走ったのではない。走者は自分の区間だけを、全力で走る。

所要日数は、江戸〜大坂間で四〜五日というのが辞典類の記述である。一般の旅人が同じ道に十日以上をかけていた時代の話だ。

つまりこれは、江戸時代の日本人が超人的だったという話ではない。制度が、人間の脚の能力を最大化したという話である。

二人一組で走る

区間を走った者の姿も見ておきたい。

幕府公用の継飛脚は、二人一組で走った。一人が「御用」の札をつけた小葛籠を肩に担ぎ、もう一人が長柄の高張提灯を持つ。昼は提灯持ちが交代要員として走り、夜になるとその提灯に火を入れて先導した。

運んだのは老中証文と呼ばれる重要公文書で、使えるのは限られた役職者だけだった。書状に限らず、将軍への献上品も継飛脚が運んでいる。

制度としての脚

その制度の輪郭は、はっきりしている。

寛永十年(1633年)、幕府は諸街道の各駅に継飛脚米を給付した。宿場が人足を抱え、幕府が米で支える。通信網の維持費が、米という現物で計上されていたことになる。

情報の速さは、脚の速さそのものだった。

速さに値段がつく領域と、つかない領域

飛脚は幕府の専有ではない。諸藩には大名飛脚があり、町にも飛脚問屋があった。町飛脚については料金が速度で階層化されていたと伝えられ、期限を切るほど高くなる。

つまり速さに値段がつく領域は、確かにあった。だが、それは通信全体の一部でしかない。

なお「大名飛脚」という呼び名は大きすぎる、と巻島隆氏は指摘している。従来の分類では史実を説明しきれず、とりわけ、領内の庄屋に請け負わせる村送りの層が、飛脚の話からはたいてい抜け落ちる。

走っていたのは、農民だった

巻島氏が、伊勢国津藩の事例を村方文書から明らかにしている。

山城国西法花野村の庄屋・浅田家が、藩の「御用村送飛脚取次役」を務めた。近在の男たちを「飛脚中間」として登録し、交代で走らせている。彼らは専業の走者ではない。農業の傍ら、藩の役として請け負った男たちだった。息子が引き継ぐ例もある。

賃銭は年の暮れにまとめて飛脚頭へ渡され、そこから分配された。経費は基本的に村が負担している。巻島氏は、村が大名飛脚制度を支えたと書いている。

脚の対価は、市場で決まったのではなかった。継飛脚は幕府が米で支え、村送飛脚は村が役として負担した。値段がついていたのは町飛脚の便であって、通信網そのものではない。

継ぎ目には、人がいた

もうひとつ、浅田家の帳面が伝えていることがある。

引き継ぎを終えた飛脚には、希望があれば茶漬けを出した。通しの飛脚で用意が間に合わなければ弁当を持たせる。木津川が増水した日は、一人で足りるところを二人で継いだ。橋が流されていれば渡船の増し賃銭を渡し、担当が来られなければ代役を立て、蝋燭を渡し、提灯が傷めば張り替えた。帰り道に唐傘を貸し、銭を貸したこともある。

巻島氏はこれを、事務的に継ぎ立てただけではなく、役務を終えた者への配慮を働かせたのだ、と書いている。

制度の図の上では、線と点で書ける。だが線の結び目には庄屋の家があり、走り終えた男が座って茶漬けを食べていた。制度は、身体の疲れを勘定に入れて回っていた。

脚は、一度には退場しなかった

この記事を書いている途中で、押上の郵政博物館へ行った。結論から言うと、飛脚を主題にした展示はほとんどなかった。この館が扱うのは明治の郵便創業以降である。空振りだった。

ただ、代わりに別のことを教わった。

「運──郵便×車両」と題された解説パネルに、郵便創業当時の郵便物は人から人へ、いくつもの郵便局をリレー方式で運ばれたとある。その後、馬車、鉄道、自動車、飛行機と、時代ごとに最新の交通システムを使ってきた、と。

読んで、自分の書き方が間違っていたと気づいた。終わったのは飛脚という職業であって、飛脚の方法ではなかった。

明治四年(1871年)に郵便が始まったとき、郵便取扱所が置かれたのは東海道の各宿駅の伝馬所の一隅だった。改装して使ったのである。事務を担ったのは、宿駅の元締役や年寄役といった人々。大阪の郵便役所では、信書の扱いに精通した定飛脚の手代を官員として雇っている。

同じ建物の、同じ人が、名前を変えて郵便を扱った。

これは私の思いつきではない。展示室では見つからなかったが、この館は研究紀要を出しており、そこに答えがあった。井上卓朗氏の論考によれば、日本の郵便制度は江戸の宿駅制度を再利用して創出されたものであり、西洋からの「舶来品」と捉えるのは誤りだという藪内吉彦の主張が、現在では通説になっている。

