日本由来の靈氣を考える際、歴史を見ることが大事になる。講習会でも、歴史の勉強から始まった。
正式名称は、心身改善臼井靈氣療法という。1922年、臼井甕男(うすいみかお)氏によって開発された、手当てによる癒しの技術であり、心身の改善を目的とした手技として知られている。
配布された本によると、臼井氏は1865年、岐阜県の谷合村に生まれ、青年時代には数回、欧米や中国へ渡航している。職業も、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家の秘書など、さまざまな経験を積んでいた。
なかでも興味深いのは、後藤新平氏の秘書をしていることだ。後藤新平は医師から出発し、台湾や満州の植民地経営で重要な任務を担い、関東大震災後の東京のグランドデザインに携わって復興に大きく貢献した人物である。
日本に住んだことのある Frank Arjava Petter 氏の著書「This is Reiki(日本語版:「This is 靈氣(レイキ)その謎と真実を解き明かす、聖なるレイキの旅」)」によると、後藤新平が政界で影響力を持っていたためか、臼井氏は陸海軍を含む高層の人たちとの知遇を得たり、諸外国に渡ったりすることができたらしい。

歴史や伝記、医学、当時の新興宗教、キリスト教、仏教、心理学、易学などの知見と、人生経験を積んだうえで臼井氏が達した結論は、人生の究極の目的は安心立命(あんじんりゅうめい)を得ることだ、というものだった。
そこで3年にわたって禅の道に入り、修行を行ったが、悟ることができない。禅師に相談したところ、それなら死んでごらん、と答えられた。そこで京都の鞍馬山にこもり、断食を始める。3週目に、脳の中心に落雷を受けたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明になった。
夜が明け始めた頃、心身爽快な気分に満ちて目覚めた臼井氏は、衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴と一体感を達成し、求めていた悟りの境地に至ったことを知る。
悟りが得られたことを喜び、山を降りる途中で石につまずき、足の指の爪がはがれた。手を当てたところ痛みが去り、血が止まり、即座に治癒してしまったらしい。自分の家族に試したところ同様の効果があったため、広く世の中にこの力の恩恵を与えたいという思いに至る。
工夫と研究を重ね、宗教色を極力排してメソッドをシンプルに体系化した。1か月後には東京の青山、東郷神社のそばに臼井靈氣療法学会を設立する。後藤新平との知遇を得ていた関係で、陸海軍を通じて支配層からの支持を受けることになった。そして翌1923年の関東大震災で、一気に広がる。4年後に臼井氏が亡くなる頃には、2000人の施術者と、日本全国に40か所の支部があったそうだ。
臼井靈氣療法学会は現在まで存続しているが、転機を迎えたのが第二次世界大戦後だった。
米国のロックフェラーや米国医学会が中心になって進めてきた対症療法の政策が、そのままGHQを通じて日本へ普及する。一部の民間療法を除き、科学的でないものは全て禁止の方向へ向かった。参考までに、Petter 氏の著書によると、第二次世界大戦前には100万人の靈氣施術者がいたそうだ。結果として、1987年に西洋レイキという形で逆輸入されるまで、事実上消滅することになる。
REIKIとして世界的に知られるようになったのは、ハワイ在住の日系米国人である高田はわよさんの貢献が大きいと言われている。第二次世界大戦前の1935年、心臓、胃、肺、胆のうを患い、余命が短いという宣告を受けたはわよさんは、日本へ病気療養に向かった。病院で大手術を受けることになるが、手術は必要ない、という内なる声が聞こえたそうだ。
そこで医師に相談し、手術以外に助かる方法はないかと聞いたところ、治るのに時間がかかるかもしれないが、それでもよければ紹介する、ということで、林靈氣研究会を設立した林忠次郎先生を紹介される。林先生は臼井氏の弟子の一人であり、海軍大佐であり医師でもあった。8か月に及ぶ靈氣治療により、はわよさんは奇跡的に回復されたそうだ。
