なぜ、力を抜こうと思っても抜けないのか──そのままに在ること(allowing)とは何か

ボディワークのセッションを受けると、人生はなぜ変わるのか(第3回|全4回)

はじめに

力を抜いてください、と言われる。抜こうとする。抜けない。もう一度言われる。今度は、抜こうと頑張る。さらに固くなる。セッションの場でも、よく起きることだ。そして、こう思う人が多い。自分は力の抜き方が下手なのだ、と。

そうではない。抜こうとしているから抜けない。

第1回では、立ち方や呼吸が、考えるより前のところで決まっていることを見た。第2回では、人が空間に対して向きを持っていること、そして向かっている先が表層、そこから向かっている身体が中心であることを見た。

全体の見取り図は、総論のページにまとめている。

今回取り上げるのは、3本目のそのままに在ること(allowing)と意志(will)である。

力を抜こうとするのも、意志である

Jeffrey Maitland が、ここで1つの区別を立てている。

能動(active)と受動(passive)の区別は、意志(will)とそのままに在ること(allowing)の区別とは別のものだ、と。そして、能動も受動も、どちらも意志の形である、と書いている。

何かをしようとするのは、意志だ。これは分かりやすい。問題は、何もしないでいようとするのも、同じく意志だということである。動かないでいよう、と決めている。待とう、と決めている。力を抜こう、と決めている。どれも、決めている時点で意志が働いている。

だから、力を抜こうとして抜けないのは、当たり前のことになる。抜こうとする働きが、抜けている状態と両立しない。

前回の4つの水準に重ねると、位置がはっきりする。Maitland は、表層とは自我としての自己(ego-self)であり、意志であり、世界への向きである、と書いている。そして中心とは、真の自己(true self)であり、そのままに在ることであり、そこから世界へ向かっていく、向かう元の場所である、と。1つの文の中に、3つが並べて書かれている。

だから、力を抜こうとして抜けない、というのは、自我としての自己の側から、中心に手を伸ばそうとしている、ということになる。伸ばしている手そのものが表層なので、届かない。

ここで、意志が悪いものとして扱われているのではない、と断っておきたい。Maitland は逆のことを書いている。自己と意志は、1つのことの2つの面として同時に生まれる。意志がなければ、自由は実現できない。創造的な仕事も、変容も、意志なしには成し遂げられない。人は、自分の決断と行為の中で、自分が誰であるかに出会っていく。

意志は要る。ただ、意志だけでは届かないところがある、という話である。

こばむ意志の、3つの形

Maitland は、まだ自由になっていない意志を、こばむ意志(unwilling-will)と呼ぶ。変えられることをこばんでいる意志、という意味である。そしてこれが3つの形を取る、と書いている。

1つ目が、意志ずくの受動(willful passivity)である。起きていることから引っ込む。行動を保留する。見ないふりをする。そのうち過ぎ去るのを待つ。どれも、何もしていないように見えて、引っ込むことを選んでいる。

2つ目が、意志ずくの能動(willful activity)である。こちらは逆に、握って、支配して、思いどおりにしようとする。自分にも、他人にも。そうすることで、向き合いたくないものを避けている。

3つ目が、意志と形づくることを手放す受動である。白昼夢。眠ってしまうこと。気が遠くなること。困難の前で、意志そのものを下ろしてしまう形である。Maitland は、これは意志の行為でもなければ、そのままに在ることでもない、とはっきり書いている。

力を抜く、という言葉が向かいやすいのが、この3つめだ。何も感じないようにする。意識をぼんやりさせる。たしかに固さは減るかもしれない。けれども、そこで起きているのは、そのままに在ることではない。

そのままに在ること(allowing)とは何か

では、それは何なのか。

先に断っておくと、そのままに在ること、はこちらで当てた意訳である。原語は allowing で、日常の英語では、許す、させておく、という意味になる。Maitland は、その日常の意味とは違う使い方をすると明言したうえで、この語を選んでいる。日本語で、許す、と訳すと許可の意味になり、まかせる、ゆだねる、と訳すと服従の側に寄ってしまうので、そのままに在ること、とした。

本の説明はこうなっている。そのままに在ることは、することの仕方(a way of doing)ではない。在ることの仕方(a way of being)である。

そして、起きていることに干渉せず、しかも、そこから離れない。この両方が同時に成り立っている状態を指している。手を出すのでもなく、引っ込むのでもない。起きていることと一緒にいる。

第1回の言い方で言えば、これは考える前のところで成り立つ。だから、そのままに在ろう、と決めた時点で、もうそこから外れている。

Maitland は、もう1つ書いている。これは自分が新しく作り出すものではない。深いところでは、常にすでにそうなっている。失われているのではなく、別のもので覆われている、ということになる。

同じ場所を、文法の側から指すこともできる。古代ギリシャ語には、能動でも受動でもない中動態という態があった。する、でもなく、される、でもない。関わりの中で起きてしまう、という形である。姿勢を正そうとして肩を引いた、が能動。肩をマッサージされて動かされた、が受動。触れられたら呼吸が深くなった、が中動になる。この語とロルフィングのニュートラルについては、以前に書いた。

ただ、ここでは Maitland の立て方で通す。中動態の話では、身を委ねる、という言い方をすることがある。彼の allowing は、そうではない。委ねる相手がいるのでもなく、流れに乗るのでもない。起きていることに干渉せず、しかもそこから離れない、という一点だけを指している。

surrender ──諦めることではない

ここで、もう1つ分けておきたい語がある。surrender である。

Maitland は、surrender は決して服従(submission)でも断念(resignation)でもない、と書いている。服従は、こばむ意志のほうの形である。状況と噛み合わないまま、こうするしかない、と自分を押し込む。断念も同じで、変えようとして失敗したあと、手を上げてしまう形になる。

彼の言う surrender は、その場に留まったまま、起きていることを引き受けることである。諦めとは逆の方向を向いている。

セッションの場に当てはめると、違いがはっきりする。クライアントが力を抜いた、ように見える場面は、3つに分かれる。引っ込んで固さだけ隠している場合。意識がぼんやりして感じなくなっている場合。そして、起きていることに触れたまま、干渉をやめている場合。見た目は似ている。中で起きていることは別である。

ひらかれた意志(allowing-will)

ここまでだと、意志を止めればいい、という話に聞こえるかもしれない。Maitland はそう言っていない。

自由はそのままに在ることの中に生まれるが、適切な意志と行為において完成する、と書いている。そのままに在ることは、それだけでは終わらない。そこから出てきたものが、実際の行為として形になって、はじめて完成する。

この、そのままに在ることから出てくる意志を、彼はひらかれた意志(allowing-will)と呼ぶ。葛藤がなく、分裂していない行為のことである。

同じことを、別の分野の人も言っている。シリコンバレーのエグゼクティブ・コーチであるジョー・ハドソン(Joe Hudson)は、頭の欲求には意志の力が必要だが、心からの欲求なら自然と動ける、という言い方をしている。無理に動かしている行為と、そうでない行為は違う、という話である。

第1回で引いた体験記に、こういう一文があった。

とにかくまっすぐ楽に立てている。身体の力が良い意味で抜けている。

福田康子様(会社員)の10回体験記

力が抜けているのに、まっすぐ立てている。抜こうとして抜いたのではない。立とうとして立っているのでもない。両方が同時に成り立っている状態が、ここで言われていることになる。

だから、手で触れる

そのままに在ることが、決めてできるものではないとすると、では、どうすればいいのか。

決めてできない、ということは、本人の意志の外から起きるしかない、ということになる。そこで手が働く。第1回で見たとおり、手が触れているのは、考えで届くところではない。固さが減るのは、本人が減らそうと決めたからではない。

では、何に働きかけているのか。重力の中で身体を組み立てている系のほうである。前回見たとおり、この系はそのまま意味づけの系でもある。だから、そこに触れることは、固さを減らすだけの話にならない。この系については、別のページにまとめている。

セッションの記録にも、この順序が出ている。8回目を扱った回で、歩き方について書いた。本人は、負担のかかる力の入った歩き方を、無意識にしていた。そこで、力を抜いてください、とは言わない。別の歩き方もある、と示す。

新しい選択肢を与えると、違和感を感じるようになる

8回目・力を抜けた歩き方をどう実現するか?〜鈴木佑さん・体験記⑧

違和感が出るのは、これまでの歩き方のほうである。抜こうと決めるのではなく、抜けないでいた理由のほうが崩れる。そして同じ回の終わりには、足裏の力が徐々に抜けている、と書いた。徐々に、という書き方になるのは、決めて抜いたのではないからだ。

そして、触れる側にも同じことが起きている。施術者が、こうしてやろう、と握って手を当てると、相手の身体はそれに応じて身構える。何もしない、と決めて手を抜いても、今度は何も起きない。どちらも意志の側にいる。

この話は、ゼロという言い方で以前に書いた。施術者がゼロに近いほど、起きるべきことが起きる、という形である。老師の言葉から来た語と、現象学から来た語が、同じ場所を指している。

この捉え方の限界

3つ書いておく。

1つは、この区別が、確かめて示す種類のものではないことだ。力を抜こうとしているのか、そのままに在るのか。外から見分ける方法はない。本人にも、その最中には分からない。あとから、あれは違った、と言えるだけである。だから、見分けられると主張する人がいたら、そこは疑ってよい。

2つは、そのままに在ることを求めることが、その人にとって危険として働く場面があることだ。防ぐために固めている身体から、固さだけを取ると、守るものがなくなる。そのままに在ることが先に必要なのではなく、安全が先に必要な場合がある。この本には、その順序についての記述がない。ここは、別の分野の仕事に頼ることになる。

3つは、現場での使い方である。力を抜こうとするのも意志だ、という話を、クライアントに向かって言うと、抜けないことを責められたように聞こえる。この区別は、施術者が自分の手を見直すために使うものであって、相手に求めるものではない。

まとめ

能動も受動も、どちらも意志の側にある。何かをしようとすることだけでなく、何もしないでいようとすることも、意志である。だから、力を抜こうとして抜けないのは、抜き方が下手だからではない。

そのままに在ることは、することの仕方ではなく、在ることの仕方である。起きていることに干渉せず、しかもそこから離れない。決めてできるものではなく、深いところでは、常にすでにそうなっている。意志が表層の側、自我としての自己の側にあるのに対して、こちらは中心の側、真の自己の側にある。

そして、そこで止まるのでもない。そのままに在ることから出てきた意志が、行為として形になって完成する。それがひらかれた意志である。

次回は、ここまでの話が1つにまとまる。なぜ、理想の自分を目指すとうまくいかないのか。限界と可能性の話になる。

参考文献

Jeffrey Maitland, Spacious Body: Explorations in Somatic Ontology, North Atlantic Books, 1995

Jeffrey Maitland, Embodied Being: The Philosophical Roots of Manual Therapy, North Atlantic Books, 2016

いずれも日本語版は出ていない。本文中の訳は筆者による。

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この記事を書いた人

Hidefumi Otsuka