カテゴリ:「身体の科学|筋膜研究・エビデンス」

はじめに
筋膜は、長いあいだ解剖学の「脇役」だった。筋肉や臓器を観察するために、その周りを覆う結合組織は丁寧に取り除かれ、廃棄されてきた。教科書に描かれるのは、きれいに掃除された筋肉であって、それを包み、つなぎ、全身へと連続していく膜ではなかった。
だからこそ、
「全身の筋膜を、三次元のまま、一体の標本として見る」
ことには特別な意味がある。
FR:EIA(フレイア、Fascia Revealed: Educating Interconnected Anatomy、筋膜を明らかにする ── 相互に連結した解剖を学ぶ)は、その世界初の試みだ。
本記事では、FR:EIA がどのようなプロジェクトから生まれ、何を可視化し、そして「何を可視化していないのか」までを、身体の【科学】という視点から整理する。過度な神話化を避け、この標本が持つ意義と限界の両方についてまとめたい。
プラスティネーションという技術
これは、解剖学者・医師 Gunther von Hagens が開発した技法で、生体組織に含まれる水分と脂肪をポリマー(樹脂)に置き換えることで、腐敗せず、乾燥もせず、半永久的に保存できる標本をつくる。von Hagens 博士が世界各地で展開してきた人体標本展「BODY WORLDS(人体の不思議展)」は、この技術によって成り立っている。
プラスティネーションの利点は、組織の三次元的な立体構造をそのまま固定できる点にある。この特性が、「全身にわたって連続する筋膜のネットワークを、崩さずに立体で見せる」という、従来の解剖では不可能だった表現を可能にした。
Fascial Net Plastination Project(FNPP)
FR:EIA を生んだのは、Fascial Net Plastination Project(FNPP、筋膜ネット・プラスティネーション・プロジェクト)である。
このプロジェクトは、ロルファーであり、筋膜の研究の第一人者の Robert Schleip 博士が2018年に立ち上げたもの。BODY WORLDS の技術チームと Fascia Research Society(筋膜研究学会)が協働する学際的なプロジェクトとして進められた。解剖学・解剖技術・プラスティネーションの専門家が国際的に集まり、約3年をかけて「全身の筋膜ネットワークを、一体の標本として立体的に見せる」という野心的な目標に取り組んだ。
その成果として完成したのが、世界初の全身3D筋膜プラスティネート、FR:EIA だ。名称は Fascia Revealed: Educating Interconnected Anatomy(筋膜を明らかにする ── 相互に連結した解剖を学ぶ)の頭文字から名づけられている。
「筋膜を見せるために、筋膜を取り除く」
FR:EIA の制作で最も興味深いのは、その根底にある逆説的な思想だ。
制作チームのデザイン兼共同解剖リードを務めた解剖学者 Gary Carter は、この標本について重要な誤解を先回りして解いている。「全身の筋膜」と聞くと、多くの人は身体全体が蜂の巣状(ハニカム)の網で覆われた姿を想像する。しかし FR:EIA はそういうものではない、と彼は語る。
もし全身の筋膜をすべて残せば、それは単なる白い膜のかたまりになり、かえって何も見えなくなる。そこでチームは、通常の解剖では取り除かれてしまう筋膜のうち、どこを残し、どこを取り除くかを一つひとつ判断していった。筋膜を見せるために、あえて筋膜を取り除く ── この選択の連続が、標本に「筋膜への焦点(fascial focus)」を与えた。
制作には、Gary Carter のほかにも多くの専門家が関わっている。プロジェクトは Robert Schleip、Carla Stecco らの指揮のもとで進められ、Body Worlds 側のチーフ解剖学者を Vladimir Chereminskiy が、創造・運営面の統括を Rachelle Clauson(FNPP の Director of Creative and Administrative Affairs)が担った。その周囲には、約40名にのぼるボランティアの解剖チームが加わっている。
