ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか(第4回|全4回)

はじめに
理想の姿勢というものがある。横から見て、耳と肩と股関節と踝が一直線に並んでいる、と説明される姿勢である。この姿勢に自分を合わせようとして、うまくいかない人が多い。
なぜ、理想の姿勢に合わせるのは、難しいのか?それには理由がある。
第1回では、立ち方や呼吸が、考えるより前にすでに決まっていること。現象学の用語、前反省(prereflective)を使ってみてきた。
第2回では、人が空間に対してどちらを向いているか、という視点で見た。向いている先が表層(surface)で、向くためには起点が要る。その起点を中心(core)と呼ぶ。この2つの関係を扱った。
第3回では、力を抜こうとするのも意志であり、そのままに在ることは、することの仕方ではなく在ることの仕方だ、ということを紹介した。
全体の見取り図は、総論のページにまとめている。
- ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか
- なぜ、よい姿勢はすぐ元に戻ってしまうのか──前反省(prereflective)とは何か
- なぜ、同じ部屋が狭く感じたり広く感じたりするのか──中心と表層(core/surface)とは何か
- なぜ、力を抜こうと思っても抜けないのか──そのままに在ること(allowing)とは何か
今回は、4本目の限界と可能性(limitation/possibility)である。そして最終回なので、最初の問いに戻る。
在るとは、形であること
Jeffrey Maitland は、形(form)という語を紹介するところから始めている。しかも、人間の形を語るための語として使っている。
形と聞くと、輪郭や外形を思い浮かべる。それも入ってはいるが、彼の言う形はもっと広い。生きている形(living form)とは、その人がその人になっていくときの、やり方であり、流儀であり、仕方のことだ、と書いている。
もっと具体的な言い方も、すぐ横に置かれている。人間の形であるとは、空間に対する1つの向き方であることだ、と。第2回で見た方向づけ(orientation)が、そのまま形と呼ばれている。立ち方。呼吸の深さ。人の前での間の取り方。その全部が合わさったものが、その人の形になる。
だから、自分が何者かについての葛藤は、心の中だけの問題ではない。自己の水準の葛藤は、すでに形の葛藤である、と彼は書いている。身体がどう在るか、というところに、同じ葛藤が出ている。
そして、すべての形には境界がある。境界(boundary)を持つということは、限界(limitation)を持つということだ。だから、在るとは形であることであり、形であることは限界を持つことになる。
逆から言える。身体と自己の形から、限界と境界をすべて取り去れば、その人は在ることをやめる。雲でも、夢でも、願いでも、箱でも同じで、境界があるから、その形がその形でいられる。
第2回で、恐れの身体について書いた。柔らかく崩れた形で、境界が曖昧になっている。そこに居たくない、ということは、輪郭がはっきりしないほうが都合がよい、ということだった。形を持っていながら、形であることをやめたがっている形である。
Maitland は、もう1つ分けている。自分の形と争っているとき、限界は、そこで自分が終わる地点として経験される。争っていないとき、同じ限界が、そこから自分が始まる場所になる。身体と自分が対立するものとして語られるのは、前者の経験からだ、とも書いている。

同じ限界が、2通りに経験される。止めるものとして働くか、そこから何かが始まる場所として働くか。限界の側は、どちらでも変わっていない。
限界が、可能性を作る
ここから、この本で一番よく引かれる一文になる。
自由とは、限界を創造的に我がものとすること(freedom is the creative appropriation of limitation)である。
appropriation は、自分のものにすること。ラテン語の proprius(自分自身のもの)から来ていて、property(所有)や proper(固有の)と同じ語根になる。限界をなくすのでも、我慢するのでもない。自分のものとして引き受け、そこから何かを作る。
そして彼は、限界と可能性を別々のものとして扱わない。限界は、生のある面を限ると同時に、1つの可能性を与える。何が可能かは、常に限界によって形づくられている。人間にとって、無限の可能性も、不可能な限界も存在しない。可能なことは、いつも限界によって可能になっている。
