ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか(第1回|全4回)
はじめに
よい姿勢を心がけよう、と思ったことがあると思う。背すじを伸ばす。肩を開く。そして十分後には、元の形に戻っている。意志が弱いからだろうか。
そうではない。届いていない層がある、というだけである。
この連載シリーズでは、哲学の終身在職教授(tenure professor)であり、禅の実践者であり、ロルファーでもあったJeffrey Maitland の二冊の本を取り上げ、この問いについて、四つの言葉から辿っていく。
全体の見取り図は、以下の総論のページにまとめている。
今回取り上げるのは、一本目の前反省(prereflective)である。考えるより前のところを指す語で、姿勢が元に戻るのは、ここが関わってくるからだ。
感じたことは、なぜ説明しにくいのか
ロルフィングの10回シリーズを終えた方が、こう書いている。
身体が整うことで、思考が整理されるのか、今、自分に何が必要かクリアになりました。
整理されるのか、という書き方になっている。整理しようとして整理されたのではない。身体が変わったら、結果としてそうなった。本人にも、なぜそうなったのかは分かっていない。
こういう話は、たいてい説明しにくい。説明しようとしても、言語化が追いつかない。
身体の話をするとき、たいてい一つの見方しか用意されていない。感じたことは「主観」で、人それぞれ。測れるものが「客観」で、誰にとっても同じ。この二択で考えると、セッション中に感じたことは全部、主観になってしまう。主観に入った瞬間、何を見ているのか?わからなくなる。
この見方自体、どこから来ているのか。
17世紀のヨーロッパで、技術革新が起きた。望遠鏡や顕微鏡で、肉眼では見えないものが見えるようになり、感覚がそのまま世界を写しているとは言えなくなった。同時に、物体の運動を数で扱う方法が力を持ち始めた。
人が見ているものと、測って分かるものは、どういう関係にあるのか。この問いに答えるために出てきたのが、デカルト(René Descartes)とガリレオ(Galileo Galilei)に代表される説明だった。

外の物が原因となって感覚器官と神経に働きかけ、脳がその物の像をつくる。人が触れているのは、その像のほうであって、物そのものではない。MaitlandのEmbodied Being – The Philosophical Roots of Manual Therapy に、この考え方を一枚にした戯画が載っている。

Jeffrey Maitland, Embodied Being, 2016,の図をもとに作成
Maitland は、この説明には自分で自分を壊す構造があると指摘している。像が本物の写しなのか、脳がつくった幻なのかを確かめるには、像と物の両方を見比べる必要がある。ところがこの説明は、人が触れられるのは像だけだと言っている。見比べることができない以上、外の世界を知ることは原理的にできなくなる。説明しようとしたことを、説明が不可能にしてしまっている。
測れるものだけが実在している、という考え方についても、彼は一点を指摘している。ガリレオが言ったのは、科学は測れるものを調べなさい、という研究の進め方だった。そこから、測れるものだけが実在する、という世界についての主張へ移るところに飛躍がある。そしてもし測れるものだけが実在なら、測るという行為そのものは何なのか。それは測れるのか。
ここで大事なのは、この説明が間違っていたから捨てられた、という話ではないことだ。この説明は、その時代の要請に応えていた。そして、人が自分の身体をどう経験しているかを言おうとすると、この見方では説明不足になる。足りなくなった部分を言うための言葉を、別の人たちが用意した。それが現象学と呼ばれるようになる。
考える前と、考えたあと
現象学が持ち込んだのが、前反省(prereflective)である。
ここで言う反省(reflective)は、反省会の反省ではない。悔い改めることではなく、起きていることから一歩離れて、それについて考える働きのことだ。元の語は、反り返って見る、という意味を持っている。この語自体はデカルトより前から使われていた。新しいのは、その手前があると言ったほうだ。フッサール(Edmund Husserl)が、反省は体験を対象に変えてしまうという問題を立て、サルトル(Jean-Paul Sartre)が反省以前という語を使い、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)が身体の側へ広げた。三人とも二十世紀の哲学者である。
Maitland は、こういう例を挙げている。花の美しさに打たれているとき、きれいだとは思っていない。きれいだと思った時点で、もうその経験から離れている。バスケットボールで走っている最中に、パスすべきか撃つべきかとは考えていない。考えた瞬間、流れの外に出る。
打たれていた時間も、走っていた時間も、理解していなかったわけではない。むしろ、その理解のしかたのほうが先にある。Spacious Body に、この二つの関係を示した図がある。

Jeffrey Maitland, Spacious Body, 1995, 75頁の図をもとに作成
この図が示しているのは、主観と客観が、反省に移った瞬間に同時に生まれる二つの極だということだ。はじめから二つあって、そのどちらかに経験が振り分けられるのではない。流れの中にいることをやめて、それについて考え始めたとき、見る側と見られる側が分かれる。
だから前反省は、主観ではない。主観より前にある。西洋の習慣として、客観でないものはすべて主観だとみなす傾きがあり、その習慣が前反省の経験を主観の箱へ押し込めてきた、と Maitland は書いている。
Prereflective understanding should not be reduced to the subjective, but seen as a form of understanding that participates with that which is understood. Not only is it a form of understanding, it is also the prior ground or condition of both the subjective and the objective. The reflective experience of subject and object comes into being at the very moment we step out of the flow of prereflective lived experience and begin to think about what we are experiencing.