世界へのお披露目 ── オンライン公開から、モントリオール、そしてベルリンへ
FR:EIA は、まず 2021年11月24日、1000名を超える参加者が見守るオンライン発表を通じて、世界に初めて公開された。そして翌年(2022年9月)、カナダのモントリオールで開かれた第6回国際筋膜研究会議(6th International Fascia Research Congress)で、実物が初めて対面で披露された。筋膜という結合組織を三次元でそのまま見られるこの標本は、医師・セラピスト・筋膜研究者にとって、他に類のない研究対象として受け止められた。
この披露は、ロルフィング(構造的統合)にとっても、新たな意味を持った。アイダ・ロルフ(Ida Rolf)が1950年代から筋膜を軸に説いてきた「全身はつながっている」という見方に、視覚的な裏づけが与えられたと言っていい。Schleip は、筋膜に働きかけると局所だけでなく全身に効果が及びうること ── 筋膜は互いに連関し、すべてをつないでいるからだ ── を指摘し、FR:EIA がこの考えに、あらためて今日的な意義を与えた、と述べている。
制作は von Hagens 博士の施設「Plastinarium」(ドイツ・グーベン)で行われ、完成した標本は現在、ベルリンの BODY WORLDS 博物館に常設展示されている。博物館は筋膜研究への社会的関心の高まりを受けて、筋膜プラスティネートのための専用エリアを新設しており、FR:EIA はその中核をなしている。
なお、欧州ロルファー協会(European Rolfing Association、ERA)は、この筋膜研究の意義を広く伝えるため、ベルリンの BODY WORLDS 博物館と協力関係を結んでいる。
なぜ、3年もかけたのか ── この試みの、何が面白いのか
FR:EIA を「珍しい標本」で終わらせないために、ここで踏み込んでおきたい問いがある。なぜ、国際的なチームが3年もの時間をかけて、これを作ったのか。そして、それにどんな価値があったのか。
およそ500年、解剖学は筋膜を「捨ててきた」
冒頭で触れたように、筋膜は長らく解剖の場で捨てられてきた。だが、それは単なる不注意ではない。ルネサンス期のヴェサリウス以来、近代解剖学は「標本をきれいにする」ことを作法として発展してきた ── 筋肉や臓器の形を正確に観察するには、それらを覆う膜を取り除くのが、むしろ正しい手続きだったのだ。つまり近代解剖学は、その方法そのものの中に「筋膜を見ない」という盲点を組み込んでいた。
FR:EIA が面白いのは、それが単なる展示物だからではない。およそ500年続いてきた身体の「見方」そのものに、問いを投げかけているからだ。掃除され、捨てられてきた組織を、初めて標本の主役に据えた ── これは技術の話であると同時に、人体に対する見方の転換の話でもある。
「見えないもの」は、研究できない
筋膜が重要だという主張は、アイダ・ロルフをはじめ、多くの臨床家が経験的に語ってきた。だが、その主張には決定的な弱点があった。全体を「見せる」手段がなかったことだ。
地図のない大陸について語るようなもので、いくら「そこにある」「重要だ」と言っても、誰もが検分できる対象がなければ、議論は宙に浮いてしまう。3年という時間の多くは、この「見えないものを、見えるようにする」という一点に費やされた。
なぜ、そんなに難しいのか
全身の筋膜を一体の標本として残すことは、技術的にきわめて難しい。
ひとつは脂肪の問題だ。脂肪は保存できないため溶かし出す必要があるが、浅い層の筋膜は、蜂の巣状の構造の中に脂肪を「蜂蜜」のように抱えている。蜂蜜(脂肪)を抜けば、巣(筋膜)はしぼんでしまう。膨らみを保ったまま、その繊細な構造を残すこと自体が難題だった。
さらに、全身の連続性を保ったまま解剖・固定しなければならない。あとから組み立て直すことはできない。一体の献体に対する、取り消せない判断の連続 ── 切ってしまえば、二度と戻せない。3年という時間は、この一発勝負の緊張の中で積み重ねられた。
「何を残し、何を捨てるか」── 判断そのものが、この標本の中身だ
先に触れた「筋膜を見せるために、あえて筋膜を取り除く」という選択 ── 実は、この判断の連続こそが、最も本質的な困難であり、同時に、この標本の中身そのものでもある。
どこを残し、どこを取り除くか。その無数の判断を通して、作り手たちは「筋膜の何が重要か」を一つひとつ決めていった。だから FR:EIA は、「現実をそのまま写した中立な写真」ではない。その解釈と主張を、物体として体現したものだ。この標本には、作り手たちのまなざしそのものが刻まれている。だからこそ、単なる保存物ではなく、一つの知的な作品だといえる。
価値 ── 「比喩」を、「物」に変えた
では、その3年は何を生んだのか。
FR:EIA が登場する以前、「すべては筋膜でつながっている」という言葉は、臨床的な直感であり、ときにスローガンのように響くものだった。それが FR:EIA 以降、歩いて一周できる、目の前の物体になった。信念や比喩の領域にあった主張が、誰もが検分できる共有された対象へと移されたのだ。
これは、新しい事実の発見ではない。だが、ヴェサリウスが新しい臓器を発見したのではなく、身体の「見方」を変えたのと同じ意味で、FR:EIA もまた見方を変えた。整形外科・理学療法・オステオパシー・ボディワークといった、これまで別々に筋膜を語ってきた領域に、共通して指させる一つの参照点を与えた。筋膜を「背景・梱包材」から「主役」へと押し上げたのだ。 Schleip が、FR:EIA を「従来の解剖学の歴史的な拡張」と表現したのも、この転換の大きさを踏まえてのことだろう。
3年の価値は、派手な効果証明にはない。「見えなかったものが、見えるようになった」── それによって、筋膜をめぐる会話そのものの土台が変わった。この転換こそが、この試みのいちばん面白いところだ。
キュレーターの証言 ── アンジェリーナ・ウォーリーが見たFR:EIA
FR:EIA が「どのように作られたのか」については、貴重な一次資料がある。Dr. Ida Rolf Institute の機関誌『Structure, Function, Integration』(2022年7月号)に掲載された、Body Worlds のキュレーター・医師のAngelina Whalley へのインタビューだ。彼女は von Hagens とともに歩んできた解剖学者であり、Body Worlds の展示を構想・デザインしてきた人物で、その作品はこれまでに5,200万人以上に届けられている。
まず印象的なのは、Whalley 自身の率直な告白だ。過去二百年の解剖学者たちと同じように、Body Worlds のチームもまた、これまで筋膜を「解剖の廃棄物」として切り取り、捨ててきた ── そう彼女は認めている。その姿勢が変わったのは、筋膜研究者の Schleip がこのプロジェクトを持ちかけたときだった。本記事が描いてきた「捨てられてきた筋膜」という主題を、ほかならぬ制作側が裏づけている。
制作の難しさを、Whalley はひとつのたとえで語る。ピーナッツ菓子を思い浮かべてほしい ── ナッツが骨や筋肉、それらをつなぐキャラメルが筋膜だ。もしキャラメル(筋膜)を見せたいなら、中を見るために、まわりを壊していくしかない。ここでも「見せるために壊す」という逆説が顔を出す。
規模も並大抵ではなかった。とりわけ脂肪を多く含む浅い層の筋膜の扱いは難しく、Body Worlds のチームによる解剖だけで800時間、さらに Fascia Research Society のボランティアが3,000時間を費やした。三年という歳月は、この膨大な手作業の積み重ねだった。
完成した姿勢にも、物語がある。当初の案は、右腕を上げ、手に心臓を掲げるものだった。だが、それはどこか「心臓を投げ捨てている」ようにも見え、筋膜に焦点を当てるはずの標本で、心臓が主役になってしまう。最終的に選ばれたのは、腕を下ろした、踊るような姿勢 ── 伸び、しなやかさ、動きを映す、筋膜の標本にふさわしいポーズだった。
そしてとりわけ興味深いのが、ベルリンの展示に添えられた「体験」の仕掛けだ。
来場者はまず前屈をする。次に、両足の裏の筋膜を、フォームローラーでほぐす。そしてもう一度、前屈する。すると多くの人が、さきほどより深く手が届くことに驚く ── 触れたのは「足の裏」だけなのに、である。全身がつながっているという筋膜の連続性を、頭ではなく身体で実感させる仕掛けだ。会場には、骨は圧し合って積み重なっているのではなく、筋膜の張力の線の中に浮かんでいる、というテンセグリティの模型も置かれている。
Whalley は、この展示の意義をこう語る。筋骨格系の痛みは、必ずしも関節から来るのではなく、筋膜から来ることもある。その知識こそが、身体への向き合い方や使い方を変えていく、と。専門家だけでなく、ヨガを通じて筋膜を知る人も含めた多くの人が、この標本に見入っている。
この手法で「何がわかる」のか ── 筋膜が見せてくれる3つのこと
FR:EIA は、劇的な新発見をもたらす装置ではない。すでに解剖学的に知られている構造に、これまでにない見え方を与えたものだと考えるのが正確だ。ただ、その新しい見え方には、他の手法では捉えにくい情報が確かに含まれている。全身の筋膜を三次元のまま固定するという手法が明らかにするのは、主に次の3つだ。
1. 身体は「途切れずに」つながっている
従来の解剖では、筋肉や臓器を見やすくするために筋膜が取り除かれる。その瞬間に、筋膜が持っていた「つながり」は失われてしまう。一方、超音波やMRIといった画像診断は、生きた組織を見られる代わりに、ある断面・ある部位しか映せず、全身の連続性を一枚の像として捉えることはできない。
FR:EIA が示したのは、その中間を埋めるものだ。頭から足先まで、筋膜が途切れることなく連続する一つのネットワークとして立体的に保存されている。「筋膜は身体を貫いてつながっている」という言葉は、これまで多くの実践家が経験的に語ってきたが、それを一体の標本として目に見える形にしたのが FR:EIA だといえる。
2. 筋膜は「力を伝える」通り道になる
つながっているということは、ある場所にかかった力が、離れた場所へ伝わりうるということだ。近年の研究では、筋肉と筋肉のあいだで、筋膜を介して力が伝達されること(筋筋膜的な力の伝達)が示されてきた。ERA の学術顧問でもある Peter Huijing の骨格筋の力伝達研究は、その代表的な系譜の一つだ。歩行のような全身運動においても、筋膜を通じた張力の受け渡しが動きを支えていると考えられている。
FR:EIA は、この「力が通りうる道筋」を、連続した組織として可視化する。ふくらはぎの緊張が、なぜ背中や首の状態と無関係ではいられないのか ── その解剖学的な下地を、標本は示している。
3. ただし「構造」だけでは足りない ── 生きた筋膜の性質
ここで正直に区別しておきたい。FR:EIA が見せるのは、あくまで固定された、動かない、死後の「構造」だ。しかし、筋膜がボディワークにとって興味深い組織である理由の多くは、生きた身体でしか現れない性質にある。それらは FR:EIA そのものではなく、別の研究群によって明らかにされてきた。
たとえば、Schleip らの研究は、筋膜が身体で最も豊かな感覚器官の一つであり、膨大な数の神経終末を含んでいる可能性を指摘している。また、筋膜には筋線維芽細胞(myofibroblast)が存在し、平滑筋のようにゆっくりと収縮しうるという仮説も提示されている。さらに、筋膜は自律神経系とも密接に関わっていると考えられている。
つまり全体像は、「FR:EIA が示す構造の地図」と「生きた筋膜の機能を扱う研究」を重ね合わせて、はじめて見えてくる。手技が身体に働きかけたときに何が起きうるのかを考えるには、構造だけでも機能だけでも足りない。両方が必要なのだ。
ロルフィング・ボディワークとの関係
アイダ・ロルフの出発点
ロルフィングの創始者アイダ・ロルフは、「身体は筋膜によって組織化されており、重力の中でその構造を再編できる」という考えを出発点にした。硬く縮んだ筋膜にていねいに働きかけることで、身体全体のバランスを重力との関係の中で整えていく ── これがロルフィングの根本にある発想だ。ロルフは「すべては筋膜を通じてつながっている」という趣旨のことを繰り返し語っていたと伝えられている。
FR:EIA は、この出発点に「目に見える下地」を与える。身体が個々の部品の寄せ集めではなく、連続した一つの膜のネットワークとして立ち現れる姿は、ロルフィングが前提としてきた身体観と、そのまま響き合っている。
Anatomy Trains ── ロルフィングから生まれた「地図」
この身体観を、より体系的な地図にまとめたのが、Tom Myers の Anatomy Trains(アナトミー・トレイン)だ。Myers はアイダ・ロルフのもとで構造的統合を学んだ実践家であり、1990年代に Rolf Institute で筋膜解剖を教えるなかで、この概念を発展させた。ロルフの「すべては筋膜でつながっている」という主張を、具体的な連結として描き出そうとしたのが出発点だった。
Anatomy Trains では、全身を走る複数の「筋筋膜経線(myofascial meridians)」が示される。たとえば身体の背面を縦に貫く「スーパーフィシャル・バックライン」を一本の線として捉えると、ハムストリングだけを見ていては得られない、姿勢や動きの全体像が見えてくる ── という発想だ。ロルフからマイヤーズへと続くこの流れは、ロルフィングとボディワークが「全身のつながり」をどう捉えてきたかを、よく物語っている。
なぜロルフィングは「全身」を、「順序立てて」扱うのか
筋膜が連続しているなら、ある場所の制限は、離れた場所に引っぱりを生む。だからロルフィングは、痛みのある一点だけを揉むのではなく、10回のシリーズを通じて身体全体を順序立てて扱う。表層の筋膜から深層へと段階的に進んでいく「10シリーズ」の構成も、筋膜が層をなして重なっているという構造と対応している。
FR:EIA が可視化した「連続し、層をなす筋膜」という下地は、こうしたロルフィングの進め方が、なぜそのような形をとっているのかを理解する助けになる。
どこまでが言えて、どこからが言えないのか ── 誠実な境界線
ここまで筋膜とロルフィングのつながりを描いてきたが、行き過ぎないために、境界線を明確に引いておきたい。
第一に、FR:EIA は一体の献体から作られた単一の標本であり、統計的な母集団を代表するものではない。そして、それが示すのは固定された「構造」であって、生きた組織の滑走性や可塑性、ましてや「手技によって筋膜が変わるかどうか」や「臨床効果」を証明するものではない。可視化は可視化であって、効果の証明ではない。
第二に、筋膜の連続性(Anatomy Trains の筋筋膜経線)は、解剖研究によって一部は裏づけられ、一部は未確認という段階にある。
Jan Wilke らの検証では、背面のラインのように連続性が支持された経線がある一方で、身体前面のライン(スーパーフィシャル・フロントライン)のように、解剖学的な連結が確認されていない部分もある。Myers 自身も、Anatomy Trains を確立した事実としてではなく「有用でありうる一つの地図」として提示している。FR:EIA は連続性を可視化するが、提案されているすべての経線を検証するものではない。
つまり、FR:EIA と筋膜研究が確かに示しているのは、「筋膜は、独立した、連続する、感覚に富んだ、真剣に扱うに値する組織である」という前提の妥当性だ。それは、ロルフィングが働きかける対象が、実在する確かな組織だと示している。一方で、それは「ロルフィングが効く」ことを証明するものではない。効果の検証は、Katja Bartsch や Robert Schleip らが取り組む、また別の研究課題である。
技術が確立すると、この先どこへ向かうのか
ここまで見てきたように、FR:EIA の最大の困難は「筋膜だけを、崩さずに保存する」という技術そのものにあった。実は、過去にも似た試みはあったが、脂肪をうまく除去できず、いずれも棚上げされていた。FNPP がまず小さな部分標本から始め、「プラスティネーションが筋膜だけを取り出したときにどう振る舞うか」を一つずつ確かめていったのは、この技術を確立するためだった。
その技術がひとたび確立し、再現可能なものになれば、筋膜研究はいくつかの方向へ広がっていく可能性がある。
1. 「一体」から「多数」へ ── 比較という視点
現在の FR:EIA は、いわば一枚の見本(n=1)だ。しかし技術が安定すれば、複数の身体を同じ方法で標本化できる。年齢・性別・運動習慣の違い、あるいは慢性的な痛みや姿勢の偏りを抱えた身体と、そうでない身体 ── それらの筋膜の構造を並べて比べられるようになる。「筋膜がつながっている」という一般論から、「どういう身体で、どこがどう違うのか」という具体へと、問いが進みうる。