そしてもう一点。江戸時代までは交通・運輸と一体だった通信が、明治期に分離していく——阿部昭夫のこの見方に従えば、その分離こそが近代化の中身だったことになる。

飛脚は消えたのではなく、禁じられた

飛脚は自然に役割を終えたのでもない。

明治三年、郵便創業を知った飛脚問屋は撤回を求める嘆願書を提出し、却下された。そこで定飛脚問屋の五者が「定飛脚陸走会社」を開業し、対抗の姿勢を見せる。ここが重要である。この時点で五者の支店と取次所は全国に展開しており、その網は創業当時の郵便制度を遥かに凌駕していた。

官営の郵便より、飛脚の網のほうが大きかったのである。

前島密は、この網を潰すのではなく取り込む方向で動いた。和泉屋の名代であった佐々木荘助に近代郵便制度の原理を説き、説得には約半年を要したという。明治五年、陸運元会社が設立される。

ただし、移行は説得だけでは進まなかった。明治六年、信書の逓送は官の特任とされ、飛脚の個人営業も禁じられる。明治八年には各駅の陸運会社が解散させられ、内国通運会社が全国の陸運を総括することになった。現在の日本通運につながる会社である。

自然に退場したのではない。法によって畳まれ、一社に集約された。

それでも、宿場が郵便局に、走者が郵便夫に置き換わっただけで、継いでいく構造はそのまま残っている。

担ぐ身体から、引く身体へ

そのことを、展示室の三体の模型が見せていた。

左は馬に跨がった逓送。中央は菅笠に和装の人物が木の荷車を引き、右は洋装の制服の職員が赤い二輪車を引いている。三体とも、引く姿勢である。前傾して、梶棒を握り、体重を前にかけている。

飛脚が担いで走った姿勢とは、力の伝え方がまったく違う。担ぐとき、荷重は鉛直に脊柱を通る。身体は柱として働き、脚は転倒を制御する。引くときは、水平方向の推進力を作らなければならない。骨盤から先の使い方も、足の踏み込みも、別のものになる。

同じ二本の脚が、車輪を得たことで別の仕事を始めた。

一つの部屋に、交代の全段階が並んでいた。担ぐ脚、引く脚、馬。そして解説パネルが、その先の自動車と飛行機へ続きを書いている。

二百六十年にわたって日本の情報を運んだのは、人の脚だった。それは十九世紀の終わりに終わったのではない。担ぐことをやめ、引くことに変わり、やがて牽く力を馬に、蒸気に、内燃機関に渡した。百五十年をかけて、少しずつ手放していった。

いまも宅配便は営業所から営業所へ荷物を継いでいく。宿場を継いだ御状箱と、構造は変わらない。

「肉を食べたら走れなくなった」という話

脚が入れ替わっていくその同じ時期に、脚の性能そのものを西洋の科学で測り直そうとした人がいた。

エルヴィン・フォン・ベルツ。ドイツ人医師で、明治の初めに来日し、東京医学校で教え、のちに宮内省侍医を務めた。

きっかけは日光への移動だったと伝えられる。人力車夫が交代なしで、東京から日光まで一日で運んだ。馬を乗り継いだ場合と、ほとんど変わらない時間だったという。

驚いたベルツが車夫の食事を調べると、玄米のおにぎり、梅干し、味噌漬けの大根。当時ドイツで基準とされていた蛋白質摂取量にはるかに届かない粗食である。

そこで実験を組んだ。二十代の車夫を二人雇い、一方には従来どおりの食事を、もう一方には肉中心の食事をさせて、毎日一定の距離を走らせる。結果、肉食のほうは疲労が募り、数日で元の食事に戻してほしいと申し出た。戻すと再び走れるようになった。従来食のほうは三週間走り続けた。

この報告は1901年にドイツで発表されている。原典は確認していない。

ここから先は、注意して読む必要がある。

ベルツはこの結果を、日本人には日本食が合っているという結論に結びつけた。腸の長さの違いといった議論も添えているが、この部分は現在の医学から支持されていない。

実験の解釈も、現代の生理学からは誤りとされる。持久的な運動では筋グリコーゲンが主要なエネルギー源になる。肉を増やすかわりに米を減らせば、走行能力が落ちるのは当然である。問題は肉を食べたことではなく、糖質を減らしたことだった。

にもかかわらず、この話は明治の食養会以降、日本食の優位を示す根拠として使われ続け、いまも食育の文脈で流通している。

それでも、記録として読むなら別のものが見えてくる。

制度が脚を置き換えていったその同じ時期に、脚そのものの性能を西洋の物差しで測る試みがあった。そして出た数字を、当時の人々は「日本の身体のほうが優れている」と読んだ。交代が進むなかで、身体の側に起きていた反応である。

飛脚が消え、車夫が引き、やがて馬と機械に渡していく。その過程で、失われつつある身体の能力が、はじめて測定の対象になった。測られるのは、たいてい退場が決まったあとである。聖と飛脚──境界を動く身体

飛脚のネットワークは、同じ街道を動いていたもう一つの集団と重なる。巡礼を導いた聖(ひじり)である。

三月に三井寺の福家俊彦さんの講義で印象に残ったのが、「境界にいる人が情報を持つ」という構造だった。当時の巡礼は誰でも行けるものではなく、どの道を通るかという知識は限られていた。それを持っていたのが、山と社会のあいだにいた聖である。