本には、例が挙がっている。ブルース・リー(Bruce Lee)は片脚が短かったと伝えられている。そのために武術を極められないとは考えず、短い脚が課す限界のほうを使って、防ぎにくい新しい蹴り方を身につけた。マティス(Henri Matisse)は晩年、絵を描けなくなった。そこで画材を変え、病床で色紙を切って貼り、最も美しい仕事のいくつかを残した。
どちらも、限界がなくなったのではない。限界との関係のほうが変わっている。

Jeffrey Maitland, Spacious Body, 1995, 図をもとに作成
縦の軸が、限界と可能性である。上が限界、下が可能性で、同じ1本の軸になっている。中央にあるのが障害。横の軸は、左が不自由、右が自由。こばむ意志の矢印は、障害の手前で左へ逸れていく。
ひらかれた意志の経路は、障害を抜けたあと、いったん回り込んでから右へ進む。まっすぐには進まない。この回り込みは、すべての変容に共通する形だ、と Maitland は書いている。
重力は、変えられない限界である
ロルフィングで言えば、この話は重力(gravity)にあたる。
重力は変えられない。アイダ・ロルフ(Ida Rolf)がしたのは、重力を減らすことではなかった。重力との関係のほうを変えることだった。負担として受けている状態から、支えとして使える状態へ。重力そのものは、何も変わっていない。
Maitland は、ロルフィングとは重力を創造的に我がものとすることだ、と書いている。自由の定義と、同じ形になっている。
参考に、重力との関係をどう見るかについては、下記の記事に紹介している。
重力だけの話ではない。骨格も、これまでの経緯も、生きてきた時間も変えられない。変えられるのは、それとの関係のほうである。
理想の身体を前提にすると、その人が見えなくなる
ここで、冒頭の話に戻る。
Maitland は、決まった手順どおりに進めるやり方の欠点を、2つ挙げている。
1つは、どの身体にも同じ結果を前提してしまうことだ。手順が決まっている以上、行き着く先も決まっている。誰が受けても同じところへ着くはずだ、という前提が、黙って入ってくる。
もう1つは、その人だけのものに応えられないことだ。順序が先に決まっているので、この人にはこの順番で、という組み替えができない。
そして、1つめの前提の裏には、ある考えが必ず入ってくる。どの身体にも、それに近づくべき理想の構造がある、という考えである。Maitland は、これを身体の理想主義(somatic idealism)と呼ぶ。手順どおりのやり方と身体の理想主義は、いつも組になって現れる、と書いている。
別のところでは、こういう言い方もしている。この2つから抜け出したとき、施術は、誰にでも同じ型を当てはめる作業ではなくなる。
アイダ・ロルフ(Ida Rolf)自身についても書いている。2つめの欠点には気づいていて、自分のレシピを外れて働くこともあった。けれども1つめについては曖昧なままで、理想の身体という自分の考えを、クライアントの身体を見る基準として、そして自分の仕事がうまくいったかどうかを測る基準として、使う傾きがあった、と。
冒頭の線に戻る。理想の線に自分を合わせようとしてうまくいかないのは、ここに理由がある。合わせる先が、その人の限界の外にある。耳と肩と股関節と踝が並ぶ形は、誰にとっても同じ形ではない。
終わりは、限界のほうが決める
では、何を基準にするのか。
Embodied Being に、Closure という原理がある。日本語にすれば、終え方の原理になる。
その定義はこうなっている。その人全体が、自分の変わる限界と変わらない限界に即して、以後の介入なしに、生じた変化を保てるようになったとき、Closure に達している。
終わりが、理想の形に届いたかどうかで決まっていない。その人の限界に即して決まっている。だから、同じ10回でも、どこで終わるかは人によって違う。
そして、変わる限界と変わらない限界が、分けて書かれている。変えられるものと、変えられないもの。変えられないものについては、関係のほうを変える。ここまでの話が、臨床の判断の形になっている。
別人になるのではなく、より自分になる
最初の問いに戻る。ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか。