2. 教育の共通言語になる
すでにこの動きは始まっている。FNPP が制作した部分標本のコレクションは、2023年にイタリアのパドヴァ大学へ長期貸与され、医学生の解剖教育に用いられている。パドヴァは、筋膜解剖学の第一人者カルラ・ステッコ(FR:EIA の解剖顧問でもある)が拠点とする大学だ。
かつて筋膜を「見る」には、限られた解剖実習の場に立ち会うしかなかった。壊れず、匂わず、半永久的に残る標本は、その経験を世界中の教育現場へ開いていく。筋膜が、専門家だけの暗黙知ではなく、誰もが同じ対象を指しながら学べる「共通言語」になりうる。
3. 生きた身体の画像と、つなぐ
プラスティネートは、動かない代わりに、三次元の「正解」の解剖を保持している。これは、超音波やMRIといった生体イメージングにとって貴重な参照点になる。生きた身体で撮った不鮮明な像が、実際にはどの構造を映しているのか ── 固定標本と照らし合わせることで、生体画像の解釈の精度を上げられる。Katja Bartsch が取り組む超音波による筋膜の可動性評価のような研究とも、この点でつながっていく。
構造(プラスティネート)・生きた構造(画像)・機能(力学や神経の研究)── この三つが噛み合ってはじめて、筋膜という組織の全体像に近づける。技術の確立は、その一つ目の脚を、より確かなものにする作業だといえる。
変わらない限界
ただし、技術がどれほど洗練されても、先に見たとおり、プラスティネートが「死後の、固定された構造」である事実は変わらない。それが万能の手法になるわけではなく、生きた身体を扱う研究と組み合わせて初めて意味を持つ、一つの視点であり続ける。
おわりに
FR:EIA は、劇的な効果証明でも、万能の証拠でもない。一体の標本が示しているのは、「筋膜という組織を、正面から見る」という態度と、それが実在する連続体だという確かな下地だ。長らく掃除され廃棄されてきた組織が、初めて全身標本の中心に据えられた ── この転換そのものが、筋膜研究という分野の発展を象徴している。
ロルフィングが働きかける対象である筋膜が、いま世界の博物館で、独立した研究・教育の対象として展示されている。その前提が妥当だとして、では自分の身体で実際に何が起きるのか ── それを確かめるのは、頭の中の判断ではなく、ご自身の身体である。この分野は、「疑似科学」という一語だけでは捉えきれない広がりの中で、いまも前へ進んでいる。
参考リンク
- BODY WORLDS: FR:EIA
- Whalley A, Hack LA. Fascia Insights: Curating FR:EIA, the First Full-Body Fascia-Oriented Plastination Exhibit.Structure, Function, Integration: The Journal of the Dr. Ida Rolf Institute. 2022;50(2):4–9.
- Fascial Net Plastination Project(Wikipedia)
- Fascial Net Plastination Project 公式YouTubeチャンネル
- Fascia Research Society
- Tom Myers, Anatomy Trains: Myofascial Meridians(4th ed., Elsevier)
- European Rolfing Association: Scientific Research
- Ida P. Rolf Research Foundation
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大塚英文(Ph.D.)|認定アドバンスト・ロルファー™/ロルフ・ムーブメント・プラクティショナー
東京大学大学院医学研究科博士課程修了。外資系製薬会社でメディカル・マーケティング業務に従事した後、2015年より渋谷でロルフィング®セッションを提供。「科学と実践の統合」をテーマに活動。