飛脚が運んだのは書状、聖が運んだのは道の知識。**移動する身体が、ネットワークそのものだった。**巡礼者の別所も、飛脚が継いだ宿場も、日常でも聖域でもない中間の点にある。

同じ村の、同じ男が

重なりは、もう少し深いところまで届く。

村送飛脚を担ったのは、農業の傍ら順番で役を務める農民だった。修験の側も、在地の修験者の多くは村に住み、祈祷や治病を担いながら季節ごとに山へ入っている。どちらも家として継承された。二つのネットワークは、村に住む兼業者に支えられていた。

そして実際に交差する。巻島氏によれば、津藩では藩主の病気平癒を祈願して、春日神社や笠置の寺院の御札を飛脚に運ばせている。祈祷札に飛脚が使われたのは、それが緊急事と認識されたからだという。

同じ村の同じ男が、藩の触状も、神社の御札も運んだ。書状の速さと祈りの速さが、同じ二本の脚の上で測られていた。

山に入る

飛脚は水平に動いた。ここから見るのは、垂直に動く者たちである。

修験道において、歩くことは修行の手段ではない。**歩くことそのものが行である。**尾根を辿る移動が瞑想の準備なのではなく、行為そのものが目的になっている。

福家さんの講義でいちばん腑に落ちたのは、修験道とは山に入り、一度死に、生まれ直すことで自己を変容させる実践体系だ、という捉え方だった。擬死再生。頭で理解するものではなく、身体を使って体験することでしか起きない。

修験道は中世に組織化され、聖護院を中心とする本山派(天台系)と、醍醐寺を中心とする当山派(真言系)に分かれた。後者は空海の系譜にあたる。

序で、空海が持ち帰ったのは思想ではなく、手順と道具と身体の使い方だったと書いた。修験道はそれを山に置いたものだと言える。曼荼羅を掛け、印を結び、真言を唱えるかわりに、尾根を歩く。

山を「理解する対象」ではなく「関係を結ぶ相手」として捉える見方は、熊野を歩いた体験として別稿でまとめた。

なぜ日本では“境界”が重要なのか──三井寺で見えた仏教と文化の構造

速さを問う文化と、速さを捨てる文化

飛脚にとって、歩くことは手段である。だから速さが問われ、町飛脚の便では値段にまでなった。

修験道にとって、歩くことは目的である。速く着くことに意味はなく、むしろ日数を重ねること自体が課される。

同じ時代の、同じ列島で、しかも同じ村の兼業者によって、この二つが並存していた。

片方の行き着く先は、脚を使わないことである。実際に飛脚は法によって畳まれ、運ぶ力は車輪と機械へ渡った。手段であるものは、より良い手段に置き換えられる。

もう片方は、いまも歩いている。目的そのものである行為は、技術によって短縮できない。

剣山へ

八月に登る剣山は、標高1,955メートル、徳島県にある。四国で二番目に高い山であり、そして修験の山である。

序で触れた宮坂宥洪氏の推測──空海が帰国後、上京を許されない三年のあいだに四国を歩き、それが遍路の起源になったのではないか──を思い出す。史料の裏づけはない。ただ、もしそうだとすれば、空海は飛脚のようにではなく、修験のように歩いていたことになる。急いで着くためではなく、歩くことで何かを確かめ直すために。

ロルファーとして、四日間の前に確かめておきたいこともある。長時間の座位で股関節の可動域がどうなっているか。足がどのくらい沈み、どのくらい硬いか。舗装路しか歩いていない足は、一歩ごとに条件が変わる山道に準備ができていない。

歩くことが行になる場所へ、これから行く。次回は、実際に歩いた記録になる。

(歩く・全3回)

後編:四国を歩いて何が起きたか

序:立体として刻まれた身体──「空海と真言の名宝」展から、四国へ

前編:脚が国をつないだ──飛脚と修験道、日本人の二つの歩き方(本記事)

関連記事

参考

  • 郵政博物館(東京都墨田区)常設展示、2026年8月3日訪問。解説パネル「運──郵便×車両」、逓送模型三点、明治期の郵便運搬用荷車ほか
  • 井上卓朗「日本における近代郵便の成立過程──公用通信インフラによる郵便ネットワークの形成」郵政資料館研究紀要 第2号、2011年
  • 巻島隆「近世中期における津藩の飛脚制度──山城国西法花野村庄屋、浅田家『飛脚帳』の検討」郵政資料館研究紀要 第5号、2014年
  • 巻島隆「定飛脚日記からみる飛脚問屋──『御用』記述に関する検討」郵政博物館研究紀要、2015年
  • 『国史大辞典』『日本大百科全書』飛脚・継飛脚の項
  • 葛飾北斎『富嶽百景』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • NIPPON EXPRESS ホールディングス 公式サイト 沿革(陸運元会社・内国通運会社の項)
  • エルヴィン・フォン・ベルツによる人力車夫の栄養実験(1901年ドイツにて報告)。原典未確認。解釈については本文中の注記を参照

この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka