本記事は「身体と心」シリーズ全6回の第5回である。本シリーズは、ロルフィングの基礎トレーニング(Basic Training)Phase IIとPhase IIIの期間にまたがって書かれた。本記事はPhase IIIの期間中に、Phase IIで学んだポリヴェーガル理論を振り返って書いた。
前回に続き、ポリヴェーガル理論について取り上げたい(「顔の表情が安心を作る〜ポリヴェーガル理論と2つの迷走神経」参照)。そこで、人間には3つの神経系があることに触れた。すなわち新しい迷走神経系(心理的距離や社会性に関与する)、交感神経系(Fight/Flightに関与する)、古い迷走神経系(Freezeに関与する)で、それぞれが順に上位に位置し、階層構造をなしている。
Porges教授は、この3つの神経系によって世界を捉えることをNeuroception(Neuron=神経系によるPerception=知覚)と述べている(Porges SW et al Zero to Three May 2013)。この考え方が注目されるのは、Neuroceptionの働きに支障が出ると神経系の疾患が現れやすいと考えられるようになっているからだ。
例を挙げたい。
子供が新しい環境に身を置いたり、赤の他人に出逢った際、その状況が危険であり生命に対する脅威であると感じた時に、神経系が反応する。実際に、危険でないと脳で察知していても、身体がそのまま反応することがある。例えば、心拍数が上がることや身震いが起きることなど。
人間は、こういった防御反応(Fight/Flightともいう)のスイッチをOFFにして、安心して他人に身を委ねることで、社交性モード(英語ではSocial engagement)がONになる。これが新しい迷走神経系の役割でもあるが、そのためには、リスクの評価と、環境が安全であると察知した際にFight/FlightとFreezeのスイッチをOFFにすることを、自発的に行っている。
ただ、Freezeについて補足が必要だ。
本コラムでも取り上げた凍りつき(Freeze)(「トラウマは出来事ではなく身体に残る〜深層のセッションで何が起きるのか」参照)は、人間にいい影響を及ぼすことがある。受胎、子供の誕生、子供の養育、そして社会的な絆を築く際には、Freezeに近い静止(Immobilize。mobilize=動く、に否定のim)の状態になるという。
この場合には「恐れのない静止状態」となるわけだが、これは致死的となるFreezeから、社会的な絆を構築するのに利用できるように発達していった。やがて脳はこれに対する受容体を持つようになり、子供の誕生や養育の際にOxytocinが放出されることがわかってきた。またこの物質は、社会的な絆を手助けする際にも分泌する。しかし、身の回りに危険が察知されると、この物質は分泌しない。
前回も触れたが、顔面の筋肉の神経系の制御も、社会的な絆を構築するのに大切になる。
例えば、
- アイコンタクトをすること
- 発声に抑揚やリズムが出ること
- 表情に出ること
- 背景にある音と人の声を識別するために中耳の働きを制御する
一方で、その状況が危険であり生命に対する脅威であると感じた際には、顔面の筋肉の力が弱まり、
- まぶたが下がる
- 発声の抑揚がなくなる
- 表情の感情表現が乏しくなる
- 人の声に対する意識が減少する
- 社交性に関する感度が低下するといったこと
が認められるようになるとのこと。注意すべきこととして、その状況が危険であり生命に対する脅威であるということには、外因的(赤の他人や危険な場面)のみならず、内因的(発熱、痛み、身体的な病気)の2つの要因の可能性があるということだ。
さて、今まで説明してきたNeuroceptionに支障が出た場合、どういったことが起こると考えられるのか。
Porges教授は、統合失調症や自閉症では、Fight/FlightやFreezeの機能を抑制すると考えられている脳の側頭葉の活動が認められない。不安障害や抑うつを持つ患者は心拍数の制御ができておらず、表情の感情表現が乏しくなっていることなどの例を挙げている。
興味深いことは、Porges教授の研究室において、Neuroceptionの働きに何らかの形で支障の出ている自閉症の患者に対して、顔面や頭を制御する神経系、特に中耳の働きに対して積極的に介入することで、成果をあげつつあるという。
私自身、ポリヴェーガル理論は身体と心の関係を知る上で、さらにロルフィングでクライアントと向き合う上で、知っておいたほうがいい考えだと思っている。今までに述べてきたように、顔の表情は意外と多くの情報を与えてくれるからだ。これからもこの理論について注目していきたいと思う。
2026年8月の注記
この記事は、凍りつきの反転を扱っている。致死的なFreezeと、絆を作る恐れのない静止。同じ静止でありながら、意味が正反対になる。10年後、この区別が技法として現れることになる。
委ねることで、変化が起きる
2025年のアドバンスト・トレーニングで扱われたワークの一つに、YIELDワークがある。田畑浩良さんがRolf Movement Instructorの資格を取得する過程で、Rebecca Carli-MillsやCarol Agneessensの影響を受け、独自に探求してきたものである(「Advanced Rolferの認定までの歩みについて【総括】」参照)。
クライアントがテーブルでリラックスした状態(仰向け、うつ伏せ、横向きなど)で、ニュートラルな場所(1st Position)を見つけ、そこにとどまることで、クライアントのシステムに働きかける。
その原理は、マッサージテーブルに仰向けになるとき、クライアントが接地面に自らを委ねることにある。分子細胞学でいうアンカリング(接着細胞の基盤)と同じように、安定した基盤ができて初めて、内側の変化が自然に起こる、と説明された。
とどまること、委ねること。動かないことが、変化の条件になっている。
この記事が書いた恐れのない静止と、同じ構造である。危険が察知されていない状態でのみ、静止は絆や変化の側に働く。危険があれば、同じ静止は致死的なFreezeになる。
だからこそ、施術者が場を整えることが要る。ポイントとなるのは、場(フィールド)を施術する側が整えることによって変容が起きることだ、と説明されていた。安全でなければ、委ねることは起こらない。
2015年に理論として読んだものが、10年後に手続きとして与えられたことになる。
中耳という細部
この記事には、細かい記述が2つある。背景にある音と人の声を識別するために中耳の働きを制御すること。そして、Porges教授の研究室で、自閉症の患者に対して顔面や頭を制御する神経系、特に中耳の働きに介入することで成果をあげつつあること。
中耳は側頭骨の中にある。内耳も同じである。
セッション7で顔と頭を扱う際、その主要な目的の一つが、重力のバランスを調整する内耳感覚に働きかけることだった(「セッション7:頭・顔」参照)。同じ骨の中に、平衡感覚を司る器官と、音を選り分ける器官が収まっている。前者は姿勢に関わり、後者は社会性に関わる。セッション7は、そのどちらにも触れうる位置で行われている。
そして、この記事が研究室の段階として書いた中耳への介入は、10年後に手順として確立されていた。
Safe and Sound Protocol(SSP)である。Porgesがポリヴェーガル理論に基づいて開発した方法で、特別にフィルターをかけた音楽を用いて自律神経系を調整する。目的は、聴覚からのアプローチで腹側迷走神経系を強化することにある。
鍵となるのは中耳筋(アブミ骨筋・鼓膜張筋)だ。闘争/逃走やフリーズの状態では、中耳筋が慢性的に緊張または不活性になる。その結果、人の声が聞き取りづらくなり、環境音がノイズになる。SSPは、フィルターをかけた音楽によって中耳筋の弾性と可塑性を回復させる。聴覚の訓練ではなく、神経系の安全化である。
この記事が書いた「背景にある音と人の声を識別するために中耳の働きを制御する」という一文が、そのまま技法の原理になっている。
2025年12月から、フランクフルトで活動しているロルファー、鎌田孝美さんのもとでSSPを受けている(「Safe and Sound Protocol(SSP)とポリヴェーガル理論〜鎌田孝美さんと再会」参照)。1週間の体験で感じたのは、左右の内耳のバランスが、頭で考えるようなバランスではなく、身体感覚として細かく分かったことだった。
内耳感覚は、姿勢の3要素の一つとして基礎トレーニングで学んだものである(「姿勢の3要素〜視覚、内耳感覚、筋感覚」参照)。それを筋膜の側から扱うのがセッション7であり、聴覚の側から扱うのがSSPということになる。
もう一つ、興味深い設計がある。SSPでは、オーバーイヤー型ヘッドホンを使い、ノイズ・キャンセリング機能をOFFにすることが必須とされている。遮断された安全ではなく、外界の中で安全を感じる神経系を育てるためである。
この記事が書いた階層構造を思い出せば、理由がわかる。新しい迷走神経系は、環境が安全であると察知した際に働く。遮断してしまえば、察知する対象そのものがなくなる。つながりの中の安全でなければ、上位の神経系は育たない。
表情を読むということ
この記事は、次の一文で終わっている。
「顔の表情は意外と多くの情報を与えてくれる」
クライアントと向き合う上で知っておいたほうがいい、という文脈で書いた。
2025年のアドバンスト・トレーニングで、Jeff Maitlandが最も強調したのは観察する力(Seeing)を鍛えることだった。単なる目視ではなく、感覚器官全体を使って身体を聴くこと。Somatic Sensorium(身体感覚の総動員)によって情報を得ること。Ray McCallも、身体全体で受け取ることが観察だと語っている。
この記事の観察は、まだ目で見る段階にある。表情という視覚情報を読み取る、という枠組みである。
11年後には、その枠組み自体が問い直されていた。ただし、方向は否定ではない。表情から情報を得ることは正しく、そこに触覚、聴覚、内受容感覚を加えていく、という拡張である。
顔の表情は多くの情報を与えてくれる、と書いたときに見ていたものは、Somatic Sensoriumの入口だった。