前反省的な理解は、主観的なものへ還元されてはならず、理解される当のものと共に働いている理解の一形態として見られなければならない。それは理解の一形態であるだけでなく、主観的なものと客観的なものの双方に先立つ基盤であり、条件でもある。主観と客観という反省的な経験は、前反省的に生きられた経験の流れから私たちが外へ踏み出し、自分が経験しているものについて考えはじめた、まさにその瞬間に生じる。
Jeffrey Maitland, Spacious Body, 1995, p.75(訳は筆者)
言葉が、後から出てくる理由
同じことが、セッションの最中にも起きている。
セッションの途中で、どうですかと聞かれる。何かが変わった気はする。けれども、何がと聞かれると言葉が出てこない。しばらく考えて、軽い、とか、まっすぐになった、とか、そのくらいの言い方になる。言ったあとで、どれも違う気がする。
そして帰り道や翌朝になって、ふいに言葉になる。ああ、あれは足の裏が床に広がった感じだった、と。あのときは言えなかったのに、今は言える。
テーブルの上で起きていることは、前反省のほうにある。だから、どうですかと聞かれて言葉にしようとした時点で、もう移っている。移った先には、見る側と見られる側しかない。自分の身体を対象として眺めることになり、さっきまでそこにいた流れは、もうそこにない。
帰り道に言葉が出てくるのは、記憶が戻ってきたからではない。セッション中には流れの中にいたので言えなかったものが、時間が経って、それについて考えられる位置へ移ったということだ。
そしてもう一つ。この説明をすると、感じたことは主観だから当てにならない、という結論を外せる。主観ではないからだ。主観より前にあるものを、主観の箱に入れて、人それぞれだと片付ける必要がない。
知識があれば済む話でもない。山田康喜様(理学療法士)の10回体験記では、身体の専門家として頭でわかっていたことが、セッションを通じて身体の変化として現れた、という形で書かれている。わかっていることと、身体が変わることは、別の話になる。
考えても、姿勢が戻るのはなぜか
同じ切れ目が、身体の側にもある。そして、ここが冒頭の問いに関わってくる。
立ち方、歩き方、呼吸の深さ、人と向かい合ったときの肩の構え。これらは、考えてからそうしているのではない。椅子から立つとき、どちらの足に重心を移してから膝を伸ばすか、順番を決めてから動く人はいない。すでに決まっている。
だから、姿勢をよくしようと考えても変わらない。考えは反省の側で働くのに、立ち方は考える手前で決まっているからだ。胸を張ることはできるが、それは一時的な上書きにすぎず、意識を他へ向けた瞬間に元へ戻る。
この順序には、ロルフィングの側にも名前がある。プレムーブメント(pre-movement)である。動き出す前に、重力に対して身体がどう構えるかがすでに決まっていて、それが動きの質を決める。腕を前に伸ばすとき、最初に働くのは腕ではなくふくらはぎで、腕の重さが前へ出ることで生じる不安定を、先回りして引き受けている。
名づけたのはウベア・ゴダール(Hubert Godard)。ベースとなったのは、エルヴィン・シュトラウス(Erwin Straus)の考えだった。彼は、人が直立しているということ自体が、世界に対してどう向き合うかを、すでに決めていると論じた。立っているだけで、何かへの向きがもう決まっている、ということだ。ゴダールは、それを踊り手の身体に当てはめて、プレムーブメント(pre-movement)と名づけた。
つまり、動きの側から来たこの語も、もとは現象学から出ている。前反省と、出どころが同じだ。
ただし、同じものではない。プレムーブメントが扱うのは、重力に対して身体がどう向き合っているか、という一つの事柄だ。前反省のほうは、もっと広い。考える前に世界をどう分かっているか、という話で、感情も、人との関わりも、知覚も含まれる。プレムーブメントは、そこで起きていることの一つになる。
福田康子様(会社員)の10回体験記に、受ける前の状態として、こういう一文がある。
まっすぐ姿勢を正そうと思っても、なんとなくどこかズレている感覚が抜けない。
正そうという意志は、考えたあとで働いている。ズレている感覚のほうは、その手前にある。だから、正しているのに抜けない、という事態になる。働いている場所が違うので、届いていない。
手で触れることで変化が起きるのも、同じ理由による。手が働きかけているのは、考えで届くところではない。
同じ体験記の、十回を終えたあとの答えはこうなっている。
とにかくまっすぐ楽に立てている。
身体の力が良い意味で抜けている。
正す力が強くなったのではない。力が抜けているのに、まっすぐになっている。考える手前のほうが組み変わると、こういう形になる。
別の方は、こう書いている。
身体を通して軸が分るようになりました。
軸を作った、ではなく、分るようになった、と書かれている。新しく決めたのではなく、すでにあったものが分かる位置に来た。考えて決めるのとは、別の順序になっている。
施術する側にとっても、同じことが起きる。アドバンスト・トレーニングで繰り返し扱われた観ることは、目で見ることではなかった。触覚も、自分の身体の内側の感じも含めて、全体で相手の身体を聴く。目視として扱うと、見る側と見られる側に分かれたところでの作業になってしまい、相手の身体に起きている流れから外れる。
ゴダールは、これを名づけない見方と呼んでいる。細部を見て名前をつけて区別する見方ではなく、空間の中で自分と相手の位置が決まるような見方。自分が空間の中にいて、空間が自分の中にある、という状態になると、身体を読むことが楽になる、と彼は語っている。
名前をつけた瞬間に、見えなくなるものがある。名前をつけることは、対象として切り出すことだからだ。そして切り出した時点で、見る側と見られる側に分かれている。
前反省は、無意識ではない
ここで混同されやすいものがある。考えるより前、という言い方をすると、無意識のことだと思われる。Spacious Body の巻末の用語集(Glossary)で、Maitland はこの二つは違うとはっきり書いている。
前反省は、哲学の側の区別で、理解の仕方の違いを指している。反省する前の経験であって、経験としては生きられている。花に打たれている時間は、無意識ではない。むしろ、そのときほど起きていることに触れている時間はない。
彼の説明では、無意識と呼ばれるものは、前反省の経験のうち、反省の段階で取り違えられた部分を指す。自分に都合よく読み替えたり、読み解く力が足りなかったりして、そこにあったものが別のものとして扱われる。つまり無意識は、経験がないところのことではなく、経験が正しく言葉にならなかった結果のほうを指している。
この区別がつくと、セッションの場で起きていることの見え方が変わる。何かが浮かび上がってくるのは、隠されていたものが暴かれるからではない。言葉にならないまま生きられていたものに、言葉が追いついたということになる。
この捉え方の限界
この区別を認めると、都合のいい使い方ができてしまう。
1つは、説明しない口実になることだ。言葉にならないところなのだから説明できなくて当然だ、と言ってしまえば、何を聞かれても答えなくて済む。実際には、Maitland 自身がその逆を言っている。起きていることをそのまま現れさせたうえで、それを適切な言葉で記述するところまでが仕事だ、という立場だ。言葉にして初めて全体が完成する、とも書いている。考えることを一段低く見る話ではない。
2つは、確かめようがない話に見えてしまうことだ。前反省と反省の区別は、測って示す種類の主張ではない。経験をどこで切るかという提案である。だから、この切り方で何が見えるようになるか、という形でしか評価できない。セッションの後に言葉が遅れて出てくること、姿勢を考えで直しても戻ること。こういう具体的な場面が説明できるかどうかが、この区別の試金石になる。説明できない場面が出てきたときに、区別のほうを疑えるようにしておく必要がある。
3つは、現場での使い方だ。クライアントが言葉にしようとしているときに、それは前反省だから言葉にしなくていい、と施術者が言ってしまうと、本人が自分の体験に触れていく道を閉ざすことになる。この区別は、施術者が理解のために使うものであって、クライアントに向かって使うものではない。
まとめ
身体の話が主観か客観かの二択になるのは、17世紀に用意された説明の枠が、そのまま残っているからだ。その手前に、考えるより前がある。主観と客観は、そこから離れて考え始めたときに、同時に生まれる。
セッション中に言葉が出てこないのは、感じたことが曖昧だからではない。言葉が後から出てくるのは、思い出したからではない。どちらも、前反省から反省へ移ったということだ。立ち方や呼吸が考えで変わらないのも、同じ理由による。
次回は、その考えるより前で起きていることを見ていく。人は考える前に、すでに何かへ向かっている。向かうには、そこから向かう場所が要る。その2つを Maitland は中心(core)と表層(surface)と呼んだ。感情も、人との距離の取り方も、この二つが作る空間の形として現れる。向き(志向性)と、施術者が使う意図との違いについては、別の記事ですでに扱っている。
4回を通じて向かう先は、変容とは何かという問いである。別人になることではなく、より自分になることとして、それがどう起きるのか。最終回でそこに辿り着く。
参考文献
Jeffrey Maitland, Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology, North Atlantic Books, 1995
Jeffrey Maitland, Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy, North Atlantic Books, 2016
いずれも日本語版は出ていない。本文中の訳は筆者による。