以上は配布された本に記載されていた内容だが、師範の鎌田孝美さんによると、内なる声が聞こえたというエピソードは事実ではないらしい。ハワイで、はわよさんに靈氣の手当てをして治癒に向かわせた日本語教師と宣教師の二人の影響で、すでに靈氣の効果を実感していたとのことだ。最初に日本へ向かったときには、すでに林先生のもとで靈氣施術者になろうと決意しての滞在だったそうである。
参考までに、信濃町にあった林先生のクリニックには8台ほどのベッドがあり、16人の靈氣治療家が治療にあたっていたという。
はわよさんは靈氣の素晴らしさに心を打たれ、1933年にハワイへ林先生を招聘し、靈氣の技術を修得した。40年後の1978年から靈氣を教え始め、22名の指導者を育成する。配布された資料によると、現在では300万人もの人々がREIKIを実践しているとのことだ。現在、国際的なREIKIの団体としては、高田はわよさんの孫娘であるフィルス・フルモトさんが代表を務めるレイキ・アライアンス協会と、バーバラ・レイさんが代表を務めるラディアンス協会がある。
簡単に、歴史的な流れについて書いた。次のコラムでは、西洋レイキと日本の靈氣との違い、および靈氣とは何かについて紹介したい。
2026年8月の注記
この記事が追っているのは、一つの技術が国内で消え、外へ出て、形を変えて戻ってくる過程である。
大正に日本で生まれ、戦前には100万人の施術者がいた。戦後の政策で事実上消滅する。ハワイ経由で欧米に広まり、1987年に逆輸入される。
同じ経路を通ったものが、他にもある
禅がそうだった。明治の廃仏毀釈で打撃を受けた仏教が、生き残るために自らを合理的で非教条的な心の科学として再定義する。西洋の批判に応答して作られた自己像が、そのまま輸出品になった。鈴木大拙が英語で書き、アラン・ワッツが広め、1950年代の米国で受け入れられ、やがて日本人の禅理解そのものを組み替えて戻ってくる。
ヨガも近い経路をたどっている。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』も、龍安寺の石庭が世界的に知られていく過程も、同じ構造の中にある。
靈氣も、その一つだ。ただし違いがある。禅もヨガも、形を変えながら国内に残った。靈氣は、いったん途切れている。
戻ってきたものは、出ていったものと同じではない
次回のコラムで、西洋レイキには後から加えられた要素があると書くことになる。邪気から人を守るという考え方や、チャクラという枠組みである。原型に手が加えられている。
これも、環流に共通する現象だ。西洋が受け取ったものは、西洋が受け取りやすい形に整えられている。そして整えられた形が、元の国に戻ってくる。
環流が、環流していないものを掘り起こした
面白いのは、私が学んだ直傳靈氣が、この環流の外にある系統だという点だ。
1987年に西洋レイキが逆輸入され、日本で靈氣が見直されるようになった。すると、ルーツを探る動きが出てくる。そこで、GHQによって潰されたと思われていた臼井靈氣療法学会が存続していたこと、そして林忠次郎から直接教えを受けた山口千代子さんが、1938年に17歳で学んで以来65年にわたって実践し続けていたことが、1999年に知られるようになる。
逆輸入されたものが広まったからこそ、消えていなかった系統が見つかった。環流が、環流していないものを掘り起こしたことになる。
そして、私にそれを教えたのは、フランクフルト在住のロルファーだった。日本の技術を、ドイツに住む日本人から、東京で受け取っている。
配布資料の記述を、その場で訂正している
もう一つ、この記事には小さいが重要な場面が記録されている。
配布された本には、高田はわよさんが病院で大手術を受ける直前、手術は必要ないという内なる声を聞いた、と書かれていた。師範の鎌田さんは、それは事実ではないと述べた。ハワイで靈氣の手当てを受けて効果を実感していたので、最初から林先生のもとで施術者になるつもりで日本へ向かったのだ、と。
教材に書かれた劇的な逸話を、教える側がその場で崩している。しかも、より地味な事実の方向へ。
伝わりやすい話が残り、地味な事実が落ちていく。それが環流の中で起きることである。この訂正は、その流れに逆らっている。