総論で書いたとおり、transformation の trans は、越えて、という意味であって、変える、という意味ではない。形を変えることではなく、形に対して別の関係を取ることになる。
だから変容は、理想の姿を決めて、そこへ自分を合わせることではない。限界はそのままで、限界との関係のほうが変わる。結果として、その人がその人であることが、葛藤なしに現れるようになる。
10回を終えた方が、こう書いている。
ロルフィングを受けて、人生が変わったとも感じるし、ずれて進んでた道から元の道に戻ることができた、そんな感じもある。
人生が変わった、と、元の道に戻った、が同じ文の中に並んでいる。別人になることと、より自分になることが、同じ出来事の2つの言い方になっている。
言葉は、後から来る
Maitland は、禅の公案を解くときに、3つの理解が要る、と書いている。
1つめが、体験としての理解(experiential understanding)。自分の本来のあり方を、実際に知ること。2つめが、現れとしての理解(manifested understanding)。その理解を、身体ごと、葛藤なしに示せるようになること。3つめが、概念としての理解(conceptual understanding)。前の2つを言葉で言えること。
3つが同時に起きることもあるが、たいていは概念の理解が後から来る、と彼は書いている。数分後のこともあれば、数日後のことも、数年後のこともある。
第1回の最初に書いた場面が、ここに戻ってくる。セッション中には言えなかったものが、帰り道や翌朝になって言葉になる。あれは、3つの理解の順序だったことになる。
そして、この連載そのものも同じ位置にある。言葉は体験の後から来る。けれども、言葉になって初めて全体が完成する、というのが彼の立場だった。
この捉え方の限界
3つ書いておく。
1つは、限界を認める、という話が、諦めの正当化に使えてしまうことだ。変えられないものだから仕方がない、で止めれば、それはこばむ意志のほうの断念になる。Maitland が言っているのは逆で、限界をそのままにしたうえで、そこから何かを作る、という話である。この2つは、言葉の上ではよく似ている。
2つは、どれが変わる限界で、どれが変わらない限界なのかを、前もって決められないことだ。やってみて初めて分かる。変わらないと決めつければ触れなくなるし、変わると決めつければ無理をさせる。ここは、原理が答えを出してくれる場所ではない。
3つは、苦しみの扱いである。本の中では、ニーチェ(Friedrich Nietzsche)が引かれている。19世紀の哲学者で、自身の身体に大きな限界を抱えていた人である。病を通じて健康に達した、という言い方をした。ただ Maitland は、そこを正しく述べていない、と書いている。変容に苦しみが常に伴うわけではない、と。そして、苦しみを経ずに変容するためには、先に変容の苦しみを経る必要がある、という言い方をしている。苦しみそのものを目的にする話にはなっていない。
まとめ
在るとは、形であることだ。形には境界があり、境界は限界である。限界を全部取り去れば、形は消える。
限界は、可能性を奪うものではない。可能性を作るものである。人間にとって、無限の可能性も、不可能な限界もない。だから自由とは、限界をなくすことではなく、限界を自分のものとして引き受け、そこから何かを作ることになる。
重力は変えられない。骨格も、これまでの経緯も変えられない。変えられるのは、それとの関係のほうだ。だから、理想の形に自分を合わせにいくとうまくいかない。
4回を通して見てきたものを、1つにまとめる。立ち方は考えるより前のところで決まっていて、その向きは空間の形として現れ、力を抜こうとしても抜けず、限界は消せない。どれも、思いどおりにならない、という話である。
そして、だからこそ変わる。思いどおりにしようとする側が引き下がったところで、その人がその人であることが現れてくる。別人になるのではなく、より自分になる、というのは、そういうことになる。
参考文献
Jeffrey Maitland, Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology, North Atlantic Books, 1995
Jeffrey Maitland, Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy, North Atlantic Books, 2016
いずれも日本語版は出ていない。本文中の訳は筆者による。
