2015年10月9日から12日まで、Source Point Therapy(ソースポイントセラピー、以下SPT)のトレーニングのため大阪に滞在している。初日の模様は別に書いた(「「人間として形付けられるために必要な元となる情報」=「ブループリント」を知ること」参照)。2日目と3日目を紹介する前に、トレーニング全般について考えてみたい。
大阪に来てよかったのは、東京から離れられたことだ。17日間にわたるチネイザンのトレーニングを、冷静に振り返ることができるようになった。
SPTのトレーニングは、チネイザンとは違い、手技について100パーセント腑に落ちる。シンプルだし、明日から自信を持って実践できるような仕組みになっている。もちろんヒロさんの人柄もあるのだと思うが、人の長所を伸び伸びと伸ばしてくれる。安心して、自分なりの学び方で学ぶことができている。人が集まってくる場とはどういうものなのか。なぜヒロさんに人はついていくのか。本当に勉強になる。
対照的に感じたのが、チネイザンのトレーニングだった。大内さんとの再々試験のフィードバックは、自分にとって有意義であったと同時に、自分はどういうことを言われるとモチベーションが上がるのかを考えるきっかけにもなった。
有意義なフィードバックがあったことは認める。ただ、自分の中で首をかしげるようなものもあった。
例を挙げると、トレーニングの初期のころ、特定の人としか接していない場面があったこと。スマートフォンを見ることが多く、周囲と接することに配慮せず閉じこもっているのはよくないこと。特定の人に接することで、その人が他の人と接するのを邪魔し、迷惑をかけていること。そういったものだ。
私自身、セミナー中は自分の世界に閉じこもりたいと考えることもあるし、集中するために人に気を使いたいとはあまり思わない。それも自分の学び方の一部だからだ。伸び伸びと学びたいのに、その学び方の行動が否定されているように感じた。
そういったことを無意識に感じていたのか、トレーニング中は気を休めることなく、緊張感をもって臨まざるを得なかった。体調も良くなく、疲れも出た。失敗が許されない雰囲気を含め、自分の力を発揮できなかったことが、中間試験と最終試験の結果に現れたと確信している。
自分の個性が発揮できなかったことに配慮がないうえに、人を人として見るのではなく、物や書籍から人を見ている、と言われた。自分の学び方の行動を、クライアントとつながっていないという見方につなげて断定される。正直、理解に苦しんだ。チネイザンの練習のモチベーションが上がらず、やめようと思っていること、腑に落ちていないこと。確かに自分の能力の問題もあるかもしれないが、トレーニングの雰囲気も大きくものを言うと感じる。
なぜ、こういった違和感を覚えたのか。
おそらく Giovanni の Phase II を受けたことが大きい。あの教育は、チネイザンで受けたフィードバックとは真逆だったからだ。

Giovanni 先生は、安全な学びの環境を整えるために場のホールドを大事にしていた。スマートフォンを見ようが、寝ていようが、ご飯を食べていようが、特定の人と話していようが、まったく注意を受けることなくトレーニングが進んでいく。それはその人の学び方であり、それを最大限尊重しているからだ。
ただ、完全に放置しているわけではない。少しでも悲しんだり悩んだりしている場面があれば、すぐに別の部屋へ呼ばれる。周囲に聞かれないよう配慮したうえで、悩みをそっと聞き、手を差し伸べてくれる。Phase II では、誰と組んでセッションを行うかを決める際にも、苦手な人がいる場合は必ず紙に書いてほしい、というところまで配慮があった。
クライアントとのつながり方についても、十人十色であることを Giovanni 先生は熟知していた。生徒がそれを掴むまで待つという姿勢が表れており、自分の持っている正解を相手に押し付けることもまったくなかった。もちろん能力の否定もなかった。
そして、最終面談で受けたフィードバック。Giovanni 先生の考え方がよく表れており、非常に具体的で、行動に直結するものになっている。
一部を紹介すると、生徒が能力を発揮できるのはどの方面かという項目では、すべての項目で進歩が見られる、特に施術の技術と、目的と戦略をどう繋げるかについては大きな進歩が認められる、土台を築きつつ自分の経験から物事を判断しているところがいい、というものだった。
サポートが必要なのはどの方面かという項目では、自分やクライアントにスペースを与えることでセッションを行いやすくなる、さらにそれによりフェルト・センスに磨きがかかり、セッションを行う際の手助けになると思う、とあった。フェルト・センスとは、言葉になる前の身体感覚のことだ。
これらのフィードバックを受けて、どれだけ勇気づけられたか。ボディワークの世界で生きようとしている自分にとって、どれほど励ましになったか。今のロルフィングにさまざまなクライアントが来てくださっているのも、こういった言葉をかけられたおかげだと思っている。
大阪滞在中の10月9日の夜、知人に会ったときに、教育において自由と秩序のバランスが重要だということが話題になった。どちらに重点を置くかによってトレーニングは変わっていく。おそらく生徒一人ひとりが、先生を選ぶ際に自分は何を必要としているのか、その意識によって先生との相性が決まるのだろう。
もう少しでトレーニングは落ち着く。いざ自分が教えるとき、どういったことに注意を向けるのか。考えるよいきっかけになっているのは間違いない。
2026年8月の注記
この記事の主題は、先生を選ぶことの大切さである。ただ、当時の私に書けたのは、自分がどう扱われたかを二つ並べることだけだった。安心して学べたか。自分の学び方が尊重されたか。基準というより、印象の比較である。
10年後、継続トレーニングの講座を選ぶときに何を見ているかを、4つの基準として整理した(「継続トレーニングをどう選ぶか〜講座を選ぶときに見ている4つの基準」参照)。その1つ目が、フィードバックが観察に基づいているかどうか、である。
この記事に書いたことが、そのまま基準になった。
二つのフィードバックの違い
Giovanni の最終面談は、二部構成だった。どの方面で能力を発揮できるか。どの方面でサポートが必要か。前者では、施術の技術と、目的と戦略をどう繋げるかに大きな進歩が認められる、と書かれていた。後者では、自分やクライアントにスペースを与えることでセッションを行いやすくなる、と書かれていた。
どちらも、観察された行動について述べている。そして、次に何をすればよいかが分かる。
もう一方のフィードバックは、形が違った。スマートフォンを見ることが多い、特定の人としか接していない、という観察から始まり、人を人として見るのではなく物や書籍から人を見ている、という断定へ進む。そして、クライアントとつながっていない、という結論に至る。
観察から人格へ、一足飛びに移っている。当時の私は、この違いを違和感としか書けなかった。理解に苦しんだ、と書いている。
言葉になるまでの10年
その後、講座を選ぶ機会が増えた。認定を維持するために継続教育の単位が要り、どの講座を取るかは自分で決められる。基礎トレーニングでは選べなかったものが、選べるようになった。
そこで何を見ているのかを言葉にしたのが、4つの基準である。フィードバックが観察に基づいているか。何を教えないかが決まっているか。技法ではなく原理を扱うか。そして、その講師が自分で言っていることを実際にやっているか。
1つ目の基準の出所は、この記事である。2015年10月、大阪のトレーニングの合間に、東京から離れたことで冷静に振り返れるようになった、と書いた場所だ。
もっとも、基準が使えるのは選択肢が並んでいるときに限られる。この記事に書いた二つの教育は、どちらも自分で選んだものではない。Giovanni は Phase II の担当教師として割り当てられた人であり、チネイザンのトレーニングは受講した課程の一部だった。選べない場で受け取ったものが、後に選ぶための基準になった。
2025年のアドバンスト・トレーニングでは、Ray McCall と田畑浩良さんから在り方を学んだ。施術者がどういう状態でクライアントに向き合うか、という主題である。ここでも、教える側の在り方が問われていた。この記事の最後に、いざ自分が教えるときに何に注意を向けるのか、と書いている。10年経って、その問いはまだ続いている。







